5話 嘘と男
朝の光が淡く墓地を照らしていた。
草の葉に残っていた朝露はすっかり乾き、風が吹けばさらさらと土埃が舞い上がる。
サーシャは無言で墓石の表面を撫でると、ゆっくりと指先でポンポンと叩いた。
エリーは煙草をくわえながら、その様子を見ていた。
「……KGB時代にな、おいぼれチェイスが俺を助けてくれたことがあった」
低く、乾いた声だった。
エリーは軽く眉をひそめながら、煙草を指で弾く。
「へぇ……バーテンダーがKGBを助ける? 何それ、冗談?」
サーシャは肩をすくめ、墓地の向こうに視線を向ける。
「俺も最初はそう思ったさ」
冷戦末期。ベルリンの東側。
サーシャはKGBの情報工作員だった。
しかし、ある作戦でしくじり、東ドイツの秘密警察――シュタージに追われる羽目になった。
「単純な話だ。裏切り者をあぶり出す作戦だったが、誰かが先に俺を売った」
路地裏を駆け抜ける。
ベルリンの東側は昼間でも薄暗く、人気のない路地はまるで冷え切った墓場のようだった。
背後から迫る足音、遠くで聞こえる無線の声――時間の猶予はほとんどなかった。
息を殺しながら、サーシャは店の影に身を潜めた。
そして目の前にあったのが、場末のバーだった。
「普通なら、そんな場所に逃げ込むべきじゃなかった」
だが、当時のサーシャには選択肢がなかった。
冷えたドアノブを握り、思い切って押し開ける。
バーの中は薄暗く、スモークがかった空気が漂っていた。
カウンターの奥でグラスを磨いていたのは、どこかくたびれた風貌の男だった。
「よぉ、お兄さん、ずいぶんと急いでるな」
サーシャは息を整えながら、奥の席に腰を落とす。
チェイスは、ちらりと彼を見たが、それ以上は何も言わず、カウンターの奥に置かれたバーボンのボトルを取り出した。
「飲むか?」
「代金は?」
「いらねぇよ」
サーシャは疑いの目を向けた。
「……なぜ?」
「客がガタガタ震えてると、店の雰囲気が悪くなるんでな」
乾いた声でそう言いながら、チェイスは琥珀色の液体をグラスに注いだ。
その時、店の外に黒い車が停まる音がした。
シュタージの追っ手だ。
サーシャが咄嗟に身構えると、チェイスがカウンター越しに手を上げた。
「落ち着け、お前さんはもうこの店の客だ」
「……」
「客を売るようなことはしねぇよ」
数分後、黒ずくめの男たちが店に入ってきた。
「ここの店主か」
「見ての通りよ」
シュタージの兵士は、無遠慮に店内を見渡す。
「KGBの男がこの辺に逃げた。何か知らないか?」
チェイスはグラスを拭きながら、肩をすくめた。
「知らねぇな。うちは西側の酔っぱらいしか来ない」
「本当に?」
「見ての通り、静かな店だろ?」
男たちは、カウンターの隅に座るサーシャをじっと見た。
しかし、彼はすでにコートを脱ぎ、チェイスが出したグラスを手にしていた。
不自然な動きはない。
「……チッ」
男たちは何も言わずに店を後にした。
サーシャは、ゆっくりとグラスを置いた。
「……何で助けた?」
チェイスは、またグラスを拭きながら答えた。
「客だからって言ったろ?」
「そんな理由で?」
「それに、お前さん、まだ死ぬには惜しい顔してる」
サーシャはしばらく沈黙した後、鼻で笑った。
「……馬鹿みたいだな」
「よく言われる」
チェイスはにやりと笑い、再び酒を注ぐ。
「お前さん、もうしばらくベルリンにいるつもりか?」
「……いや、ここはもう長くない」
「そりゃ残念だ」
チェイスは、グラスの縁を指で弾く。
「なら、俺の店に来い」
「……は?」
「しばらく身を隠すなら、ちょうどいい場所だろ」
サーシャは、驚きと疑いの目を向けた。
「俺はKGBだぞ?」
「だから?」
「……いずれ消える運命かもしれない」
「それは俺も同じだ」
チェイスはさらりと言った。
「西側も東側も関係ねぇ。お前みたいな厄介な奴も、酒さえ飲めりゃただの客だ」
サーシャは目を伏せる。
KGBの世界に、こんな奴がいるとは思わなかった。
「……妙な奴だな」
「俺もそう思う」
「……しばらく、世話になるかもしれない」
「おう、歓迎するぜ」
チェイスは、新しいグラスを差し出した。
「乾杯といこうか」
サーシャは、それをじっと見つめたあと、静かにグラスを取った。
「……あぁ、乾杯」
サーシャは短く息を吐いた。
「それから、俺とチェイスは時々会うようになった」
エリーは煙草をくわえたまま、しばらく考え込むように煙を吐き出す。
「……なるほどね」
彼女は煙を吐き出し、煙草の火を指で弾いた。
「つまり、恩があるから私の為にノーラを探してるってわけ?」
