第三十五話 甘い墓標
朝の食卓は、いつもより静かだった。
アンシーは昨夜のまま調香室に籠もっていていなかった。グラントもいつもより言葉が少ない気がした。
ジャックは何かを聞こうとしたが、その空気に言葉を沈めた。
食後、グラントが皿を片付けようとしたとき、ジャックは意を決して声をかけた。
「グラントさん。今日、少し時間をいただけませんか?」
「休みだからな、時間はあるが」
反射的にそう答えたグラントは、皿を持った手を止めて、ゆっくりと振り返った。
「それにしても、いきなりだな。おまえから誘うのは珍しい。何かあったか?」
「いえ、ただ……少し外で、話がしたくて。気になることもあるし。まだ、うまく言葉にはできてないんですが」
ジャックはそう言ってから、言葉を足す。
「場所はどこでも。食事もいいですが、別に、歩くだけでも……」
「そっちの都合は?」
「お昼に一区切りつきます。十六時以降なら」
「今日は休みじゃないのか?」
「そうですけど。ちょっと、確認したいことがあるので。それくらいかかります」
グラントは短く頷いた。
「じゃあ、今日の十六時だ。いつものカフェにしよう。外の席が空いてれば、そっちのほうが落ち着くだろ」
ジャックも頷き返した。
自分でも何を伝えたくなったのか、まだはっきりとはわからないままでいた。
ただ――〝確認〟をする前に、少しだけ、ほんの少しだけ、安心したかったのかもしれない。
グラントが席を立ったあとも、ジャックはしばらくテーブルに座っていた。フォークを指先でいじりながら、冷めた皿の上を眺める。
……何かあったか、と訊かれたとき、自分は何と答えただろうか。はっきりとは思い出せなかった。ただ、グラントの視線が、支えのように胸に残っている。
椅子を引いた音が、やけに大きく響いた。
身体は動く。むしろ、ここで動かなければ、ずっと座り込んでしまいそうだった。
確認しなければならない。オブリエの香印が、なぜ――。
思考の断片が胸の奥で暴れている。
カバンからノートとペンを取り出し、浮かんだ言葉を書きとめる。文字は少し揺らいでいた。だが、止められなかった。
目的地はもう決まっていた。
――マリス・トリュフォーのもとへ。
香印について、もっと深く、もっと正確に知らなければならない。
迷っていたのは事実だ。だが、今日ここに行こうと決めたのは、自分だ。
だが、その覚悟さえ、自分のものではない気がしていた。
胸の奥からじわじわと浮いてきたのは、慰めというよりも、静かな降伏だった。
ふと、意識の底をかき混ぜるように、やわらかな甘さを感じる。思考が、ゆるやかに麻痺していく。
(答えを、知らないと……)
それすら、本当に〝自分〟の願いだったのかはもうわからなかった。どうでもいいことだと思った。ただ、確かめなければならない。間違っていたのか、壊したのか、それとも。
(もし何があっても、グラントさんとの約束が、ある……)
些細な約束にすら縋りたかった。縋れるものが、まだ残っているうちに。
***
指定された時間より五分ほど早く、ジャックは扉をノックした。
ほどなくして、ゆっくりと中から扉が開いた。
マリス・トリュフォーは、柔らかい布地のエプロンをつけたまま、いつものように微笑んでいた。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「香印のことをお伺いしたくて。お時間よろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。中へどうぞ」
そうして通されたアトリエの扉が、閉まった。
「実は、オブリエ様の香印が……暴走したんです」
「暴走」
その声に驚きはなかった。穏やかな関心のような響きだった。
「直接の因果はまだわかっていません。ただ、オブリエ様はこの香油をずっと使っていたはずなんです。……沈みはきれいだった。それなのに」
ジャックは必死に、言葉で再現しようとする。
マリスは蓋を開け、そっと香油を嗅いだ。掌に取ることはしない。
「何か、引っ掛かることがあるの?」
「確信はありません。でも、オブリエ様の香印がああなった原因は、もう、これしか……」
それを聞いたマリスは、ただ微笑んだまま言った。
「自分の香りが、オブリエ様を壊したかもしれない。そう思って、来たのね」
「……はい」
ジャックの言葉には、確かな罪責の色が混じっていた。
マリスはしばし沈黙し、それから、まるで子をあやすような微笑を浮かべて言った。
「香りはね、嘘をつけないの。だからこわいのよ」
マリスは瓶の蓋をひねって開け、テーブルに置く。
香油が空気に触れた瞬間、室内の温度が微かに変わった気がした。
直後。甘く、濃密な香りが鼻を打った。
香油の香りでは、ない。
――強い、香りの放射。
熟れすぎた無花果と蜂蜜の滴るような、かぶりつきたくなるような甘さ。それを際立たせる湿った土と、その隙間から立つ腐敗の香り。土に半ば埋もれている無花果のはらわたが裂かれ、潰されて、中身がこぼれ落ちている……。
妙だ。アロマを扱う彼女がこんなに強い香りを漂わせるなんて。
いや、それよりも。
