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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
5/41

5話 嘘と男

 朝の光が淡く墓地を照らしていた。

 草の葉に残っていた朝露はすっかり乾き、風が吹けばさらさらと土埃が舞い上がる。

 サーシャは無言で墓石の表面を撫でると、ゆっくりと指先でポンポンと叩いた。


 エリーは煙草をくわえながら、その様子を見ていた。


「……KGB時代にな、おいぼれチェイスが俺を助けてくれたことがあった」


 低く、乾いた声だった。

 エリーは軽く眉をひそめながら、煙草を指で弾く。


「へぇ……バーテンダーがKGBを助ける? 何それ、冗談?」


 サーシャは肩をすくめ、墓地の向こうに視線を向ける。


「俺も最初はそう思ったさ」


 冷戦末期。ベルリンの東側。


 サーシャはKGBの情報工作員だった。

 しかし、ある作戦でしくじり、東ドイツの秘密警察――シュタージに追われる羽目になった。


「単純な話だ。裏切り者をあぶり出す作戦だったが、誰かが先に俺を売った」


 路地裏を駆け抜ける。

 ベルリンの東側は昼間でも薄暗く、人気のない路地はまるで冷え切った墓場のようだった。

 背後から迫る足音、遠くで聞こえる無線の声――時間の猶予はほとんどなかった。


 息を殺しながら、サーシャは店の影に身を潜めた。


 そして目の前にあったのが、場末のバーだった。


「普通なら、そんな場所に逃げ込むべきじゃなかった」


 だが、当時のサーシャには選択肢がなかった。


 冷えたドアノブを握り、思い切って押し開ける。


 バーの中は薄暗く、スモークがかった空気が漂っていた。

 カウンターの奥でグラスを磨いていたのは、どこかくたびれた風貌の男だった。


「よぉ、お兄さん、ずいぶんと急いでるな」


 サーシャは息を整えながら、奥の席に腰を落とす。


 チェイスは、ちらりと彼を見たが、それ以上は何も言わず、カウンターの奥に置かれたバーボンのボトルを取り出した。


「飲むか?」


「代金は?」


「いらねぇよ」


 サーシャは疑いの目を向けた。


「……なぜ?」


「客がガタガタ震えてると、店の雰囲気が悪くなるんでな」


 乾いた声でそう言いながら、チェイスは琥珀色の液体をグラスに注いだ。


 その時、店の外に黒い車が停まる音がした。


 シュタージの追っ手だ。


 サーシャが咄嗟に身構えると、チェイスがカウンター越しに手を上げた。


「落ち着け、お前さんはもうこの店の客だ」


「……」


「客を売るようなことはしねぇよ」


 数分後、黒ずくめの男たちが店に入ってきた。


「ここの店主か」


「見ての通りよ」


 シュタージの兵士は、無遠慮に店内を見渡す。


「KGBの男がこの辺に逃げた。何か知らないか?」


 チェイスはグラスを拭きながら、肩をすくめた。


「知らねぇな。うちは西側の酔っぱらいしか来ない」


「本当に?」


「見ての通り、静かな店だろ?」


 男たちは、カウンターの隅に座るサーシャをじっと見た。


 しかし、彼はすでにコートを脱ぎ、チェイスが出したグラスを手にしていた。

 不自然な動きはない。


「……チッ」


 男たちは何も言わずに店を後にした。


 サーシャは、ゆっくりとグラスを置いた。


「……何で助けた?」


 チェイスは、またグラスを拭きながら答えた。


「客だからって言ったろ?」


「そんな理由で?」


「それに、お前さん、まだ死ぬには惜しい顔してる」


 サーシャはしばらく沈黙した後、鼻で笑った。


「……馬鹿みたいだな」


「よく言われる」


 チェイスはにやりと笑い、再び酒を注ぐ。


「お前さん、もうしばらくベルリンにいるつもりか?」


「……いや、ここはもう長くない」


「そりゃ残念だ」


 チェイスは、グラスの縁を指で弾く。


「なら、俺の店に来い」


「……は?」