サーシャは小さく笑う。
「そういうことにしておこう」
「ふーん……」
エリーは墓石に背を預け、空を見上げた。
「チェイスって、ほんと馬鹿ね」
「……そうかもな」
静かな朝の風が吹き抜ける。
二人は、それぞれの煙草の火を見つめながら、しばし無言でいた。
朝の空気が冷え、墓地の静寂が二人を包んでいた。
エリーは墓石にもたれかかりながら、燻らせていた煙草をゆっくりと口元に運んだ。
サーシャも無言で煙を吐き出し、視線は遠くの空へと向けられている。
そこへ、ひとりの若い女性が足音も控えめに近づいてきた。
「あの……」
控えめな声が響く。
エリーとサーシャは、ほぼ同時に彼女を見た。
20代前半くらいの女性。
ブロンドの髪を後ろでまとめ、知的な眼鏡をかけている。
着ているのは少し古めかしいブラウスとロングスカートで、腕には数冊の本が抱えられていた。
彼女は、少し困ったように眉を寄せて言う。
「ええっと……すみません、ここで煙草はちょっと……」
エリーは一瞬きょとんとした後、わざとらしく煙を吐き出した。
「へぇ……墓地でタバコって、ダメなの?」
「まあ、絶対に禁止されているわけではないですけど……その、雰囲気的に……」
彼女は曖昧な笑みを浮かべながら、エリーの手元の煙草を見た。
「それに、あまりにも堂々と吸われると、参拝に来た方が驚くかもしれませんし……」
エリーはふぅっと煙を吐いた後、肩をすくめて煙草を地面に落とし、靴の先で踏み消した。
「ったく、礼儀作法がうるさいわね」
「ここは墓地ですから」
女性は苦笑しながら、抱えていた本を胸元で抱え直した。
「何をしていたんですか?」
エリーとサーシャは目を合わせる。
どちらも「適当に誤魔化そう」という無言の合意があった。
「ちょっと昔話をな」
サーシャがさらりと言う。
「そう、ちょっとした思い出巡りってやつ?」
エリーも適当に乗っかる。
女性は怪訝な表情をしたが、特に追及する気はないようだった。
「そうですか……まぁ、あまり長居はしないでくださいね」
「アンタは?」
エリーは腕を組みながら彼女を見た。
「ここで何してるの?」
「ああ、私はこの墓地の管理をしているんです」
「管理?」
「ええ。実家がこの墓地の管理をしていて、私は週末だけ手伝ってるんです。お小遣いをもらいながら」
彼女はくすっと笑い、手に持った本を示した。
「私は大学で歴史を学んでいるので、ここにある墓の由来を調べたり、記録を整理したりもしています」
エリーは「へぇ」と相槌を打った。
「墓地の管理人兼、歴史の研究者ってわけね」
「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、歴史を忘れないように、ちゃんと記録を残しておきたくて」
彼女は照れくさそうに笑った。
「名前は?」
「リリアン・ヴァイゼ」
リリアンはにこやかに名乗った。
「なるほど、真面目そうな名前ね」
エリーはつまらなそうに言いながら、お腹を押さえた。
ぐぅ……
不意に、静かな墓地にエリーの腹の音が響いた。
「……」
サーシャがちらりと彼女を見る。
「お前、朝から何も食ってないのか?」
「アンタがコンビニに寄ってくれなかったからよ」
エリーはサーシャを睨みつけた。
「それくらい自分で用意しろ」
「はいはい、ソ連仕込みの合理主義ってやつね」
「そういう問題ではない」
「じゃあ、うちで何か食べていきます?」
リリアンがクスリと笑って提案した。
エリーは「は?」という顔をする。
「実家はすぐ近くですし、簡単な食事なら出せますよ」
「……いいの?」
「まぁ、タバコをやめてもらったお詫びみたいなものです」
「へぇ……」
エリーはサーシャをちらりと見た。
「どうする? KGBさん」
サーシャは淡々と答えた。
「食えるなら食う」
「……仕方ないわね」
エリーはため息をついたが、内心では少し嬉しかった。
何せ、空腹には勝てなかった。
リリアンの実家は、丘を降りてすぐの場所にあった。
レンガ造りの小さな家。古いけれど、きちんと手入れが行き届いているのが分かる。
玄関脇には花壇があり、風に揺れるラベンダーの香りが微かに漂っていた。
「両親は?」
エリーが何気なく聞くと、リリアンは肩をすくめる。
「あまり帰ってきませんね。仕事が忙しいんです」
「へぇ、どんな仕事?」
「父は歴史研究者で、今は外国で発掘調査に行っています。母はその補助をしているので、ほとんど家にはいません」
「なるほど、遺跡オタクってわけね」
エリーは鼻で笑いながら、玄関をくぐった。
