第三十一話 応える
彼女はまだ、自分の体温すら掴めていなかった。
オブリエの世界は、曇ったガラス越しに続いている。
視界は真っ白だった。
自分の意志とは無関係に、肉体が形を失っていく。空気はあるのに、自分のものではなかった。誰かの呼吸が肌の上に薄く貼りついている。
声を出そうとしても、喉の奥が固まって動かない。霧がまとわりついて、自分の影がどこまで続いているのかもわからない。
(……これは、わたしの香りじゃない)
でも、なぜか懐かしい。その存在を肯定してしまいそうになる。
香りを感じられないのではない。
香り〝で〟いられない。
それが、こんなにも苦しいとは。
誰かの靴音が通り過ぎた気がした。すれ違ったはずなのに、視線は交わらない。
「……香りが……わからない……」
その声を聞いた瞬間、記憶の底が揺れた。
——六年前。
灯りも人もない廊下に、彼だけが来た。助けを呼んだわけでもないのに、迷いなくやってきて、手を差し伸べた。あたたかい手だった。
知っている。ジッキーはずっと香りを読んできた。姿が見えなくても、香りがあればわかる。
その彼が、「見えない」と言った。
(わたしが、香りの中からもいなくなったということなのか……)
絶望に、また存在がゆれる。だが、その芯にはまだ熱があった。香りの核が、深いところでじっと息をしている。
……〈燐香〉を焚いたのは、他でもない自分だった。あの日が初めてではない。これまで何度も焚き続けていた。
なぜ、そうしたのだろう。あの香をどうやって手に入れたのかさえ、記憶が曖昧だ。
本当の意味で、消えたかったのかもしれない。
昔から、ずっとそう思ってきた。
「あの頃は、わざと暴走させていたのかもしれない」
ふとこぼした独白。
ローラン邸で暮らしていたとき、オブリエの香印は暴走していた。だが、彼女は強いて止めようとはしなかった。
むしろ、〝ああ、これで楽になれる〟と思った。
強い香りに包まれると、自分が薄れるような気がした。自我が空気に溶ける感覚が、心地よかった。
香印は、オブリエの願いを聞き届けた。
誰に声をかけても届かなくなり、触れたことさえ伝わらなくなった。
一人になりたい。
そう願ったために、今度はそれしかできなくなった。
一人が、終わらなくなった。
……だが、今は違う。
呼吸を整える。香りを、自分の身体の動きに合わせて、一滴ずつ汲み上げる。
香りは、わたしの言葉だ。
わたしが、ここにいるという証。
意識よりも先に届く感覚の言葉だ。
今度は、わたしが迎えにいかなければ。
香りで伝えなければならない。
ここにいると。
それが、あの子への返事だ。
***
廊下の空気は、まだ冷たかった。
ジャックは項垂れるように座り込み、壁にもたれていた。リネン布は、まだ握ったままだった。
誰にも見られていないはずなのに、呼吸が落ち着かない。足先の重さだけが、自分の意識を地面に繋ぎとめている。
そのとき、背後に気配が寄った。
振り返ると、アンシーがいた。少し離れた位置に、何も言わずに立っている。
ジャックは、何かを言おうとしてやめた。アンシーの目はまっすぐに彼を見ていた。
「おまえのせいじゃない。それに、あの子は自分で戻ってくるよ」
言い方は柔らかかったが、語気は揺るがなかった。
責めるでも励ますでもない声音が、かえって胸に刺さる。謝る言葉が喉の手前まで来たが、声にはならなかった。
喉の中に空洞ができたようだった。息が、肺の奥まで届かない。
アンシーが立ち去った後も、ジャックはしばらく動けなかった。布を見つめ、手のひらの汗で湿った繊維の感触を確かめる。いまだに、どこか夢を彷徨っているようで、自分がこの世界に存在しているという実感に乏しい。
——最初に気づいたのは、わずかな重さ。
ジャックは、目を見開いた。
足が、動いていた。立ち上がったというよりも、空気に引かれて起き上がっていた。
空気が撓んだ。
一点だけ、温度が沈み、重さを持ちはじめた。
身体が引かれていた。足を踏み出すよりも先に、ドアノブに手が伸びていた。
それは、匂いというより引力だった。鼻先ではなく、骨の内側から引かれていく。
フリージア。
昔はすぐに消える香りだった。
今は違う。空気をつかまえて、自ら軌跡を描いて、戻ってきている。
――オブリエだ。
その瞬間、鼻と心が同時に叫んだ。
オブリエだと。
ジャックは、初めて自分の嗅覚がまだ正気であることを思い出した。
息が整ったとたん、胸が強く軋んだ。
肺が、責め立てるように締めつけてくる。
――ぼくが、ぼくがちゃんと調香できていれば。
逆光の中、微かな風でふくらんだ髪の動きだけが、彼女を指し示していた。香りと、記憶と、直感が一斉に頷いた。
オブリエだった。
姿ははっきり見えない。
だが、香りでわかった。
耳の奥で血が脈打った。指先に汗が戻る感覚すらあった。布が手からするりと落ちた。
ジャックは、香りに自分を差し出すように、一歩前に出た。




