第二十四話 意図を超えた香り
オブリエ専属の香印調整師はマリス・トリュフォーというらしい。マリスに会うため、ジャックは首都ルードにあるアトリエを訪れていた。香油の処方が実地に耐えうるかどうか、専門家の意見を仰ぐためだ。
ジャックがアトリエの扉をノックをすると、「はあい」と明るい女性の声が聞こえてきた。
「入っていいわよ」
そっとドアノブを握り、押し開ける。
清潔すぎる空間だった。音を吸う石膏の壁に、リネンに染みついた微かなハッカ。どこか、死後の安息を思わせる静けさだった。香印を整える部屋のはずなのに、香りの余韻を消したがっているようにも思えてしまう。
壁際には植物のスケッチが飾られている。手前のキャビネットには、精油とキャリアオイルが収められているようだった。そのそばを通ったとき、ふと甘い香りが鼻をかすめた。熟した果実のような、湿り気を帯びた香り――それはほんの一瞬で、すぐに消えた。
部屋の隅のほうに机が一つ。そこで、何か書き物をしている女性の後ろ姿があった。女性は軽やかに何かを書き上げると、満足げにペンを置いてくるりと振り返った。
「マリス・トリュフォーよ。あなたがオブリエ様と懇意にしている調香師さんかしら?」
「ええと……。ジャック・ローランです」
オブリエはどれだけ大仰な紹介をしたんだ? と内心どきどきしながら、ジャックはそつなくあいさつをした。それを見たマリスはふわりと笑った。
「そうかしこまらなくていいのよ。マリスでいいわ。ジャック、と呼んでも構わないかしら?」
「もちろんです、マリスさん」
呼び名は変えたものの、丁寧な態度を崩さないジャックに、マリスはおかしそうに笑った。そして、ずばりと要件に入った。
「オブリエ様があなたの香油を使いたいとおっしゃったそうね」
「ええ、そうです」と言いながら、ジャックは香油の入った瓶を取り出した。マリスに手渡そうとした指先が一瞬、止まってしまう。
マリスは気にせずそれを受け取った。瞬間、ジャックはほとんど無意識に息を呑んでいた。
マリスは蓋を開けて、静かに香りを嗅ぐ。
――それきり、沈黙が落ちた。
「……」
(何か、おかしかったか?)
ジャックは喉がひりつくのを感じながら、マリスの顔をうかがう。表情は読めない。沈黙の時間が続くほどに、胃の奥がじくじくと冷たくなる。
耐えきれずに口を開きかけたとき、マリスはひとつ、深く短い息を吐いた。そして、パチリと目を開けた。その瞳が笑っているのを見て取って、ジャックはそっと安堵した。
「……層が多いわねえ。香りはまとまってるけれど。エッセンシャルオイルだけで組んだの?」
「いえ、アブソリュートをいくつか使いました。トップが鈍いですよね。アブソリュートが前に出すぎて」
「ええ。あとで濃度を下げてみましょう。……キャリアオイルには何を使ったの?」
「グレープシードオイルです」
「どうして?」
ジャックはちょっと言葉に詰まったが、正直に答えることにした。
「その……軽い粘度で、酸化しにくいので……試作でも、香りが濁りにくくて」
「なるほどねえ。そう来ると思ったわ」
マリスは微笑んだ。
「キャリアオイルはね、肌と心に合わせて選ぶのよ。ホホバは穏やかに沈む。アーモンドは鎮静する。香りを留めるのは、肌だけじゃないの」
ジャックはうまく理解ができず小さく瞬いたが、言葉は飲み込んだ。その様子を見たマリスが軽く笑った。
「オイルによって香りの立ち方も、肌への刺激も違うのよ。オブリエ様のように繊細な肌には、ホホバのほうが響くこともあるの。精油って、気難しいのよ。だから、よくよく考えて選んでほしいわ」
ジャックは軽く目を伏せた。
自分なりの仮説は立てていた。だがそれは、応急処置のように「これで十分だ」と自分に言い聞かせたものだ。
検証から目を逸らすための設計。それを見抜かれた。
「香りにも、息継ぎをさせてあげないとね。あんまり詰め込むと、逃げ場がなくなるわ」
「はい。……すみません。ぼくが迂闊でした。安定してるから問題ないって、そう思えるように設計してしまったんだと思います」
マリスは目を細めた。それがどういう感情なのかは、ジャックにはわからなかった。
「なるほどねえ。あなたが可愛がられる理由がわかるわ」
怪訝そうな表情を浮かべるジャックに、マリスはウインクしてみせた。
「いじわるな言い方をしてごめんなさいね。普通はあなたが考えているほどの被害は出ないわ。まともなオイルを使っていればね。ただ、どんな精油を使っているかは知っておきたいの」
「わかりました。キャリアオイルを含めて処方を見直します。肌の影響と、刺激と……香調への干渉を抑える方向で組み直します」
「それなら良さそうだわ。ここには精油もオイルもあらかた揃っているし、よければここで調合してみてもらえない?」
ジャックはその申し出を了承して、香油を調合した。マリスの助言で香料を減らし、ベースの配分を0.5%下げると、混沌とした香りが一気にまとまった。
ジャックはやや茫然としてその瓶を見つめた。いったいなぜ改善したのだろう。理論で理解するには時間がかかりそうだが、しかし香りはまとまった。ジャックは混乱しながらも、まずマリスに向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ。オブリエ様のお願いだもの。それに……」
マリスは優しく微笑んだが、瓶を握る手に、ほんの一瞬だけ力がこもる。
「あなたの調香は、あの子の気配に似てるの。あの子がいた頃の、春先の庭。朝露を含んだネロリと、花開く前のミモザの感じ……。不思議ね。あの子が置いていった言葉を、あなたが嗅ぎ取ったみたい」
その言葉に、ジャックは返す言葉を失った。〝あの子〟が誰なのか、ジャックにはわからない。オブリエではないのだろう。
マリスは微笑を浮かべたまま、瓶をそっと置いた。
「香りはね、時々……作り手の知らない記憶を呼ぶのよ。香りのほうが、他人をよく知っているの……」
ジャックは、苦いものを噛み締めるように、ほんのわずかに目を逸らした。
自分の組んだ香りが、他人の記憶を呼び起こす。
自分の声が、他人の言葉に――遺言に化けることさえある。
その恐ろしさ。
マリスは言葉を続ける。遠くに囁きかけるような、とても静かな声だった。
「形になってよかった。気になることがあれば、またいつでもいらっしゃい。精油もいくつか持っておいきなさいな」
「……はい。ありがとうございます」
返事はしたものの、どこか上の空だった。
ただぼんやりと、新しく調香した香油を眺める。
香料もその配分も正確に知っている。確かにこれは自分の処方だ。
だが、ここから立ち上がる香りは、いったい誰が〝完成〟させたのだろう。




