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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
7/41

7話 燻るハーケンクロイツ

 リリアンの家、静かな午後。


「……イテテテ……」


 エリーはリリアンの家の小さな洗面台の前で、服を少しめくりながら絆創膏を貼っていた。


 ノーラの部下たちに取り押さえられた時の衝撃が、まだ体に残っている。女の子同士の喧嘩ならいざ知らず、相手は軍人。手加減なんてされるわけがなかった。


 鏡に映る自分の姿を見て、エリーは小さく舌打ちした。


「まったく……ボコボコにしやがって……」


 腕には青アザ、肩には擦り傷。まるで喧嘩帰りの不良少女みたいな有様だった。


 すると後ろで、サーシャが無言で絆創膏の包装を破る音がする。


「背中、見せろ」


「へいへい……」


 エリーは不機嫌そうにしながらも、シャツを少し引き上げる。


 サーシャは、彼女の背中に浮かぶ青アザを見つめながら、ゆっくりと手を伸ばす。


 だが――


「……」


 貼る直前に、彼は一瞬だけ動きを止めた。


 アザが、みるみるうちに薄くなっていく。


 普通の人間なら、数日は残るはずの打撲痕が、まるで時間を巻き戻すように消えていく。


 それは、エリーが“偉大なる魔女”である証だった。


 サーシャは少し眉をひそめた。


「……なるほどな」


「何よ、ジロジロ見て」


「いや、お前、痛がるくせにもうほとんど消えてるじゃないか」


 エリーは、ムッとした表情で振り返った。


「うっさい!! 一応貼って!!」


「意味あるのか?」


「気分の問題よ!」


 サーシャは苦笑しながら、消えかけたアザの上に丁寧に絆創膏を貼った。


「はい、これで安心だな」


 エリーは腕を組みながら、ぶすっとした表情で呟く。


「……まったく、軍人ってやつは……」


 サーシャは煙草を取り出しながら、ふと呟いた。


「しかし……まさかドイツ空軍に偉大なる魔女がいるとはな」


「……」


 エリーは顔を上げる。


「これはもう、国が関与していると見て間違いない」


 サーシャのその言葉に、エリーは軽く鼻で笑った。


「当たり前じゃない」


 彼女はソファにどさっと座り込み、ゆっくりと足を組んだ。


「ドイツは、第二次大戦の敗戦国よ。戦後は軍事的に制限されていた……でも、時代が変わった。今はEUの主導権を握ってる国のひとつ」


「つまり?」


「戦争はしない。でも、戦える準備だけはしてるってことよ」


 エリーは、目を細めながら天井を見上げる。


「ドイツはね、自分たちがまた『世界大戦の火種』になるのを恐れてる。でも、それと同時に、自分たちが再び“強くあるべき”とも考えてるのよ」


 サーシャは腕を組みながら、じっとエリーを見ていた。


「だからノーラを利用してる、と?」


「そうね。だって彼女、戦争を経験してる上に、不死身みたいなもんよ。そんな“伝説の軍人”が現役のドイツ空軍の大佐として存在してるなんて、国が関与してないわけがないじゃない」


