第二十七話 寄り添いすぎる香り
午後の光が絹のカーテンを淡く透かしている。窓辺に揺れる薄布の向こうでは、庭の噴水がかすかに水音を立てていた。
静かな室内。マリス・トリュフォーは、ガラス瓶をそっと指先でつまみ、瓶の底を見つめるように傾けた。
「……ほんとうに、綺麗な香り」
淡く漏らされた声は、まるで秘密を撫でるような響きだった。
指の腹で蓋を開けると、香油がふわりと空気に触れる。
マリスは微笑をたたえたまま、自らの掌にひとしずくを落とした。薄い桜色の香油が触れた瞬間、彼女の肩がわずかに震えた。鼻腔を通り抜ける香りに瞼を閉じる。
立ち上がったのは、ネロリのやわらかな苦みと、ジンジャーの微熱。肌の温度で開くと、奥からヒノキの静けさが息づきはじめた。
「……あの子の香りじゃないのに、なのに、こんな……」
その呟きは風に紛れるように消えた。
オブリエは、そっと手首を差し出した。
「お願いできるかな」
マリスはすぐには応えず、ただオブリエを見つめた。目尻に皺を寄せるその笑みは、まるで幼子に接する母のようだった。
だが、その眼差しの奥に、一瞬だけ、何かが沈んでいた。渇きと、焦がれるような何かが。
「ええ、もちろん」
オブリエが差し出した手首に、マリスは香油をそっと垂らす。
その手つきは、塗布というよりも、儀式だった。
香油を肌に落とすたび、マリスは一瞬だけ息を潜める。動作の奥に、どこか祈るような沈黙があった。
撫でるのではない。拭うのではない。なにかを仕込むような確かさで、掌は動いた。
――これは、誰のための動作なのか。
オブリエは一瞬、わからなくなった。自分ではない〝誰か〟に触れているような、奇妙な距離があった。
「ほんとうに、……よくできてるのね。この香りは」
囁くような声の奥に、僅かに熱がある。
オブリエが無防備に微笑んだ。
「ジャックが作ってくれたんだ。あなたにも感謝していた。精油の扱いを教えていただいて、本当に助かりましたと」
ジャックの名前が出た瞬間、マリスの指がわずかに止まった。目線は下げたままだったが、呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
「……ジャック。あの子が、こんな香りを作るなんてね」
その言い方には、ただの称賛ではない何かが滲んでいた。
親しみのような、誇らしさのような。
「最初は壁を感じたけれど……。こちらのことをよく見てくれている。目の前で調合してくれた香りがね、またよくて。あの後はお礼にって、菓子折りまで持ってきてくれたのよ」
オブリエはくすくすと笑った。
「そういうところあるな。変なところで女の子みたいな気遣いを見せる」
マリスの目がふっと細められる。その視線は、オブリエの手首を見ているようで、そこに重ねた記憶を見ていた。
「……娘がいたのよ、昔」
ぽつりと、マリスが言った。
「あの子はね、突然いなくなったの。……最期に触れたのは、香りだけだった」
オブリエはそっとマリスの顔を見た。
「……触れた香りが、最後の記憶になったの。あなたの肌の上に乗ったこの香りは……あの時の、それに近くて……」
マリスはどこか遠くを見るような眼差しで、オブリエに香油を塗りこんでいく。
「ジャックに会ったとき、少しだけ、あの子に似てるなって思った。精油を扱う手つきが……ほんの、一瞬だったけれど」
オブリエは、言葉を失っていた。何か慰めを返すべきかと考えたが、マリスはもう微笑んでいた。悲しみをきちんと畳んで、奥にしまったような笑みだった。
「あなたたち二人が、香りを通じて、何かを共有しているのを見るとね、……少しだけ嫉妬してしまうのよ」
それは冗談とも、独白ともとれる曖昧な言葉だった。
オブリエはその言葉に、うまく返すことができなかった。ただ、手首から香りが立ち上るのを感じた。甘く、静かで、少しだけ切ない香り。
「ごめんなさい。変なこと言ったわね」
「いや……」
そう答えながらも、マリスの言葉のひとつひとつが香油のように肌に染み込んで、簡単には拭えなかった。
マリスがふいに目を細めた。視線はオブリエを抜けて、部屋の奥、何もない壁をじっと見つめている。
何かを見ているというより、そこにあったはずの何かを追いかけるような目だった。
香りによって呼び起こされた記憶なのか、それとも今もそこにあると信じている幻想なのか――オブリエには、判別がつかない。
だが次の瞬間には、マリスは再び優しい声を取り戻していた。
「しばらくは、この香油をお使いなさいな。あなたの肌に、ぴったり寄り添ってくれるはず」
オブリエは頷いた。だが、胸の奥に奇妙なざわつきが残った。
寄り添う。
その言葉が、香油に対してではなく、自分の感情そのものに向けられたような、記憶の深層を覗き込まれるような感覚。
光に透かした瓶の底に、沈黙のような影が揺れた気がした――ほんの、一瞬だけ。
(……これは、ジッキーの作った香りだ)
その香りが、いまの自分にぴたりと重なっていることが、不思議と心強く思えた。
「ありがとう、マリス。あなたに調整してもらえて、よかった」
マリスの目がふと潤み、瞬き一つでそれを拭い去る。
「ええ。見ているわ。香りは忘れないの。すべてを手放しても、香りだけは残る。私は、ずうっと見てきたのよ」
その夜、オブリエの肌に染み込んだ香りが、呼吸のたびに内側から応えてくる気がした。香りそのものが、自分の皮膚に棲み着いたかのようだった。




