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第一話 香りに触れる前に

 ペルジャンは工業地帯だ。嗅覚を通してみれば、地図に載らない地獄である。


 合成樹脂の甘い溶剤臭、金属粒子を含む蒸気、油膜のべたつきが層を成して、皮膚まで熱くする。


 晴れた日でも煙霧(えんむ)がたちこめ、鼻腔の奥を削る。三十分も嗅げば、頭蓋(とうがい)の内側に鉄が流れ込んだような鈍痛が始まる。吐くか、黙るか。多くは後者を選ぶ。

 

 もっとも、香料工場の空気を読み慣れた調香師にとっては、これもまた日常の匂いだった。

 この匂いに反応できる限り、嗅覚はまだ仕事に使える。

 

 油と薬品の匂いを背負いながら郊外へ抜けた先、香料工場〈スフル・デテレ〉は、白く濁った空気の中に現れる。


 スフル・デテレが有する広大な土地のほとんどは温室と抽出設備に割かれている。残りは研究施設と調香室だ。

 

 調香室は、内装にこそ年季がにじんでいるものの、棚も床も磨き抜かれ、手入れが行き届いている。

 中央には大きなテーブルが二つ。壁際の調香台には、小瓶がオルガンの鍵盤のようにずらりと並ぶ。

 

 そのうちの数本が抜き取られ、二人の調香師が黙々と作業に取り組んでいた。


 一人は十五歳の少年ジャック。

 もう一人は灰髪の老女。小柄な身体にぴたりと添う黒の襞飾り(プリーツ)ロングドレスを纏い、背筋は張っている。


 その老女の口から、室内の空気を裂くような怒号が飛んだ。


「ジャック! 〈リンコウ樹脂〉を使ってるね? ならそこのカッシスリーフと混ぜるんじゃないよ!」


 すでにカッシスリーフのアブソリュートを一滴、ビーカーに落としていたジャックは、スポイトを中途半端に構えたまま、どこか申し訳なさげに振り返った。

 

「これ? もう入れたけど」


「バカたれ! 溶剤で脳まで焼けたのか!」


 瞬間、ビーカーの中で、舌に刺さるような硫黄の気配が立ち上がる。続けて、焦げた甘さが全体を(おお)った。

 だが、香りは融合しなかった。甘焦げた残香(ざんこう)の中で、濡れた木材と腐葉土に、猫の尿めいた硫黄化合物を叩きつけたような異臭が、空気の層を(きし)ませた。


 ジャックとアンシーは同時に視線を向けた。


 調香師はその職業柄、においに先入観をもたない。異臭に対して反射的に不快を表明することはまずない。

 

 だからといって、髪や皮膚にべっとりと染みつく強烈な芳香を放置するわけでもない。


 先に動いたのは老女――スフル・デテレの主任調香師であり、ジャックの実の祖母でもあるアンシー・ローランだった。


 やや遅れて、ジャックは慌てて局部換気(ドラフト)の吸引口を手元に引き寄せた。

 

 アンシーは無言で換気ブースの排気を最大出力に切り替えた。香気の流れが一転し、肌の表面を這うように抜けていく。体感温度がわずかに下がった。


 そして、この匂いを引き起こした弟子に向かって指を突きつけた。


「重たいベースにカッシスを落とすなんて、正気じゃないね! 構造が割れて、トップだけ別人じゃないか。この匂いもしばらく残るよ。作業はお預けだ」


「ご、ごめんなさい」


 面白そうだったから、つい――なんて馬鹿正直に答えたら、それこそ殺される。


(軽く広がるはずのカッシスが、重質(じゅうしつ)樹脂に揮発を阻まれて潰れたか……拡散すらできなかったな)


 ジャックはうつむきながらも口元を引き締め、この鼻をつんざくような香りがあるうちに、できるだけ深く記憶に刻もうとした。


 ……濡れた鉄粉に、腐った葉っぱを塗りつけたような匂い。舌に刺さる酸味。内側から腐っていくような青臭さ。汗と土が、皮膚の裏から染み出してくるような――拒絶が形になったような匂い。


 何を嗅いだのか、確信が持てない。香調(ノート)として分けられない。言語に落ちない。だが、それでも鼻の奥に残る。


 アンシーはジャックに歩み寄り、毛先を指先で払った。前髪の一部が額にはらりと落ちた。


「シャワー行ってきな。酒精(アルコール)でもこするんだよ。香料リストの禁忌欄は今夜中に頭に叩き込んでおけ」


「はい」


「リンコウ樹脂はいったんパレットから外しな。下手に使うと持て余す」


「わかりました」


「よし。それじゃあ行っておいで」


 アンシーはなぐさめるようにジャックの髪をかき回してから、背中をぐいと押した。

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