 サーシャは煙を吐き出しながら、ゆっくりと頷いた。


「……興味深いな」


 エリーは、皮肉げに笑った。


「どうする? 私たちもドイツ政府に雇ってもらおうか?」


 サーシャは苦笑した。


「お前、政府の犬になれるタイプか?」


「冗談よ」


 エリーは煙を吐きながら、冷えたコーヒーを一口飲む。


「……ノーラは、私たちと違う道を選んだのよ」


 そう呟く彼女の表情は、どこか寂しげだった。


 エリーは腕を組みながら、頬をぷくっと膨らませた。


「……許せない」


 サーシャは煙草をくわえたまま、半眼で彼女を見る。


「何がだ?」


「決まってるじゃない、同窓会の案内を断ったことよ!」


 エリーはソファに寝転がり、枕をバシッと叩いた。


「私がせっかくあんなに一生懸命、楽しそうに説明したのに……『私は私の人生を生きている』とか言っちゃって! あと、なんなのよ、あの“何もしてない”呼ばわり!!」


 バタバタと足を動かしながら、まるで子供のように駄々をこねる。


 サーシャは苦笑しながらコーヒーをすする。


「言いたいことはわかるが……まぁ、ノーラの言うことにも一理あるんじゃないか?」


「それはわかるけど!!」


 エリーは膝を抱え込みながら唸った。


「でも、そこまで言う必要ないでしょ!? まるで私がクズみたいに!!」


「……まぁ、お前、実際ろくな生活してないしな」


「うっさい!! それでも、ちゃんと生きてるんだからいいの!!」


 エリーはむくれながら、空のグラスを無意味に転がした。


「……でも、やっぱり許せないわ」


「何が?」


「ノーラの態度よ!! あの仏頂面!!」


「お前も人のこと言えないがな」


「うるさい!!!」


 エリーはソファにごろんと寝転がり、仰向けのまま天井を見つめる。


「……絶対に、ノーラを同窓会に引きずってでも参加させるわ」


「へぇ」


 サーシャは興味なさそうに言いながら、灰皿に煙草を押し付ける。


「なぜそこまで?」


「だって……」


 エリーは口をもごもごと動かしながら、しばらく考え込む。


「……じゃないと、チェイスに申し訳ないもの」


「ほう?」


 サーシャはニヤリと笑う。


「本当にチェイスのためか?」


 エリーはバッと起き上がり、勢いよくサーシャを指差した。


「当たり前でしょ!!!」


 その瞬間――


「……ぷっ」


 サーシャは思わず吹き出した。


「な、何よ!!」


「いや、お前、本当にわかりやすいな」


「うるさいわね!!」


 エリーは顔を赤くしながら、再び枕をバシバシ叩いた。


 サーシャはゆっくりとコーヒーを飲みながら、薄く笑みを浮かべる。


「ま、せいぜい頑張れよ」


「アンタも協力しなさいよ!!」


「はは、それはどうかな」


 エリーはふんっと鼻を鳴らしながら、腕を組む。


「ノーラ……覚悟しなさいよ」


 そう呟いた彼女の目は、どこか本気だった。






 ドイツ空軍基地・ノーラの執務室


 冷たい空気が室内に満ちている。


 執務机の上には整理された書類が並ぶが、ノーラ・ベルクハイムはそれらに目もくれず、葉巻を燻らせていた。


 外では戦闘機のエンジン音が微かに響いている。

 基地の一角、軍務の中心とも言えるこの部屋で、ノーラはあからさまに落ち込んでいた。


「……」


 視線は宙を彷徨い、思考はまとまらない。


 葉巻の煙が、ゆらゆらと天井へと溶けていく。


 そのとき、控えめなノックの音が響いた。


「大佐、失礼します」


 入ってきたのは、オッド・シュタイナー中佐。

 ノーラの副官であり、空軍の実務を担う重要な人物だった。


 ノーラは視線を動かさず、淡々と応じる。


「何だ」


 オッドは無表情のまま、手元の書類を確認しながら報告を始める。


「15時より、連邦国防省との合同会議。その後、18時から欧州空軍戦略会議。そして……」


 彼の口調は淡々としているが、その目はじっとノーラの様子を観察していた。


 ノーラが聞いていないことは、一目瞭然だった。


 葉巻の先に視線を落とし、ただ無言で煙を吐いている。


 オッドは一つ咳払いをする。


「……大佐、お聞きになっていますか?」


 ノーラはようやく視線を向けた。


「聞いている」


「なら結構」


「……続けろ」


「明日は空挺部隊の訓練視察、その後、新規採用パイロットとの面談。さらに……」


 オッドが報告を続ける間も、ノーラの意識はどこか上の空だった。


 オッドは視線を上げ、静かに尋ねる。


「大佐」


