閻魔帳
「──では、生前の行いを査定します」
閻魔はそう言って、男をじっと見つめた。
自信満々の表情が、その男の顔に浮かんでいる。
生きているうちに善行を重ね、“いい人”としての人生を貫いてきた自負がある。
寄付もボランティアも欠かさず行ってきた。自分が天国行きだと、疑う余地もなかった。
閻魔が、一冊目の帳を開く。
「では、悪行から」
──その表情が、少しだけ険しくなった。
「ゴミ捨て場に出した段ボール、ガムテープを剥がさず放置、11回」
「“お先にどうぞ”と言われて、会釈だけで通過、31回」
「バスの降車ボタン、誰かが押してくれたのに自分も押す、27回」
「飲食店で、割り箸の袋をくるくる巻いて放置、96回」
「コピー機で紙詰まりを起こし、黙ってその場を離れた、5回」
男の眉がじわじわと下がっていく。
「……それ、そんなに悪いことですか……?」
閻魔は静かに首を振った。
「大罪とは申しておりません。
ただ、そういう行為が“積み重なる”と、それなりに記録には残ります」
「……そ、そうですか……」
小さな“うっかり”や“面倒くさい”が、じわじわと責めてくる。
「では次に、善行の査定に入ります」
男はここで一気に挽回を狙う。
「寄付は年収の1割、学生時代は毎月ボランティアに──」
だが、閻魔はそっと別の帳を開いた。
「床屋で後頭部を洗われるとき、自然に頭を持ち上げる」
「誰かが落としたティッシュを、何も言わず拾って机に置く」
「満員電車で降りる人のために、ひと駅前からドア前を空けた」
「会釈されてないのに、反射的に軽く会釈した」
「エレベーターで開ボタンを押し続け、全員を見送ってから静かに降りた」
男の記憶には、ほとんど残っていない。
当たり前すぎて覚えていないことばかりだった。
「……え、そんなの、みんなやってるじゃないですか……」
閻魔は、微笑んだ。
「ええ。みんなが“何気なく”やっている、だからこそ価値がある。
見返りも、見栄もない優しさこそ、尊いのです」
「……じゃあ、俺は──」
「あなたの行き先は、天国です」
帳を閉じる音が、心に静かに響いた。