8話 私はお前を殴ってでも
エリー・ブラックローバーは静かに歩いていた。
滑走路の端。遠くに停められた戦闘機の機体が、冬の曇天の下で鈍く光っている。
空気は冷え切っていたが、彼女はそれを気にする様子もなく、手をポケットに突っ込んだままのんびりとした足取りを続けていた。
「……思ったより楽ね」
呟く声は軽いが、目だけは油断なく周囲を見渡している。
カメラの向きは変えた。入り口の警備も突破済み。
“突破”といっても、大層なことはしていない。
誰も見ていない隙をついて、すり抜けただけだった。
「意外と、こういうとこザルなのよね」
特に空軍基地のような場所は、一般人の侵入が想定されていない。
防衛対象はあくまで外部からの攻撃であり、内部の警戒はそれほど厳しくない。
ましてや、こんな小柄な女が基地内をうろつくとは、誰も思わなかったのだろう。
監視カメラは、二つほど叩き壊し、残りは向きを変えた。
防犯システムのハッキング? そんなものは必要なかった。
単純に“そこにいない”と思わせることができれば、それでいい。
「まあ、問題は……」
足を止める。
風の音。
それと同時に、基地内に響き渡る警報。
「これが、ちょっと耳障りってことね」
遠くでざわめきが広がっていく。
足音、無線のやり取り、兵士たちの動き――音の重なりが、基地の空気を一変させる。
それでも、エリーの足取りは変わらない。
「……そろそろ来るかな」
言葉通り、その時はすぐに訪れた。
視界の端で、車のライトが鋭く光る。
低く唸るエンジン音。
視線を向けると、灰色の軍用車両が次々と集結し、滑走路の端を塞いでいく。
後方にも、別の車両が回り込むのが見えた。
「囲むのが早いわね、さすがは軍人さんってとこかしら」
彼女はそのまま足を止めず、包囲網が狭まるのをじっと見ていた。
車両のドアが開く。
黒い軍服の兵士たちが、次々と降り立つ。
誰もが無駄のない動きでライフルを構え、エリーへと銃口を向けた。
その姿は、まるで完璧に統制された機械のようだった。
「両手を上げろ!」
短く、鋭い声。
エリーは立ち止まり、周囲を見回す。
前方、後方、左右。
四方を完全に塞がれ、逃げ道はどこにもない。
銃口が向けられたまま、滑走路の静寂が支配する。
兵士たちはエリーを警戒しつつも、次の指示を待っている。
エリーはため息をつき、両手をポケットから出した。
「ほら、これでいいでしょ?」
ゆっくりと両手を上げる。
指には何も握られていない。
だが、兵士たちの警戒は解けない。
彼らの視線が、エリーのわずかな動きを逃さないように鋭く張り詰めていた。
エリーは眉を上げる。
「……ねえ、ちょっとは話し合いってもんをしない?」
誰も答えない。
彼女は小さく舌打ちした。
「時間がもったいないわよ?」
その言葉に、兵士の一人が無線に手を伸ばした。
「侵入者を確保。指示を仰ぐ」
無線のノイズが短く響き、すぐに指示が下される。
「連行しろ」
兵士たちが一斉に動く。
数人がエリーの腕を掴もうとした瞬間――
エリーは、微かに笑った。
そして、静かに、はっきりとした声で問うた。
「ノーラは?」
その一言が、場の空気を変えた。
兵士たちは、一瞬だけ動きを止める。
彼らの顔には動揺はない。
だが、確実に意識が揺らいだのがエリーには分かった。