「……何だ」


「ずいぶんと上の空ですが」


「……」


「よろしければ、何かお話を」


 ノーラは短く鼻を鳴らし、口の端を歪める。


「お前に相談することなんて、何もない」


「そうでしょうか」


 オッドは変わらぬ口調で応じる。


「大佐がここまで心ここにあらずなのは、珍しいことです」


 ノーラは葉巻の火を灰皿に押し付けた。


「……くだらないことを考えていただけだ」


「くだらないこと、ですか」


 オッドはその言葉を繰り返す。


「それは……先ほどの件でしょうか?」


「……」


 ノーラは沈黙する。


 オッドは動じない。


「墓地で、エリー・ブラックローバーと再会したと聞いています」


 ノーラの瞳が僅かに揺れた。


 やはり、この男には誤魔化しは効かない。


「大佐」


「……何だ」


「エリー・ブラックローバーは、過去の存在ですか?」


「……」


 ノーラはその言葉に答えず、ただ机の上に視線を落とす。


 オッドは続けた。


「昔の友人に会うというのは、軍人にとっては特別なことです」


「……」


「私は、過去に会いたい友人はいません。しかし、大佐にとって彼女は、そうではなかったのでしょう?」


 ノーラは目を細める。


 オッドはその視線を受けても、動じなかった。


「……お前は、昔の友人に会うことはあるか?」


 オッドは静かに首を横に振った。


「ありません。軍に入ってからは忙しく、学生時代の友人とも疎遠になりました」


「……そうか」


 ノーラは皮肉げに微笑む。


「軍にいる限り、過去を振り返る暇はない……か」


「それは大佐も同じでは?」


 オッドの言葉に、ノーラはふっと笑う。


「……そうかもしれないな」


 オッドは静かに頷いた。


「ですが、過去と決別することと、過去を受け入れることは違います」


 ノーラは目を細め、しばしオッドを見つめる。


「……随分と哲学的なことを言う」


「必要とあらば、軍人は哲学も学びます」


 オッドは表情を変えずにそう言った。


 ノーラは、短く鼻を鳴らす。


「……くだらん」


 だが、その目は、どこか遠くを見ていた。


 そして、ゆっくりと椅子の背に体を預ける。


「……オッド」


「はい、大佐」


「今日は、このまま外出する」


「どちらへ?」


「……気まぐれだ」


 オッドは少し考えたが、何も言わずに頷いた。


「では、車を手配します」


「不要だ」


 ノーラはそう言って立ち上がると、軍帽を手に取る。


「徒歩で行く」


 オッドは微かに眉を上げたが、何も言わなかった。


 ノーラ・ベルクハイムは、軍人としての顔を持ち続けながら、しかし今、その心は戦場以外の何かに揺らいでいた。


 過去か、現在か。


 それとも――


 彼女は静かに歩き出した。


 葉巻の火をゆっくりと灰皿に押し付けた。

 灰が崩れ、赤い火が消える。


 オッドが退室した後、室内には再び静寂が広がった。


 ノーラは深く息を吐き、執務机に肘をつく。

 指先が、机の表面をゆっくりとなぞる。


 ただ、落ち着かない。


「……何を考えている?」


 誰に向けたわけでもなく、ぽつりと呟く。


 この感情は何だ。


 エリー・ブラックローバー。


 数十年ぶりに再会した少女。

 かつての戦友。

 かつての仲間。

 ……かつての、何だった?


 ノーラは眉間に皺を寄せる。


「……あいつのことを考えている暇はない」


 そう、自分に言い聞かせる。


 だが――


「嘘だ」


 気づいてしまっている。

 本当に忘れていたなら、今ここでこんなにも心がざわつくはずがない。


 エリーが見せた怒り。

 エリーが見せた悔しさ。

 エリーが見せた、拗ねたような顔。


「……」


 彼女は、まだあの時のままだった。

 時間が経っても、変わらずにそこにいた。


 変わってしまったのは、私の方か?


 ノーラは拳を軽く握る。


「私は……」


 静かに呟き、窓の外を見上げた。


 空は曇っていた。


「私は、変わってしまったのか」


 かつての自分なら。

 エリーと並んで、同じ空を見ていた頃なら。


 今日の再会を、どう感じただろうか?


「……フン」


 鼻で笑う。


 思い出に浸るなんて、まるで老兵のようじゃないか。


 私は軍人だ。

 戦争が終わっても、軍人であり続けることを選んだ。

 それ以外に、生きる術を知らなかったからだ。


 だから――


「過去にすがる理由なんてない」


 そうだろう?