「しばらく身を隠すなら、ちょうどいい場所だろ」


 サーシャは、驚きと疑いの目を向けた。


「俺はKGBだぞ?」


「だから?」


「……いずれ消える運命かもしれない」


「それは俺も同じだ」


 チェイスはさらりと言った。


「西側も東側も関係ねぇ。お前みたいな厄介な奴も、酒さえ飲めりゃただの客だ」


 サーシャは目を伏せる。


 KGBの世界に、こんな奴がいるとは思わなかった。


「……妙な奴だな」


「俺もそう思う」


「……しばらく、世話になるかもしれない」


「おう、歓迎するぜ」


 チェイスは、新しいグラスを差し出した。


「乾杯といこうか」


 サーシャは、それをじっと見つめたあと、静かにグラスを取った。


「……あぁ、乾杯」


 サーシャは短く息を吐いた。


「それから、俺とチェイスは時々会うようになった」


 エリーは煙草をくわえたまま、しばらく考え込むように煙を吐き出す。


「……なるほどね」


 彼女は煙を吐き出し、煙草の火を指で弾いた。


「つまり、恩があるから私の為にノーラを探してるってわけ?」


 サーシャは小さく笑う。


「そういうことにしておこう」


「ふーん……」


 エリーは墓石に背を預け、空を見上げた。


「チェイスって、ほんと馬鹿ね」


「……そうかもな」


 静かな朝の風が吹き抜ける。


 二人は、それぞれの煙草の火を見つめながら、しばし無言でいた。


 朝の空気が冷え、墓地の静寂が二人を包んでいた。


 エリーは墓石にもたれかかりながら、燻らせていた煙草をゆっくりと口元に運んだ。

 サーシャも無言で煙を吐き出し、視線は遠くの空へと向けられている。


 そこへ、ひとりの若い女性が足音も控えめに近づいてきた。


「あの……」


 控えめな声が響く。


 エリーとサーシャは、ほぼ同時に彼女を見た。


 20代前半くらいの女性。

 ブロンドの髪を後ろでまとめ、知的な眼鏡をかけている。

 着ているのは少し古めかしいブラウスとロングスカートで、腕には数冊の本が抱えられていた。


 彼女は、少し困ったように眉を寄せて言う。


「ええっと……すみません、ここで煙草はちょっと……」


 エリーは一瞬きょとんとした後、わざとらしく煙を吐き出した。


「へぇ……墓地でタバコって、ダメなの?」


「まあ、絶対に禁止されているわけではないですけど……その、雰囲気的に……」


 彼女は曖昧な笑みを浮かべながら、エリーの手元の煙草を見た。


「それに、あまりにも堂々と吸われると、参拝に来た方が驚くかもしれませんし……」


 エリーはふぅっと煙を吐いた後、肩をすくめて煙草を地面に落とし、靴の先で踏み消した。


「ったく、礼儀作法がうるさいわね」


「ここは墓地ですから」


 女性は苦笑しながら、抱えていた本を胸元で抱え直した。


「何をしていたんですか?」


 エリーとサーシャは目を合わせる。


 どちらも「適当に誤魔化そう」という無言の合意があった。


「ちょっと昔話をな」


 サーシャがさらりと言う。


「そう、ちょっとした思い出巡りってやつ?」


 エリーも適当に乗っかる。


 女性は怪訝な表情をしたが、特に追及する気はないようだった。


「そうですか……まぁ、あまり長居はしないでくださいね」


「アンタは?」


 エリーは腕を組みながら彼女を見た。


「ここで何してるの?」


「ああ、私はこの墓地の管理をしているんです」


「管理?」


「ええ。実家がこの墓地の管理をしていて、私は週末だけ手伝ってるんです。お小遣いをもらいながら」


 彼女はくすっと笑い、手に持った本を示した。


「私は大学で歴史を学んでいるので、ここにある墓の由来を調べたり、記録を整理したりもしています」


 エリーは「へぇ」と相槌を打った。


「墓地の管理人兼、歴史の研究者ってわけね」


「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、歴史を忘れないように、ちゃんと記録を残しておきたくて」