「……」
彼女は、ゆっくりと兵士たちを見回す。
「無駄なことはやめて、さっさと通してちょうだい?」
微笑む口元の奥で、エリーの目は鋭く光る。
そして――基地全体が、その言葉の意味を理解し始めた。
「な、何をしている!! 早く取り押さえんか!!」
軍曹の怒声が、静寂を切り裂いた。
兵士たちは一斉に反応し、ライフルを構え直す。
彼らの動きには迷いがない。基地を守るための軍人として、侵入者は排除するべき存在だ。
だが――その場の空気は、妙に重く、動きにくい。
エリーが名を呼んだだけで、彼らの動きが一瞬止まったのを、軍曹は見逃していなかった。
「早くしろ! 何を躊躇している!!」
鋭く叱責するが、兵士たちはどこか動きが鈍い。
「やめろ」
静かに、しかし圧倒的な威厳を持った声が、その場を支配した。
軍曹は、反射的に振り返る。
そして、目にしたのは――
ノーラ・ベルクハイム
漆黒のロングコートを翻し、堂々とした足取りで歩み寄る。
軍帽の影に隠れた瞳は鋭く、冷え切った空気をさらに冷たくする。
兵士たちの緊張が一気に張り詰めた。
彼らの視線が、ノーラとエリーの間を行き来する。
ノーラは、軍手袋をゆっくりと外しながら、低く言った。
「離してやれ」
その言葉に、軍曹の顔が強張る。
「ですが、大佐! 侵入者です! これを許せば、今後の基地の防衛に――」
「お前たちでは、こいつに勝てない」
淡々とした口調だったが、その響きには絶対的な自信があった。
軍曹は言葉を失う。
「……何を――」
「もしも、こいつが本気を出したら……お前たちは、簡単に殺される」
ノーラの言葉に、兵士たちは微かに息を飲む。
軍曹の顔も、一瞬だけ凍りついた。
エリーはそんなやりとりを聞きながら、口元をわずかに歪める。
「へぇ、物分かりがいいことで」
彼女は腕を軽く振り、兵士たちを見回す。
「聞いた? あんたたちじゃ、私に勝てないんだってさ」
挑発的な言葉に、兵士たちの視線が鋭くなる。
だが、ノーラはそのままエリーを見据えながら、冷たく言った。
「同窓会の件は、何度言われても断る」
それを聞いた瞬間――エリーの表情が変わった。
「 あーあー! このうるさいの、止めてもらえる? 」
両耳を塞ぎながら、わざとらしく大声を上げる。
ノーラの部下の一人が、慌てて指示を出し、鳴り響いていた警報が止まる。
基地全体が、静寂に包まれた。
エリーは満足げに鼻を鳴らし、ノーラに向き直る。
「 あー、なんだって? 」
ノーラは短く息を吐く。
「私は軍にいる。過去を振り返るつもりはない」
「ふーん?」
エリーは肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべた。
だが、その目はどこか冷たい光を宿していた。
「じゃあさ、過去を振り返らせてやるわ」
ノーラの眉が微かに動く。
「……お前、本気か?」
「ええ、本気よ」
エリーは片手を挙げ、指をひらひらと振る。
「せっかく久しぶりの再会なのに、もうちょっと楽しい話をしないとね」
その声は軽やかだったが、どこか危険な響きを帯びていた。
ノーラは目を細める。
この女は、何を考えている?
背後で兵士たちが僅かにざわめく。
彼女の意図を測りかねているのか、それとも――
その次の瞬間だった。
――バチンッ!!
