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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第三十六話 沈黙の時間

 カップの中身は、すっかり冷めていた。

 陽は傾きつつあった。氷のように冷えたコーヒーが、向かいの空席を写していた。

 

 十六時を、三分過ぎていた。

 

「十六時」

 

 グラントは誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

 ジャックは几帳面な性格だ。時間に遅れることはまずない。むしろ、時間より三十分以上早く来て読書時間を確保するような奴である。

 

 ……だから、これは異常だ。

 

 端末を取り出して――舌打ち。ジャックの端末は、工房貸与品で公共回線に繋げられない。

 

 着信は、やはりなかった。

 端末のローカル記録に、メッセージログが残っていた。


【先日はありがとうございました。今からペルジャンへ帰ります。 J.R.】


 タイムスタンプは、一緒にノブレサントへ訪れた次の日。ノブレサント邸にある公衆端末(パブリフォン)から発信されている。

 これが、最新。

 

 グラントは眉間を押さえ、椅子の背に体を預けた。

 

(……遅れるなら、ひと言くらい寄越すやつだ)

 

 街中を少し歩けば公衆端末(パブリフォン)がある。

 石畳を走る子どもたちの笑い声。風に乗って菓子パンの匂いが一瞬流れては消える。

 

 だが、グラントの向かいの椅子には、ただ影だけが座っていた。

 

 十分、二十分、三十分。


 限界だった。

 時計の針が十六時を三十分すぎた瞬間、グラントは動いた。音を立てることなく椅子から立ち、上着の裾を払う。


 その足取りはすでに、追跡者のものだった。




 グラントは夕暮れの風に目を細めながら、迷わずローラン邸へと向かった。日没直前の邸宅は、燃えさしのように沈んだ色をしていた。西陽を反射する窓の奥、白いカーテンが揺れるのが見えた。

 

 石段を三段上がると、扉が音もなく開いた。

 アンシーだった。いつもと同じ黒のロングドレス。頭の先から足の先まで整っていたが、左の肩だけわずかに沈んでいた。


 グラントの顔を見て、アンシーの表情が引き締まる。少し間を置いてから、ぽつりと聞いた。

 

「……グラント。どうかしたかね?」

 

「ジャックは帰ってるか」

 

「いいや。まだ出かけたままだよ」

 

 グラントの表情がわずかに強張る。

 

「どこに行ったか、聞いてるか。……今日は十六時に会う約束していた。だが、来なかった」

 

 アンシーのまなざしが一瞬だけ揺れた。

 

「……わからない。書き置きは、なかったが」

 

 一拍置いてから、グラントは言った。

 

「何もないなら、それでいいが」

 

 アンシーが口を開く前に、グラントはすでに歩き出していた。


 

 

 その夜、アンシーはゲストハウスの客間を整えた。

ローラン邸の離れには、来客用の寝室が三部屋ある。だが、グラント用の部屋は最初から決まっている。

 

 戸棚には予備の着替えもある。シャツもズボンも、タオルもスリッパも、彼の癖に合わせて揃えられている。

 

 元々は、長く居着くつもりなどなかっただろう。だが、結果として〝しょっちゅう泊まる男〟は、いつの間にかローラン家の夜に欠かせない空気になった。

 

 いつもと同じ手順でゲストハウスを用意する。

 

 淡いグレーのカバーを敷いて、ベッドサイドの読書灯を点検する。マットレスを押して、皺のある箇所を掌で伸ばす。

 慣れた動作なのに、今夜はどれも微かに噛み合わない。

 

 何もなければ、それでいい。

 朝には、いつも通り、寝癖のままパンを頬張っていてほしい。

 

 ……だが、もしなにかがあったら。

 

 そのとき、この男は〝香特〟に戻る。躊躇うことはないだろう。

 

 アンシーは、ベッドの端に座ったまま、しばらく動かなかった。

 

 手のひらの温度が布地に吸われていく。

 その夜は、やけに長かった。



 

***


 朝、アンシーは静かにジャックの部屋の前に立った。

 そこにはすでにグラントがいた。互いに無言で頷く。

 扉をノックしたが、返事はなかった。

 

 グラントがドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。そっと開ける。

 

 部屋の空気は、昨日の朝と何ひとつ変わっていなかった。

 アンシーは一歩中に入った。呼吸にあわせて、室内の空気が鼻腔に届く。

 

 空気は冷たく、昨日と変わらないままだった。

 壁紙には、使いかけのインクの微かな残り香。敷物には、紙と綿埃が沈殿したような匂いがある。

 何も加えられておらず、何も取り除かれていない。


 どれも、前日から一切動いていない。

 静かに、吐く。

 

「……帰ってきてないね。香りが、まったく動いてない」

 

 呟いたその声に、紙の擦れる音が重なった。

 

 グラントも静かに頷く。

 折り畳まれたままの寝間着。整えられた毛布。

 脱ぎ散らかされた形跡も、帰宅の気配もない。

 

(……消えた)

 

 グラントの脳裏に、過去の現場が蘇る。

 〝消えた〟という言葉に変換されて処理された者たち。とりわけ、子どもたちの末路。多くの場合、その生存率は――。

 

 グラントは胸ポケットから端末を取り出した。

 昨夜、ずっと迷っていた作業をようやく行う。

 旧所属の認証コードを一時復帰。公衆端末の接続記録を引き出す。

 

「何をしている?」

 

「知ってんだろ」

 

「おまえがジャックの端末の製造番号をよこせと言ったのはな。それ以外は知らん」

 

「それだけあれば、ジャックの端末がどこにあるかわかる」

 

「……それは情報捜査官のやることだろ」

 

「共和国さまさまだな。通信統制のおかげですべての端末の位置情報は常に追跡されている。おれの端末なら閲覧くらいはできる。まあ、ちょいとコツはいるが」

 

「そんなことを言ってるんじゃない。越権だ。クビを飛ばされたいのか?」

 

 こんな緊急事態にまで倫理を気にするアンシーがおかしくて、グラントの口元が笑いの形を作った。だが、そこに感情はなかった。

 

 ――現在地は、ルードの路地。

 グラントは短く呟いた。

 

「首都だ。ルードにある」

 

 アンシーの視線が鋭くなる。

 

「……なぜ、そんなところに」


 グラントは足で床を一度強く踏む。

 アンシーはしばし黙り込んだ。ちらりと香料棚に目をやり、やがて息をついた。

 

「あたしも行く。断ってくれるんじゃないよ」

 

 グラントは答えなかった。ログ画面を閉じる。怒りは凍っていた。もう追うだけだ。その向こうに誰が待っていようとも。

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