 彼女は照れくさそうに笑った。


「名前は?」


「リリアン・ヴァイゼ」


 リリアンはにこやかに名乗った。


「なるほど、真面目そうな名前ね」


 エリーはつまらなそうに言いながら、お腹を押さえた。


 ぐぅ……


 不意に、静かな墓地にエリーの腹の音が響いた。


「……」


 サーシャがちらりと彼女を見る。


「お前、朝から何も食ってないのか?」


「アンタがコンビニに寄ってくれなかったからよ」


 エリーはサーシャを睨みつけた。


「それくらい自分で用意しろ」


「はいはい、ソ連仕込みの合理主義ってやつね」


「そういう問題ではない」


「じゃあ、うちで何か食べていきます?」


 リリアンがクスリと笑って提案した。


 エリーは「は?」という顔をする。


「実家はすぐ近くですし、簡単な食事なら出せますよ」


「……いいの?」


「まぁ、タバコをやめてもらったお詫びみたいなものです」


「へぇ……」


 エリーはサーシャをちらりと見た。


「どうする? KGBさん」


 サーシャは淡々と答えた。


「食えるなら食う」


「……仕方ないわね」


 エリーはため息をついたが、内心では少し嬉しかった。


 何せ、空腹には勝てなかった。



 リリアンの実家は、丘を降りてすぐの場所にあった。


 レンガ造りの小さな家。古いけれど、きちんと手入れが行き届いているのが分かる。

 玄関脇には花壇があり、風に揺れるラベンダーの香りが微かに漂っていた。


「両親は?」


 エリーが何気なく聞くと、リリアンは肩をすくめる。


「あまり帰ってきませんね。仕事が忙しいんです」


「へぇ、どんな仕事?」


「父は歴史研究者で、今は外国で発掘調査に行っています。母はその補助をしているので、ほとんど家にはいません」


「なるほど、遺跡オタクってわけね」


 エリーは鼻で笑いながら、玄関をくぐった。


 中はこじんまりとしていたが、温かみのある空間だった。木製の家具に、アンティーク調のランプ、壁には本棚が並び、ぎっしりと歴史書が詰まっている。


「こっちにどうぞ」


 リリアンがリビングへ案内する。


 サーシャは無言で奥の部屋を覗き込み、突然顔をほころばせた。


「……おお」


「ん?」


 エリーが訝しげに振り向くと、サーシャはしゃがみ込んでいた。


 そこには、大きなゴールデン・レトリバーがいた。


「こいつは……でかいな」


 レトリバーは尻尾を振りながらサーシャに擦り寄り、彼の手に鼻を押しつける。


「お前、犬好きだったの?」


 エリーは驚き半分で問いかけた。


 サーシャはレトリバーの頭を撫でながら、珍しく穏やかな表情を見せる。


「……動物は裏切らないからな」


「ふーん」


 エリーは興味なさげに言いながら、適当な椅子に腰を下ろした。


「こいつの名前は?」


「ブリュンヒルデです」


「……でかい名前ね」


 エリーはテーブルに肘をつきながら、あたりを見回す。


「それにしてもさ」


 エリーはリリアンを見上げる。


「さっきの墓地、他の参拝者って言っても誰もいなかったじゃない。アンタ、本当に管理なんかしてるの?」


「そんなことはないですよ」


 リリアンは苦笑しながら、キッチンで紅茶を淹れ始めた。


「確かに、参拝に来る人は少ないですけど……時々、ドイツ空軍の人たちが来ます」


「空軍?」


 エリーは眉をひそめた。


「戦没者の墓に、現役のドイツ空軍が? 何の用?」


「まぁ、個人的なものだと思いますよ」


 リリアンは紅茶をカップに注ぎながら、淡々と答えた。


「彼らは定期的に来て、静かに墓の前に立っています。特に話をすることはありませんが、しばらく黙祷して帰っていきます」


 エリーは腕を組み、考え込んだ。


「……なんか、気持ち悪いわね」


「そうですか?」


「だって、空軍の現役パイロットが、戦没者の墓に足を運ぶ理由って何よ。軍の行事でもないのに」


「彼らにとっても、何か意味があるんでしょうね」


 リリアンは紅茶を運びながら、少し困ったように微笑んだ。


「それに……みんな葉巻を吸ってくるので、注意するのが大変なんです」


「は?」


 エリーが顔をしかめた。


「墓地で葉巻? あんた、さっき私には煙草やめろって言ったくせに」


「私としては、どちらにも遠慮してほしいんですが……」


 リリアンは苦笑する。


「空軍の方々は葉巻を吸いながら、静かに佇んでいます。注意しても、みんな『すぐに消す』って言って結局吸い続けるんですよね」


 エリーは半眼でリリアンを見つめながら、紅茶をすすった。


「……ドイツ軍人ってのは、昔も今も、どうしようもないわね」


「そういうものですよ」


 リリアンは肩をすくめた。


 サーシャは、相変わらずレトリバーの頭を撫でながら、ふとリリアンに視線を向けた。


「君のような歴史好きなら、この墓地が昔、何の建物だったか知っているか?」


 リリアンは紅茶を置き、少し考え込む。


「……うーん、私は詳しくは知らないんですが……祖父なら、何か知っていたかもしれませんね」


「祖父?」


「ええ、5年前に他界しましたが、もともとドイツの研究者だったんです」


 リリアンの表情が、どこか曖昧になる。


「でも、昔のことはあまり話したがらなかったですね……特に戦時中のことは」


「……なるほど」


 サーシャは興味深げにうなずく。


「戦争の研究者で、話したがらなかった……つまり、ナチス関連だった可能性が高いな」


「たぶん、そうだと思います」


 リリアンは少し寂しげに笑った。


「祖父の意向で、この土地を墓地にしたんですよ。きっと、何か償いたいことがあったんでしょうね」


 エリーは、ゆっくりと紅茶を置いた。


「……ってことは、ここにいる戦没者って、実際には行方不明者も含まれてるってこと?」


 リリアンは少し驚いたようにエリーを見たが、すぐにうなずいた。


「ええ……名目上は戦没者ですが、実際には記録が曖昧な人もいます。戦後、正式な死亡報告がないまま行方不明になった人たちの名前も、この墓地には刻まれています」


 エリーは、ゆっくりと立ち上がった。


「……じゃあ、その墓、掃除してもいいかしら?」


「え?」


 リリアンは少し戸惑った。


「良いですけど……広いですよ? すべて綺麗にするのは大変ですけど」


 エリーは墓地のほうへ目を向ける。


 静かに並ぶ墓標。


 雨風に晒され、煤けてしまった無数の石碑。


 彼女は、何かを感じていた。


 それが何なのかは、まだはっきりしない。


 けれど――


「……まぁ、やれるとこまでやるわよ」


 そう言って、エリーは煙草の火を指先で弾きながら、小さく笑った。


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