乾いた音が響く。
エリーの手が、ノーラの頬を強く打ち据えていた。
基地全体が静まり返る。
兵士たちが、目を見開く。
誰もが信じられないものを見るような表情だった。
エリーはそのまま、冷ややかに言う。
「お返し、私だけボコボコにされるのは癪だもの。」
ノーラは、ゆっくりと顔を戻した。
頬がわずかに赤く染まっている。
「……」
彼女は何も言わない。
エリーは鼻で笑った。
「やっぱり、昔と変わってないわね……ねぇ、正直に言ってあげるわ」
エリーは腕を組みながらノーラを見つめた。
「私さ、クズみたいな生活してるのは認めるわよ。でもね、戦い続けるアンタは……すごいと思うのよ」
ノーラは微かに眉を動かす。
「私に“何もしていない”なんて言ったけどさ、あんたは“まだ戦ってる”じゃない」
エリーは、両手をポケットに突っ込みながら肩をすくめる。
「ほら、同窓会ってさ、周りにマウント取る場になったりするじゃない? アンタが来たら、きっとみんな羨ましがるわよ。“すげぇな、まだ軍人やってるのか”って」
ノーラの視線がわずかに揺れた。
「やめろ」
低く響いた声は、命令ではなく、警告のようだった。
「やめろって言われてもねぇ」
エリーは飄々と笑う。
「やめろ!!」
ノーラが怒鳴った。
エリーは目を細めた。
「……何よ」
「私は、もう祖国のために戦っているわけじゃない!」
ノーラは一歩踏み出した。
「もう私がいたドイツは、あの頃のドイツじゃない……! 祖国は全くの別物になった!」
声が荒くなる。
「私はもう……何と戦っているのかわからない……!!」
エリーは微かに唇を噛む。
「……じゃあ、なんで戦ってるの?」
「……」
「軍人でいれば楽だから? それとも、戦いをやめたら、自分が何者なのかわからなくなるから?」
「黙れ!!」
ノーラの声が空気を裂く。
次の瞬間、彼女の手が伸び、エリーの首元を掴んだ。
指が触れた瞬間、ビリッとした衝撃が走る。
静電気のような軽いものではない。まるで雷が直に肌を焼くような鋭い痛みが、じわじわと喉元へと広がる。
「ッ……!」
エリーの呼吸が詰まり、喉が震えた。全身に鳥肌が立つ。焼けるような熱が、皮膚の内側までじわじわと食い込んでいく。
「……お前、羨ましいか?」
ノーラの声は低く、抑えられた怒気が滲んでいた。
「これが……羨ましいか?」
エリーの皮膚にじりじりと痛みが走る。ノーラの指先が、まるで灼熱の鉄でできているかのようだった。触れている部分の感覚が鈍くなり、それでも痺れは鋭く、肌の奥まで突き刺さる。
指の間から、小さな火花が散った。
ノーラの手がわずかに震えているのがわかった。
「……ベルリン防衛以来、私は自分の能力を抑えることができなくなった……!!」
ノーラの声が震える。感情の揺れとともに、手から発する電流がさらに強まる。エリーの髪が逆立ち、頬に沿って走る青白い火花が、視界の隅を焼いた。
それでも、エリーはじっとノーラを見つめていた。
「だから、こうやって身を包んでいるんだ……!!」
焦げた匂いが漂う。エリーの肌の一部が軽く焼かれ、首元に赤黒い痕が浮かび上がる。それでも彼女は、唇をわずかに歪めながら、息を吸った。
「……バカね」
電流が走るたびに、喉元にじんとした痛みが残る。それでもエリーは、どこか楽しげな響きを含んだ声で言った。
「後悔してるなら、言えばいい……!!」
ノーラの目が揺れる。
「喪失感を抱えてるのは……あんたも、私も一緒じゃない……!!」
息が荒くなる。
「だったら、同窓会で傷を舐め合うのも……悪くないんじゃない?」
ふっと笑う。
「チェイスなら、きっとそう言うわよ……“あの頃の話でもしよう”ってね」
ノーラの指が、わずかに緩む。
熱が遠のいていく。
エリーは、微かに笑った。
「どう? ちょっとはマシな誘い方になったかしら」
ノーラは何も言わなかった。
ただ、手を離したまま、黙ってエリーを見ていた。
「さぁ、行くわよ」
エリーは黒いジャケットの襟を直しながら、ノーラを見た。
「外でバカソ連がタバコ吹かして待ってる」
ノーラは一瞬だけ眉をひそめたが、余計なことは聞かなかった。
二人は車に乗り込み、墓地へと向かう。
……墓地に着くと、冷えた風が草葉を揺らした。
エリーはまっすぐノーラの墓へと歩き、スコップを肩に担ぐ。
「さて――掘るわよ」
リリアンが慌てて前に出た。
「あの!! 墓を掘り返すのは困ります!」