 ノーラは机の引き出しを開けた。

 整然と並ぶ書類の奥に、埃をかぶった小さな箱がある。


 手を伸ばし、そっと取り出す。


 蓋を開ける。


 錆びたハーケンクロイツのバッジ。


 かつて、親衛隊の軍服についていた徽章。

 今はその役目を終え、時間の中で朽ちかけていた。


 ノーラはそれを指でつまみ、じっと見つめる。


「……ふん」


 鼻で笑う。


 こんなもの、もう何の意味もない。


 戦争は終わったのだ。


 ハーケンクロイツは、忌むべき象徴として歴史の中に封じ込められた。

 かつて誇りを持っていた者たちも、今では忘れ去られる運命にある。


 それでも。


「……なぜ、捨てなかった?」


 自分自身に問いかける。


 何のために、今もこれを持っている?


 未練か?


 まさか。


「……」


 ノーラはバッジを握りしめた。


 鉄の冷たさ。

 指先に伝わる、錆びた感触。


 あの時の戦場の記憶が、微かに蘇る。


 血と煙の匂い。

 絶え間ない銃声。

 燃え落ちる街。


 そして――


 戦友たちの、叫び。


「……くだらない」


 ノーラはそれを、机の上に放り投げた。


 カシャン――


 鈍い音が、静寂の中で響く。


 過去にすがるつもりはない。


 そう、すがるつもりはなかった。


 それなのに――


「エリー」


 その名を、また口にしてしまう。


 彼女の声が、まだ頭の中に残っている。


「アンタ……右目、どうしたの?」


 その問いが、ずっと胸に引っかかっている。


 どうして、あんなにも真正面から聞く?


 ノーラは、右目に手を当てた。

 黒い眼帯の下、そこにあるのは――色を失った世界。


 何も見えないわけではない。

 輪郭はぼんやりと認識できる。

 だが、色がない。


 赤も、青も、緑も、すべてが灰色の濃淡に変わってしまった。


 最初は気にしなかった。

 戦場で負った傷の一つだと思ったし、軍人として戦い続ける上で視覚の片方を失うことは大したことではない。


 ……はずだった。


 だが、エリーに言われた瞬間、ずっと目を背けていた事実が浮き彫りになった。


 私は、何を見失ったのだろうか?


「……」


 ノーラは眼帯の上から軽く目を押さえた。


 色を失ったのは、目だけだったのか?


 戦争が終わり、生き延びた者として軍に残った。

 しかし、それは生きる理由だったのか?


 エリーは、私をどう見た?


「……違う」


 思考がまとまりかけたところで、無理やり否定する。


 考えすぎだ。

 私は、ただ軍人として生きているだけ。

 エリーのように、何もせずに過去に浸かっているわけではない。


「私は、今を生きている」


 それが唯一の真実だ。


 ノーラは深く息を吐き、机の上の葉巻を取る。


 だが、マッチを擦る前に手が止まった。


 その時――


 ――ヴォォォォォォォン!!!!


 低く響くサイレンが、基地内に鳴り響いた。


 ノーラの表情が、一瞬で引き締まる。


 緊急警報――侵入者か?


 すぐにインターフォンが鳴る。


「こちら管制室! 緊急事態です! 西側フェンスが突破され、侵入者を確認!」


 ノーラは即座に立ち上がった。


「何者だ?」


「未確認! 単独か、それとも複数かも不明! 監視カメラが――ッ、くそ、何者かに向きを変えられました! 侵入経路が特定できません!」


 カメラの向きを変えた?


「……チッ」


 ノーラは手袋をはめ、即座にコートを羽織る。


「警備隊をすぐに展開しろ」


「了解!」


 執務室を飛び出しながら、ノーラの表情には先ほどまでの迷いは微塵もなかった。


 戦うべき相手がいるなら、迷う必要はない。


 だが――


 どこかで、脳裏をかすめる疑念。


(まさか……いや、違う)


 あいつが、こんな真似をするはずがない。


 ……本当に?

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