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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
9/41

9話 追憶の中で、ハイウェイで

 帰りの車内は、静寂に包まれていた。


 街灯が窓の外を流れていく。ベルリンの夜は冷たく、冬の匂いを帯びた空気が、かすかに車内へ入り込む。エリーは助手席に身を預け、指先でジャケットの袖を弄びながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。


 サーシャは、無言のままハンドルを握っている。灰色の煙が、彼の指先からゆっくりと立ち昇る。夜の帳に溶けるように、細く、頼りなく。それはまるで、失われた記憶の残滓のようだった。


 エリーは目を伏せる。


「……もう、ノーラは墓参りなんてしないでしょうね」


 窓の外の街灯が、彼女の頬を淡く照らした。


 サーシャは無言のまま、灰皿に煙草を押し付ける。燃え尽きる直前の火が、一瞬だけ赤く灯った。


「……だろうな」


 短い返答。だが、それだけで十分だった。


 エリーは静かに瞼を閉じる。


「彼女は、もう過去を“死んだこと”にはしないわ。引きずることはあるでしょうけど、それは未練なんかじゃない。ただの思い出として、語ってくれるようになる……そうよね?」


 指先で、首元の火傷をそっと撫でる。そこに残る痕は、熱の記憶とともに、静かに彼女の肌に刻まれていた。


「……ふん」


 エリーは目を開け、口角をわずかに上げる。


「私たちの生きる時間は、この先もずっと長いのに」


 車窓の向こう、遠ざかるベルリンの街並みを眺めながら、彼女は静かに笑う。


「死んだまま生きるのは、もったいないわ」


 サーシャはハンドルを切りながら、ふとミラー越しにエリーを見た。


「お前たちは……英雄になりたかったのか?」


 声は低く、どこか遠い過去を見つめるような響きがあった。


 エリーはゆっくりと首を傾げ、少し考える素振りを見せた。


 そして、まるで懐かしむように微笑む。


「……私たちはね、英雄になろうとしたのよ」


 サーシャは、短く息をついた。


 エリーは続ける。


「敗北したわけじゃない。あの頃の私たちの戦いは、無駄なんかじゃなかったわ」


 彼女の言葉は、夜の空気に溶けていく。


「未来へと紡いだのよ」


 サーシャは視線を前に戻し、微かに唇を引き締めた。


 エリーの視線は、変わらず夜のベルリンを見つめている。街灯の光が、黒いジャケットに淡く映る。


 冷たい夜風が、窓の向こうでそっと揺れた。


 遠ざかる街並みの灯りが、まるで過去と現在を繋ぐ、かすかな道標のように、ふたりの前を流れていく。

 


 ベルリンの街を抜ける頃、サーシャは急にブレーキを踏んだ。タイヤが路面を擦る音が、静寂をわずかに乱す。


「……降りろ」


 短く、それでいて確かな響き。


 エリーはわずかに眉を上げたが、驚いた様子はない。ただ、少しだけ面倒くさそうに首を傾げた。


「ずいぶんと冷たいお見送りね。もう少し余韻ってものを楽しんだら?」


 サーシャは答えず、ただ運転席のハンドルを握ったまま、じっと前を見据えている。その横顔は無表情で、わずかに煙草の香りが残る。


 エリーは溜息をつきながら、ジャケットの襟を正した。


「……ねぇ、一つ聞いてもいい?」


 彼女は助手席の背もたれに肘をつき、サーシャの横顔を覗き込む。


「チェイスとの約束って、なんだったの?」


 サーシャはわずかに肩を揺らした。


「なに、お前が未来へ進めるようにする……爺さんの願いだよ」


 エリーは微かに目を細める。


「……ふぅん」


 しばしの沈黙。


 エリーは何かを考えるように視線を落とし、指先でジャケットの袖を弄ぶ。そして、ふと口元に小さな笑みを浮かべた。


「ずいぶんとスパイ染みたことをするのね」


 サーシャは軽く鼻を鳴らし、火の消えた煙草を指で弾いた。


「さて……俺も前に進むとするか」


 その言葉を最後に、サーシャはもう何も言わなかった。


 エリーは静かに車を降りる。


 扉が閉まる音が、冬の冷たい空気に吸い込まれていく。


 彼女は背後でエンジンが再び唸るのを聞きながら、ふと空を見上げた。


 黒く広がる夜の帳。


 冷たい風が、彼女の白い髪をそっと撫でた。


 吐息は白く、静かに夜の空気へ溶けていく。


 背後では、サーシャの車が遠ざかる音が次第に小さくなり、やがて完全に夜の闇へと消えていった。


 未来へ進めるようにする――


 サーシャの言葉が、冷えた夜の静寂の中でゆっくりと胸に落ちていく。


 彼女は目を細め、ポケットから煙草を取り出した。


 火をつけることなく、指先でくるりと回しながら、しばらくの間じっと考え込む。


 未来へ進む、か……


 ふと、彼女の唇から小さく笑いが漏れた。


「……じゃあ、どこへ進もうかしらね」


 独り言のように呟く。


 エリーは夜のベルリンをゆっくりと見渡した。


 この街も、時代とともに変わり続けている。

 戦争で焼け落ち、冷戦で分断され、そしてまた統一された。


 だが、過去の痕跡は今もそこかしこに残っている。

 建物のひび割れた壁や、修復されたはずの道端の石畳の隙間に。


 過去は死なない。

 それは消え去ることなく、いつだって影のように付きまとう。

 だが、それをどう捉えるかは、生きている者次第だ。


 写真の中の少女は、今も変わらぬ微笑を浮かべていた。


 白黒の世界の中で、彼女はただ静かにそこにいた。

 長い金髪は風に靡き、上品に微笑むその表情は、どこか冷ややかで、遠い。


 エリーは指先で写真の端をなぞった。


「――次は、イタリアにでも赴こうかしら」


 誰に向けた言葉でもなかったが、まるで写真の中の少女に語りかけるように、ぽつりと零れた。


 埃っぽい紙の質感。

 かすかに色褪せたその一枚の写真は、時代を超えて今も彼女をそこに閉じ込めているようだった。


 バディ・ヴェルガーデン。


 エリーは細く息を吐いた。

 写真の中で彼女は、かつての自分たちを象徴するように、変わらぬ美しさを持ち続けていた。


 まだ過去に囚われたのは、私たちだけじゃない。


 エリーは煙草を指先で弾き、そのままコートのポケットへ滑り込ませる。


「……さて、行くとしましょうか」


 黒いジャケットの裾を払うと、彼女は静かに歩き出した。


 この写真の少女に、直接会う日が来るのだろうか――

 そんなことを考えながら。

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