中はこじんまりとしていたが、温かみのある空間だった。木製の家具に、アンティーク調のランプ、壁には本棚が並び、ぎっしりと歴史書が詰まっている。
「こっちにどうぞ」
リリアンがリビングへ案内する。
サーシャは無言で奥の部屋を覗き込み、突然顔をほころばせた。
「……おお」
「ん?」
エリーが訝しげに振り向くと、サーシャはしゃがみ込んでいた。
そこには、大きなゴールデン・レトリバーがいた。
「こいつは……でかいな」
レトリバーは尻尾を振りながらサーシャに擦り寄り、彼の手に鼻を押しつける。
「お前、犬好きだったの?」
エリーは驚き半分で問いかけた。
サーシャはレトリバーの頭を撫でながら、珍しく穏やかな表情を見せる。
「……動物は裏切らないからな」
「ふーん」
エリーは興味なさげに言いながら、適当な椅子に腰を下ろした。
「こいつの名前は?」
「ブリュンヒルデです」
「……でかい名前ね」
エリーはテーブルに肘をつきながら、あたりを見回す。
「それにしてもさ」
エリーはリリアンを見上げる。
「さっきの墓地、他の参拝者って言っても誰もいなかったじゃない。アンタ、本当に管理なんかしてるの?」
「そんなことはないですよ」
リリアンは苦笑しながら、キッチンで紅茶を淹れ始めた。
「確かに、参拝に来る人は少ないですけど……時々、ドイツ空軍の人たちが来ます」
「空軍?」
エリーは眉をひそめた。
「戦没者の墓に、現役のドイツ空軍が? 何の用?」
「まぁ、個人的なものだと思いますよ」
リリアンは紅茶をカップに注ぎながら、淡々と答えた。
「彼らは定期的に来て、静かに墓の前に立っています。特に話をすることはありませんが、しばらく黙祷して帰っていきます」
エリーは腕を組み、考え込んだ。
「……なんか、気持ち悪いわね」
「そうですか?」
「だって、空軍の現役パイロットが、戦没者の墓に足を運ぶ理由って何よ。軍の行事でもないのに」
「彼らにとっても、何か意味があるんでしょうね」
リリアンは紅茶を運びながら、少し困ったように微笑んだ。
「それに……みんな葉巻を吸ってくるので、注意するのが大変なんです」
「は?」
エリーが顔をしかめた。
「墓地で葉巻? あんた、さっき私には煙草やめろって言ったくせに」
「私としては、どちらにも遠慮してほしいんですが……」
リリアンは苦笑する。
「空軍の方々は葉巻を吸いながら、静かに佇んでいます。注意しても、みんな『すぐに消す』って言って結局吸い続けるんですよね」
エリーは半眼でリリアンを見つめながら、紅茶をすすった。
「……ドイツ軍人ってのは、昔も今も、どうしようもないわね」
「そういうものですよ」
リリアンは肩をすくめた。
サーシャは、相変わらずレトリバーの頭を撫でながら、ふとリリアンに視線を向けた。
「君のような歴史好きなら、この墓地が昔、何の建物だったか知っているか?」
リリアンは紅茶を置き、少し考え込む。
「……うーん、私は詳しくは知らないんですが……祖父なら、何か知っていたかもしれませんね」
「祖父?」
「ええ、5年前に他界しましたが、もともとドイツの研究者だったんです」
リリアンの表情が、どこか曖昧になる。
「でも、昔のことはあまり話したがらなかったですね……特に戦時中のことは」
「……なるほど」
サーシャは興味深げにうなずく。
「戦争の研究者で、話したがらなかった……つまり、ナチス関連だった可能性が高いな」
「たぶん、そうだと思います」
リリアンは少し寂しげに笑った。
「祖父の意向で、この土地を墓地にしたんですよ。きっと、何か償いたいことがあったんでしょうね」
エリーは、ゆっくりと紅茶を置いた。
「……ってことは、ここにいる戦没者って、実際には行方不明者も含まれてるってこと?」
リリアンは少し驚いたようにエリーを見たが、すぐにうなずいた。
「ええ……名目上は戦没者ですが、実際には記録が曖昧な人もいます。戦後、正式な死亡報告がないまま行方不明になった人たちの名前も、この墓地には刻まれています」
エリーは、ゆっくりと立ち上がった。
「……じゃあ、その墓、掃除してもいいかしら?」
「え?」
リリアンは少し戸惑った。
「良いですけど……広いですよ? すべて綺麗にするのは大変ですけど」
エリーは墓地のほうへ目を向ける。
静かに並ぶ墓標。
雨風に晒され、煤けてしまった無数の石碑。
彼女は、何かを感じていた。
それが何なのかは、まだはっきりしない。
けれど――
「……まぁ、やれるとこまでやるわよ」
そう言って、エリーは煙草の火を指先で弾きながら、小さく笑った。