第二話 かつて姉と呼んだ人へ
念入りに身体を洗ってすぐ、ジャックは書庫へ赴き、バインダーに綴じられた分厚い香料リストを手に取った。
失敗の原因を探るため、リンコウ樹脂とカッシスのページを行き来しながら熟読する。
シャワーと酒精で念入りに落としたはずの香りが、まだ皮膚のどこかにしがみついている気がした。紙の乾いた匂いに混じって、湿った果実が喉の粘膜をかすめる。
ようやく消臭も済んだ頃合いに、来客を知らせるベルが鳴った。
ジャックは香料リストを閉じて、立ち上がった。
エントランスにいた郵便配達員は、ジャックの姿を認めると手紙の束を差し出した。その背中を見送ってから、ジャックはその場で郵便物を確認する。
一通だけ、他の郵便とは様子が違っていた。
封筒にはレースを思わせる透かし模様が入っており、紋章が印字されている。
見慣れない者なら身構えるだろうが、香料工房にとっては珍しくもない。
香料は得てして高価になりがちだ。
特に、天然香料は原産国が分散しているため、入手難易度はしばしば政治に左右される。
そんな不安定な原料を生命線とせざるを得ない香料関係者にとって、もっとも頼るべき〝お得意様〟は、資金力に富み、政治にも通じた貴人である。
ジャックは封筒の美しさに関心こそしたものの、驚きはしなかった。アンシーもまた紋章を一瞥し、
「ふん。ノブレサント家ねえ……」
それだけ言うと容赦なく封を切った。便箋を引っ張り出し、内容に目を通していく。
アンシーの呟きを拾ったジャックが言った。
「芳主からの依頼? 珍しいね」
生まれつき身体に芳香を帯び、超常の力をもつ者たち――それが〈芳主〉だ。
旧時代の魔術貴族。共和国成立時に特権を返上したが、政治・軍事の椅子からは未だ退いていない。
手紙を読み終えたらしいアンシーが肩をすくめて、便箋をジャックに渡した。
「ジャック。匂いを確かめてみな」
ジャックは受け取った便箋を、試香紙で香りを確かめるように鼻へ近づけた。
香りはすでに飛んでいた。残されたのは骨だけだ。パウダリーなムスクが便箋に絡みつき、妙に均質な余韻を残している。トップを早々に飛ばして、重質ラクトンを紙繊維に固定したのだろう。
設計ずくの香りだ。
「……これが、香印?」
「いや、香印を模した香水だね」
芳主が発する香りを〈香印〉と呼ぶ。異能の証左だ。それを模した香りが手紙に仕込まれていた。
「五年前に特注で香水――〈アルカ〉を作ったんだが、そのときの香りをまた作ってほしいそうだ」
芳主は、貴金属を組み合わせるように香水を重ね付けし、自らの香りを装飾する。
香水の中でも〈アルカ〉は特殊だ。特別な香料を用いて創られるその香水は、香印を一時的に操作する。
ただの装飾ではない。
香印出力の増幅、鎮静、一時的な異能の上乗せ。
さながら香りで書かれた秘術。
ジャックのような無香人――芳香を持たない者にとっては、何の効果もない高級香水にすぎないのだが。
アンシーがぽつりと呟く。
「しかも、直接手渡せときた。ノブレサントにねえ……」
ぽつりと警戒を落としたきり、アンシーは押し黙る。
だが、依頼内容だけを見れば、疑問を呈する理由はどこにもないはずだった。
ジャックは封筒に視線を落とした。
(……筆跡が揺れてる。急いでたのか?)
ジャックは、もう一度便箋に鼻を近づけた。
滑らかだ、と思った。どこかに引っ掛かりがないかと、会って確かめたくなるような香りだった。
その意味について深く考える前に、アンシーはジャックに向き直って聞いた。
「差出人はオブリエ・ノブレサントだ。おまえ、オブリエを覚えているかい」
「もちろん。……これ、オブリエからの手紙なの?」
便箋のサインに目を落とす。
そこには、確かに〝オブリエ・ノブレサント〟とあった。
オブリエ。その名前が呼び寄せる記憶の先頭には、苔の湿り気があった。
六年前、別れ際に嗅いだ香りだ。
ジャックはゆっくりと記憶の底を探った。香りが、過去の時間ごと手繰り寄せてくる。
六年前、アンシーの元で半年間だけ居候していた少女がいた。それがオブリエである。
当時、ジャックは九歳、オブリエは十四歳。幸いにして、二人は馬が合った。並んで歩いていると、どこにいっても姉弟だと思われたものだ。
「オブリエの顔は覚えてるか?」
「うーん、顔は……はっきりしないな」
だが、笑っていたことは覚えている。ジャックが話しかけると、いつもなぜか少し驚いて――それから、とても嬉しそうに笑った。
オブリエはいつも複雑な香りを纏っていた。今にして思えば、それが香印だったのだろう。言葉よりも先に、香りが記憶を開いた。
先に反応したのは鼻ではなく、胸だった。空気がふっと膨らむような錯覚。湿った苔と、雨上がりの冷たい空気が肌を撫でる。
早朝の森のような香りだった。霧雨に散ったフリージアが、柔らかい光となって漂っていた。気の強い子だったのに、その香りは、一人で誰かを待っているようだった。
「でも、香りは覚えてるかな。会えばすぐにわかるよ。今ならね」
「そうか」
アンシーは少し嬉しそうに、しみじみと言った。だがすぐに仕事人の顔に戻り、ジャックに言った。
「ちょうど良い機会だ。処方設計は済んでるからな。実作業をおまえがやりな」
「ぼくが? オブリエに渡すアルカを作るの?」
ジャックはまだ、誰かのために香りを作ったことがない。
彼の仕事は、もっぱら訓練か補助である。香料の挙動を確かめるか、指示どおり調合するか。それ以外は、目的にすらならなかった。
「なあに、処方のとおりに作ってオブリエに届けるだけさ。少しは手伝ってやるとも。調香師としてやってくなら芳主と嫌というほど顔を合わせるんだから、ちょうどいい。最初は顔見知りで慣れておくといい」
「それは、いいけど……」
無邪気に接しても許されていた子ども時代とは違う。九歳のジャックが意識していなかっただけで、〝姉〟は〈香り付き〉なのだから。
顔見知りとはいえ、貴人に会うのは緊張するものだ。そう身体をこわばらせた孫の心情など祖母にはお見通しだったようで、アンシーはさらりといってのけた。
「ま、ただの追加注文だからね。気楽にやるといい」