鼻腔を満たしたその香りに、覚えがあった。
マリスはジャックと視線を合わせて、笑った。
「ごめんなさいね。今日は抑制してないの」
その笑みには、奇妙な空白があった。
感情の欠片が見当たらない。顔面の皮だけが動いているようだった。笑顔という表皮だけを貼りつけたような。
香りは、記憶よりも先に心を撫でた。この残り香にはもはや馴染みがあった。何度も、何度も、通り過ぎてはすぐに消えていった香り。
あのときも――この香油を調香したときも。怖いくらい順調に香りを創り上げたときにも、傍にあった。
ジャックの背筋に、遅れて冷たいものが這い登る。
「……香印? なぜ、あなたが」
視界が柔らかく揺れる。足元が沈むような錯覚に膝が震えた。心臓が早鐘のように打ち、首筋に汗が滲む。
そして、喉からぽろりと漏れた、疑問。
「……いつから……?」
香りが肺に滑り込む。喉を越えて脳に達する。
身体に力が入らない。震える手のひらを無理やり握り込む。
マリスは聖人のように微笑みながら、香りをもう一層重ねた。首を絞めるように、優しく。
香りに沈みながらも、ジャックの脳は反射的に処方構造を探していた。
だが、見つからない。ノートも、リズムも、勾配も……。揮発順序は破れ、香調は逸脱し、記憶との照合すら拒まれる。
(構成が……ない)
腐敗の気配が、膨らむ。
フィグの裏側で、濡れた毛皮のような死臭が立ち上る。傷口に吹き込む風のように、生ぬるく、重たい。吐き気がこみ上げてきて、背中に冷たい汗が伝う。
もはや、これは香りではないのだ。
感覚への圧力。香りの形をした〝力〟。
「やっぱり、似てるわ……」
ジャックは一瞬、その意味を考えた。その一瞬の思考の隙をついて、香りがさらに深く、脳を侵していく。
体を支えようとローテーブルに手をついた拍子に、硬いガラスの感触が手に当たった。それは転がって、何かを撒き散らしながら、床に落ちた。
冷たく滑る感触――香油。
ネロリとベルガモットの香りが、蒸気のように染み出す。
この、立ち上がり……。
香りのなかで、ふと名前が浮かぶ。
オブリエ。
いや、違う。あれと同じだ。あの夜――オブリエが消えてしまったときの残香が、不意に蘇る。
あのとき鼻腔に刺さった、言葉にならない違和感。沈んでいた何かがいきなり噴き上がるような、異常な立ち上がり――。
そうだ。あのときの香りだ。
自分がオブリエに差し出した香り。
――オブリエを暴走させ、この世から消しかけた香り。
「あなたが、香りを、壊してしまったのね」
「……はい」
その通りだ、と思った。
(だって、ぼくは、気づいていたじゃないか)
オブリエが目の前から消える前から、香りの重心がわずかに逸れていたことに。
香りが沈む順序が壊れていた——
いや……壊した……?
そうだ。壊した。
(ぼくが後から、キャプティブを――混ぜた……?)
香りを補うという名目で、重ねてしまった。
(でも、なぜ……? どうして、あんな不気味な、香料だって思ってたのに。ぼくが……?)
マリスの視線が、心の奥を撫でる。温かく、何も責めずに。
たぶん、どこかで、オブリエに、壊れてほしいと——いや、そんなことを思うはずが……でも……でも、そうだ。そうだった。たぶん。
いや、違う。そうじゃ、なくて……。
(ああ……だけどこれだけは、はっきりしている)
「ぼくのせいだ」
それは、罪の告白ではなかった。
答えが〈赦し〉にすり替わったと錯覚する、その瞬間の甘さ。
――安堵、だった。
マリスは微笑んだ。
言葉にはしていないのに、確かに、「そうだったのね」と言った。
その瞬間、ジャックの中で何かが——ほどけた。
責めなくていい。疑わなくていい。考えなくていい。
甘さを帯びた感覚が、じわりと広がった。
(ぼくのせいだった……なにもかも……)
香りを分析しようとする神経だけが空転し、崩れていく。
脳は粛々と香りを受け入れていた。喉奥がざらつくのに、脳はその甘さに、どろどろに溶かされている。
そのまま、ソファの上にずるりと体を預けるように、倒れた。
体が動かない。声が出ない。目はまだ開いていたが、自分が何を見ているのかもうわかっていなかった。
「しばらくおやすみなさい、ジャック」
マリスの声が、頭の芯を揺らすように響いた。額にそっと手を置かれて、ジャックは目を閉じた。
「……あら、ちょうどよかった」
マリスが少女のように無邪気な声を出す。その目線は、ジャックを飛び越えて、その奥に向かっていた。
「この子が欲しいわ。ねえ、いいでしょう? 私には香りが必要なの……」
それは、娘に向けていたはずの言葉。その声色をそのまま、ジャックに重ねていた。
その声に応じるように、扉の外で小さな物音がした。
――それは音ではなかったのかもしれない。
ただ、「そこに彼がいる」という感覚だけが、匂い立つように部屋に入ってきた。
背後で微かな気配がして、ネファストがもうそこにいた。
その場の空気を壊さぬように一歩踏み出し、目を細めてマリスを見つめていた。
視線が一瞬だけ、ジャックの顔に落ちる。だが、それだけだった。ネファストは視線を逸らし、ただ、静かに踵を返した。