「ダメ」
エリーは軽く言い放ち、スコップを地面に突き立てる。
「サーシャ、手伝いなさい」
彼女の指示にサーシャは短く頷き、無言でスコップを手に取る。
ノーラは腕を組み、じっとそれを見つめていた。
「……そこには、遺体など埋まっていない」
その言葉に、エリーはニヤリと笑った。
「いいや、埋まってるわ」
墓地に、土を掘り返す音だけが響く。
やがて、スコップが硬い何かに当たった。
エリーは膝をつき、丁寧に土を払う。
そこにあったのは――黒ずんだ軍服。
かつてノーラが着ていた親衛隊の制服だった。
肩章も、軍帽も、全てがそのまま残されている。
さらに、その下から木箱が現れた。
エリーは箱の蓋を開く。
中には、一枚の古びた写真。
色褪せたその写真には――
エリー、ノーラ、そして他の三人。
幼かった彼女たちが並び、ぎこちない笑みを浮かべていた。
エリーは指先で写真をなぞる。
「……ちょっとした、タイムカプセルね」
ノーラは何も言わず、ただ静かにそれを見つめていた。
沈黙が降りる。
長い時を経て掘り返された記憶が、墓地の冷たい空気の中に漂っていた。
ノーラはゆっくりと手を伸ばし、地中から掘り起こされた親衛隊の制服を拾い上げた。
指先が、布地の冷たさを確かめる。
――懐かしい感触だった。
思わず、無意識のうちに指先で縫い目をなぞる。
かつて、これを誇りとともに身に纏っていた。
勝利を信じて、戦場を駆け抜けていた。
あの頃の私は、確かにここにいた。
だが、それも今は過去。
国は滅び、戦友は死に、歴史は私たちを忘れていった。
私は、この世界から消え去るはずだった。
――いや、違う。
ノーラは制服を握りしめる。
これを纏っていたあの頃は、確かに生きていた。
誇りを持ち、使命に従い、仲間とともに戦っていた。
たとえ敗れ、歴史から葬られようとも、私たちは確かに存在したのだ。
そう、私はここにいた。
そして今も、こうして生きている。
その事実が、まざまざと突きつけられる。
エリーの手によって。
ノーラの胸の奥が、熱くなる。
長年抱えていた虚しさが、すっと消えた。
私は負けたと思っていた。
敗北者として、歴史から消え去るべき存在だと。
だが――
今、この世界は平和である。
それは、私たちの犠牲が決して無駄ではなかったという証ではないのか?
我々は、死んでなどいない。
その瞬間だった。
バチッ――!
鋭い音とともに、ノーラの体を包んでいた青白い光が弾け飛ぶ。
帯電していた空気が、まるで弾かれるように揺れ、地面に火花が散った。
ノーラの肩が、一瞬びくりと跳ねる。
――抜けていく。
長年彼女を縛っていた電流が、ゆっくりと静かに流れ落ちる。
指先から腕へ、腕から足へ、そしてつま先から大地へと吸い込まれるように。
力が抜けたように、ノーラの膝がわずかに折れた。
「……!」
エリーは目を細め、じっとその光景を見つめていた。
ノーラは、ふらりと一歩後ずさる。
頭を振るようにして、自らの両手を見下ろす。
――何も感じない。
いつもまとわりついていた、あの痺れるような感覚が消えた。
体の内側を巡っていた微弱な振動が、まるで霧散するようにどこかへ消えていった。
ノーラはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、エリーの姿。
いつもの飄々とした表情のまま、だが、その瞳は真っ直ぐこちらを見ている。
スカイブルーの瞳。
――変わらない。
戦火の中でも、冷たい世界の中でも、決して曇らなかった。
不意に、ノーラの口から言葉が零れた。
「……スラブ譲りの、相変わらず青い眼だな」
乾いた空気の中に、その言葉だけが静かに落ちた。
エリーは、一瞬きょとんとする。
しかし、すぐに鼻で笑った。
「当然でしょ。そんな簡単に色褪せるもんじゃないわ」
ノーラは小さく、だが確かに微笑んだ。
その様子を少し離れた場所で見ていたサーシャが、煙草を指で弾く。
「ナチスの亡霊も、ようやく成仏できたかね」
夜の空気が、静かに流れる。
墓地には、遺体はなかった。
だが――
確かに、何かが埋まっていた。
そして、それが掘り起こされたことによって、ようやく一つの時代が終わりを迎えたのかもしれない。
ノーラは制服をそっと胸に抱きしめる。
これは、過去の亡霊ではない。
これは、私が生きた証。
そして、これからも生き続けるための――
確かな、記憶。