第二十九話 断絶 ①
その日の訪問は、事前に告げられていた。
扉がノックされたとき、ジャックはすでに準備を終えていた。小瓶が二本、銀縁のトレイの上で静かに並んでいる。隣には肌を拭うための白いリネンを重ねていた。
「どうぞ」
呼びかけると、オブリエが静かに入ってきた。
彼女が纏っていたのは、数日前にジャックが組み、オブリエに渡したばかりの香油の香り。
柔らかく、中心にわずかなスパイスの煌めきがある。
破綻は、ない。
なにより、目の前にいるオブリエの姿が、以前よりもずっとはっきりと見える。
「香印の調整は順調みたいだね。よかった」
「うん。だいぶ安定してきたよ」
その言葉に、ジャックは軽く笑った。
だが、鼻がほんの一瞬だけ〝否〟を示す。
知覚の末端に、小さな飛沫が触れたような、わずかな引っ掛かり。
ジャックは目を細めた。
ピラミッドの頂点を探るように、香りの全体像を逆算する。
乱れはない。
ただ、言葉にできない小さなざらつきが混じっている。
その瞬間、香りがひとつ、めくれた。
「……?」
空気の皮が裏返るように、ノートが逆流した気がした――かと思えば、すぐに安定を取り戻す。ほんの一秒以下の反転。
ジャックの眉がわずかに動く。
だが、そこからは何も起きなかった。
(まだ、予断を許さない状況だからな……)
違和感の正体を問い詰めるだけの根拠は、まだ揃っていない。
ジャックは微笑を浮かべて、口を開いた。
「じゃあ、早速新しい香りを試してほしいんだけど、いいかな?」
「もちろん」
オブリエはソファに腰を下ろし、足を組んだ。
ジャックは小瓶を手に取り、視線を落とす。
……怖いくらい、順調に仕上がった。
調香では、常に想定との誤差が起きる。だが、今回は予定した素材だけですんなりと組み上がってしまった。流れに乗るように素材が決まり、分量が定まり、揮発順が重なった。
いつの間にか完成した処方。
どこかで嗅いだような気もする。だが、それ以上に、あまりにも自分らしい香りで、逆に不思議に思ったほどだ。
必要な香りが、彼の手を借りて姿を得たようだった。
過集中に入る。
そういうことも、ないわけではないのだが。
予定よりも、ずっと美しい香りだった。
だから、なんの違和感も、ない。
(でも、なんでだろう。うまく言葉に、できない……)
そんなことを思いながら、ペン先を紙につける。
一瞬、インクが弾かれた。理由もなく、拒まれるように。ほどなく、紙の上でじわりと滲む。
ジャックは思わず、眉をひそめた。
***
最初に異常に気づいたのは、オブリエだった。
組んでいた足を解いたとき、膝が宙に浮いたように感じた。
空気から引き剝がされたかのような、違和感。
身体は確かに、そこにあった。
重力も、呼吸も、皮膚感覚も何も変わっていない。
ただ、何かが、確実に〝ズレて〟いた。
手に持っていたリネン布が、テーブルに落ちた。
拾おうと手を伸ばすが、腕はリネンにも触れられず、テーブルに沈んでいく。
「……」
テーブルを貫く指先に、腕に、何も感じない。
何の感触もない。
オブリエは、ゆっくりと指を動かした。香りが肌の上で波打つように揺らめいた。
「どうして……」
口は動いた。喉も震えた。だが、音は届かなかった。空間に響かない。自分の声が、世界から拒まれている確信だけがあった。
何より恐ろしかったのは――ジャックが、こちらを見ていないことだ。
彼の視線は、自分の肩の後ろあたりを彷徨っていた。霧の中に何かを探しているようだった。どれだけ声を出しても、体を動かしても、視線さえ交わらない。
二人のあいだに、透明な壁ができてしまったようだった。
オブリエは、咄嗟に香印を立てた。感覚の中心に、それは確かに立ち上がっていた。
だが、知覚と、繋がらない。
手応えが、ない。
鼻先を通りすぎるだけで、体の奥に染み込んでこない。
「見えないのか? ジッキー……?」
声にしたはずなのに、彼は反応しなかった。
――ジッキーには、わたしの香りがわかるはずだ。なのに、なぜ……。
香りは、存在の証だ。
最初に届くのは、声でも、姿でもなく、いつも香りだった。
ジャックに手を伸ばす。肩に触れようとした。だが指先は、霧をすり抜けるように彼の輪郭をすり抜けた。
「……っ」
自分の存在が、相手の知覚から外れている。
その確信が、身体の芯を冷やしていく。
怖くはなかった。まだ、その段階ではなかった。
ただ一つだけ、理解できないという空白が胸の奥に広がっていく。
***
鼻が、最初に反応した。
香りの重心が崩れ、空気中の湿度だけが一滴、抜け落ちた。
空気がめくれ、重心が一段沈んだ。
ジャックはふと顔を上げる。
目の高さにあるはずの姿が、消えていた。
「……。オブリエ?」
名を呼ぶ。
呆然としたまま、テーブルに落ちているリネン布へ目を向ける。
部屋に異常はない。――先ほどまでそこにいたはずのオブリエが、跡形もなく消えていることを除けば。
一歩、足が動いた。床板を踏む感触があまりに軽く、夢の中を歩いているようだった。
香りは、ある。だがこぼれ落ちる。オブリエがいた証拠が、今この瞬間も消え続けている。
テーブルに落ちているリネン布に手を伸ばす。距離を誤って、指先が空を掴む。焦るように握り直し、やっと布を捉えた。くしゃ、と折れた布の感触が手のひらにこびりつく。
壁も、椅子の背も、テーブルも、見慣れた部屋のすべてが違って見えた。
「香りが……わからない……?」
声は空中で形を失った。喉が、言葉を出すのを拒んでいた。
香油瓶に触れようとした右手が震えて、滑った。瓶が転がる。
カラン、と硬質な音が木の天板を打った。
身体が反応した。思考よりも先に、脚が向きを変えた。
扉の方へ向かう。
何も考えていなかった。行く先もなかった。ただ、ここにいる理由だけがすっぽりと抜け落ちていた。
扉を開く。香りは、ついてこなかった。
気配も、音も、部屋の中に置き去りになった。
廊下に出ると、香りのない空気がジャックの肺に滑り込んだ。
存在ごと脱臭されたような、虚無の呼吸。
閉じた扉の向こうからは何も感じない。香りだけが先に死んだようだった。
手の中のリネン布が汗で濡れている。オブリエに触れた記憶だけを、強く握っていた。だが、その熱も、ほんの数秒で抜けていく。
何が、足りなかった?
何を、間違えた?
問いは喉の奥で潰れて、胃の底へと沈んでいく。
ジャックの胸の奥で、何かがひしゃげた。それは言葉にも涙にもならなかった。気づけば爪が掌に食い込んでいた。頭がついてこない。呻くことさえできず、ただ息を吐く。
そのまま、壁にもたれた。ただ心臓だけが、場違いな速さで打ち続けていた。




