9話 追憶の中で、ハイウェイで
帰りの車内は、静寂に包まれていた。
街灯が窓の外を流れていく。ベルリンの夜は冷たく、冬の匂いを帯びた空気が、かすかに車内へ入り込む。エリーは助手席に身を預け、指先でジャケットの袖を弄びながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
サーシャは、無言のままハンドルを握っている。灰色の煙が、彼の指先からゆっくりと立ち昇る。夜の帳に溶けるように、細く、頼りなく。それはまるで、失われた記憶の残滓のようだった。
エリーは目を伏せる。
「……もう、ノーラは墓参りなんてしないでしょうね」
窓の外の街灯が、彼女の頬を淡く照らした。
サーシャは無言のまま、灰皿に煙草を押し付ける。燃え尽きる直前の火が、一瞬だけ赤く灯った。
「……だろうな」
短い返答。だが、それだけで十分だった。
エリーは静かに瞼を閉じる。
「彼女は、もう過去を“死んだこと”にはしないわ。引きずることはあるでしょうけど、それは未練なんかじゃない。ただの思い出として、語ってくれるようになる……そうよね?」
指先で、首元の火傷をそっと撫でる。そこに残る痕は、熱の記憶とともに、静かに彼女の肌に刻まれていた。
「……ふん」
エリーは目を開け、口角をわずかに上げる。
「私たちの生きる時間は、この先もずっと長いのに」
車窓の向こう、遠ざかるベルリンの街並みを眺めながら、彼女は静かに笑う。
「死んだまま生きるのは、もったいないわ」
サーシャはハンドルを切りながら、ふとミラー越しにエリーを見た。
「お前たちは……英雄になりたかったのか?」
声は低く、どこか遠い過去を見つめるような響きがあった。
エリーはゆっくりと首を傾げ、少し考える素振りを見せた。
そして、まるで懐かしむように微笑む。
「……私たちはね、英雄になろうとしたのよ」
サーシャは、短く息をついた。
エリーは続ける。
「敗北したわけじゃない。あの頃の私たちの戦いは、無駄なんかじゃなかったわ」
彼女の言葉は、夜の空気に溶けていく。
「未来へと紡いだのよ」
サーシャは視線を前に戻し、微かに唇を引き締めた。
エリーの視線は、変わらず夜のベルリンを見つめている。街灯の光が、黒いジャケットに淡く映る。
冷たい夜風が、窓の向こうでそっと揺れた。
遠ざかる街並みの灯りが、まるで過去と現在を繋ぐ、かすかな道標のように、ふたりの前を流れていく。
ベルリンの街を抜ける頃、サーシャは急にブレーキを踏んだ。タイヤが路面を擦る音が、静寂をわずかに乱す。
「……降りろ」
短く、それでいて確かな響き。
エリーはわずかに眉を上げたが、驚いた様子はない。ただ、少しだけ面倒くさそうに首を傾げた。
「ずいぶんと冷たいお見送りね。もう少し余韻ってものを楽しんだら?」
サーシャは答えず、ただ運転席のハンドルを握ったまま、じっと前を見据えている。その横顔は無表情で、わずかに煙草の香りが残る。
エリーは溜息をつきながら、ジャケットの襟を正した。
「……ねぇ、一つ聞いてもいい?」
彼女は助手席の背もたれに肘をつき、サーシャの横顔を覗き込む。
「チェイスとの約束って、なんだったの?」
サーシャはわずかに肩を揺らした。
「なに、お前が未来へ進めるようにする……爺さんの願いだよ」
エリーは微かに目を細める。
「……ふぅん」
しばしの沈黙。
エリーは何かを考えるように視線を落とし、指先でジャケットの袖を弄ぶ。そして、ふと口元に小さな笑みを浮かべた。
「ずいぶんとスパイ染みたことをするのね」
サーシャは軽く鼻を鳴らし、火の消えた煙草を指で弾いた。
「さて……俺も前に進むとするか」
その言葉を最後に、サーシャはもう何も言わなかった。
エリーは静かに車を降りる。
扉が閉まる音が、冬の冷たい空気に吸い込まれていく。
彼女は背後でエンジンが再び唸るのを聞きながら、ふと空を見上げた。
黒く広がる夜の帳。
冷たい風が、彼女の白い髪をそっと撫でた。
吐息は白く、静かに夜の空気へ溶けていく。
背後では、サーシャの車が遠ざかる音が次第に小さくなり、やがて完全に夜の闇へと消えていった。
未来へ進めるようにする――
サーシャの言葉が、冷えた夜の静寂の中でゆっくりと胸に落ちていく。
彼女は目を細め、ポケットから煙草を取り出した。
火をつけることなく、指先でくるりと回しながら、しばらくの間じっと考え込む。
未来へ進む、か……
ふと、彼女の唇から小さく笑いが漏れた。
「……じゃあ、どこへ進もうかしらね」
独り言のように呟く。
エリーは夜のベルリンをゆっくりと見渡した。
この街も、時代とともに変わり続けている。
戦争で焼け落ち、冷戦で分断され、そしてまた統一された。
だが、過去の痕跡は今もそこかしこに残っている。
建物のひび割れた壁や、修復されたはずの道端の石畳の隙間に。
過去は死なない。
それは消え去ることなく、いつだって影のように付きまとう。
だが、それをどう捉えるかは、生きている者次第だ。
写真の中の少女は、今も変わらぬ微笑を浮かべていた。
白黒の世界の中で、彼女はただ静かにそこにいた。
長い金髪は風に靡き、上品に微笑むその表情は、どこか冷ややかで、遠い。
エリーは指先で写真の端をなぞった。
「――次は、イタリアにでも赴こうかしら」
誰に向けた言葉でもなかったが、まるで写真の中の少女に語りかけるように、ぽつりと零れた。
埃っぽい紙の質感。
かすかに色褪せたその一枚の写真は、時代を超えて今も彼女をそこに閉じ込めているようだった。
バディ・ヴェルガーデン。
エリーは細く息を吐いた。
写真の中で彼女は、かつての自分たちを象徴するように、変わらぬ美しさを持ち続けていた。
まだ過去に囚われたのは、私たちだけじゃない。
エリーは煙草を指先で弾き、そのままコートのポケットへ滑り込ませる。
「……さて、行くとしましょうか」
黒いジャケットの裾を払うと、彼女は静かに歩き出した。
この写真の少女に、直接会う日が来るのだろうか――
そんなことを考えながら。