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奇跡とは呼べない香り  作者: 遠野 文弓


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第三十話 断絶 ②

 グラントはノブレサント・ラボから直行し、深夜にローラン邸へ到着していた。全員が寝静まっている頃だったが、別館にあるゲストハウスはすでに整えられており、彼がそこに潜り込むのはよくあることでもあった。


 グラントがふらりと別館から出てきたのは、午後よりも少し早い時間だった。コートのポケットに片手を突っ込んだまま、勝手知ったる様子で庭を歩いてくる。


 ちょうど庭仕事をしていたアンシーと顔を合わせて、いつものように軽く雑談を交わす。昨晩のちょっとした出来事。育てているハーブのようす。もらったフレーバーティーが口に合わなかったこと。


 軽口を叩きながら室内へ入り、曲がり角を抜けた先。

 廊下の静けさに、影がひとつだけ、沈んでいた。


 ジャックだった。

 そこにいること自体が許されていないとでもいうように背を丸め、膝を抱えてうずくまっている。


 その小さな姿を見た瞬間、グラントの足が止まった。アンシーもまた、グラントの後ろで言葉を失っていた。声を発した瞬間に、何かが崩れてしまいそうな雰囲気があった。


 先に動いたのはアンシーだった。意を決したようにグラントの横をすり抜け、ジャックのほうへゆっくりと近づいていく。足音を立てないように、一歩、また一歩と歩を進める。

 

「ジャック。……ジャック、どうした?」

 

 彼は返事をしなかった。だが、指がほんの少し動いた。リネン布を握りしめたままの手が、小さく震えていた。

 

「わかんない……匂いが、どこにも……」


 搾り出すような声は震えていて、どこか幼い。


「匂いが、見て、……て、ぼく、誰かの、そこに……」


「ジャック。深呼吸しなさい。吸って、吐いて――」


 アンシーはしゃがみ込み、目の高さを合わせた。

 だが、ジャックは額を膝に埋めたまま、頑なに顔を上げなかった。


「いたはず、なのに……」


「あたしらで確認する。おまえは部屋に戻っておいで。……あとで、行くからね」


 ジャックは返事をしなかったが、その言葉で震える背中がわずかに落ち着いた。

 アンシーは立ち上がり、グラントに視線だけで合図を送る。


 ――今は、一人にしておこう。


 グラントは黙って頷いた。その歩みは重かったが、迷いはなかった。通り過ぎざま、ジャックの背中をそっと叩いた。




 ***


 扉を閉めた瞬間、耳が詰まるような感覚が生じる。重くもない空気が、身体に絡みついてくる。

 

 グラントは肩をわずかに揺らして、あたりを見渡した。 


 部屋の奥から、かすかに音がした気がした。 

 だが、耳を澄ませても、何もない。時計の針すら鳴っていない。聞こえたはずの音が再現されないような。呼吸が自分の中だけでこもる感覚すらある。

 

「……ここは防音室だったか?」

 

「いいや。だが、おまえにも違和感があるんだな。ならば本当にここにいるんだろう」

 

 アンシーは室内の中央で立ち止まった。軽く目を閉じ、深く息を吸い込む。


「いるな」

 

 その言葉に、グラントは本能的に構えた。視線を鋭くして周囲を見まわすが、何も映らない。

 

「どこに?」

 

「まだ見えない。オブリエの香りが薄くなってるんだ。だが、芯はある」


 グラントは眉を寄せた。香りをどうこう判断するのは苦手だ。それでも、今の空気から均質さが欠けているのは肌でわかった。妙な空洞が、部屋の中央にぽっかりと開いているようだ。

 

 壁の一つひとつが遠く見える。

 呼吸のたびに、目の前の棚がピントを外す。視界の奥で、何かがずれる。

 距離感が、おかしい。


(部屋が歪んでいるのか……?)


 違う。これは、鼻だ。匂いが、空間の奥行きを狂わせている。 

 アンシーはしゃがみ、床の高さで空気を確かめるように手をかざす。

 

「……香りの軸がないな。オブリエの香印じゃない。けど、構成は近い。……引きずられてるのか」


 アンシーは指先を揺らし、目に見えない香りの層をなぞるように撫でると、小さく吐息を漏らした。


「……ただの〈アルカ〉で、こうなるわけがない」

 

 それを聞いて、廊下で見たジャックの姿が、否応なく脳裏に浮かぶ。あの少年が語彙を失うさまを、彼は初めて見た。


 ジャックは、香りを言葉に変えて理解する奴だ。

 なにが起きたのか、どこに誤りがあったのか。

 答えは常に、自分の手の内にあると信じている。

 だからこそ。


「……あいつ、これが自分のせいだと思ってるな」

 

 グラントの口が、ぽつりと動いた。


 香印が暴走した。それも、ジャックがオブリエに香りを試していた最中に。ならば、自分のせいに決まっている。


 そんな思考回路が、ジャックの中ではすでに完成しているのだ。

 

 アンシーは顔を上げず、小さく頷く。

 

「だが、やったのはあの子じゃない。アルカ香料を規定通りに使ってる()()だ。こうもあからさまに干渉するはずがない」


 こと調香について妥協を許さないアンシーにしては珍しい、根拠に乏しい言葉だった。

 

「……前にお嬢様を〝消しかけた〟って言ってたじゃねえか。あれは?」

 

「オブリエが香りに心を動かされただけだ。すぐに戻ってこれた。……だが、これは違う。これはオブリエの意志じゃない」

 

 そう言って、アンシーは部屋の一角をじっと見つめた。

 

 棚の下、クッションの影、床の微かな窪み。そこに漂う、ほんのわずかな差異。

 

「香りが一瞬ずつ浮いては、すぐ沈む。規則はないが、戻りたがっている」

 

 グラントは静かに、腰に下げていたサーベルの柄に触れた。

 

 戦う相手ではない。

 だが、この部屋には何かがいる。

 誰かの呼吸だけが、香りの形を借りて続いている。

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