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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
最終章 エリー編
40/41

40話 愛の魔女

 ソフィアがテレビを調べ始めた瞬間、魔女たちの動きは速かった。


「電源はまだ入るかもしれない。」


 ソフィアがそう言うと、彩葉が素早くテレビの裏に回り込んだ。


「よし、任せろ!」


「違う、それはアンテナの線だ。あんまり雑に扱うな。」


 ノーラが厳しい声で言う。


「えぇっ!? どれだよ!! これか!?」


「違う、そっちじゃない!」


「ああもう、めんどくせぇなぁ……!」


 彩葉が悪戦苦闘するのを、ノーラが呆れ顔で見守る。

 一方、バディは腕を組んだまま、静かに事の成り行きを見つめていた。


「何も変わらないわね……あなたたちは。」


 彼女は呆れたように呟いた。


 ――そして。


 パチンッ


 テレビが僅かに光を放ち、ジジジ…… とノイズが走る。


 ――そして、画面の中で、男が喋り始めた。


『……エリー。』


 4人の視線が、一斉に画面へと向く。


 薄暗い病室。

 窓の外には、ベルリンの灰色の空。


 ベッドの上で、男が弱々しくカメラを見つめていた。


「……この男は……?」


 バディが眉をひそめる。


 ソフィアもまた、画面を見つめながら言った。


「エリーの……なんなの?」


 しかし、4人が疑問に思うよりも先に、男は静かに語り続けた。


『俺には……名前がない。』


 ノイズが混じりながら、男の声が聞こえる。


『俺は、誰でもなかった。ただ生き延びて、嘘をついて、そして、最後は独りだった。』


「……。」


 ノーラが眉を寄せる。


『エリー……。』


 男は微かに息を吐いた。


『愛してる。』


 4人の誰もが息を呑んだ。


『こんな俺でも……お前に覚えててもらえるのが、嬉しい。』


 男の声はかすれていた。

 しかし、その言葉には、確かな想いがこもっていた。


『だけど……俺は、もうお前の記憶にも残らない方がいいのかもしれない。』


 最後の言葉が、ひどく静かに響いた。


 その瞬間、テレビの画面が突然ノイズに包まれ――


 プツンッ。


 映像が途切れた。


 沈黙。


 誰もが、ただ黙っていた。


「……名もない兵士か。」


 低く、ノーラが呟いた。


「……?」


 ソフィアが彼女を見つめる。


 ノーラはゆっくりと息を吐き、腕を組んだまま、静かに言った。


「この話の流れ……この男には、正式な身分も、名前も、何もなかったはずだ。」


「……そういうことか。」


 バディが静かに頷く。


「エリーは、“誰もいなくなった場所”に向かったのね。」


「……!」


 その言葉を聞き、彩葉がハッとする。


「おいおい……マジかよ……。」


 彼女は画面をじっと見つめたまま、少し口を開けたまま固まっていた。


「彩葉?」


 ソフィアが問いかけると、彩葉は眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと口を開いた。


「この男、名前がねぇって言ったよな?」


「言ったわね。」


 バディが静かに頷く。


 彩葉は自分のこめかみを指で叩きながら、ぽつりと言った。


「……名前がねぇなら、そりゃあ、無縁墓地にいるしかねぇよな。」


 その言葉に、全員がハッとした。


「……エリーは、そこに行ったのね。」


 ソフィアが静かに呟く。


 ノーラも、画面を睨みながら言った。


Massengrabマッセン・グラープか……。」


「お前、知ってるのか?」


 彩葉がノーラの方を見ると、彼女は小さく頷いた。


「ベルリンの中心部にある無縁墓地……そこに埋葬されるのは、身元が分からない者、孤独に死んだ者、歴史に埋もれた者たちだ。」


「ってことは、エリーは今……」


 彩葉の言葉に、バディは静かに目を細めた。


「……その“歴史に埋もれた男”の墓の前にいるってことね。」


 ソフィアはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。


「……行きましょう。」


 ノーラが立ち上がる。


「ベルリンの無縁墓地へ。」


 バディは何も言わず、ただ立ち上がり、コートを羽織る。


「エリー……アンタ、一人で何をしてるのよ。」


 彩葉もまた、腰を上げ、ネクタイを整えた。


「行くぞ。アイツを迎えに。」


 4人の魔女は、静かにバーを後にした。



 夜の闇が深く沈み込むベルリンの無縁墓地。

 冷たい風が吹き抜け、薄暗い街灯が墓標の影を長く落としていた。


 そして、そこにいたのは――


 エリー・ブラックローバー。


 彼女は墓の間をふらつきながら歩いていた。

 手には酒瓶、もう半分以上空になっている。


「……くそ……。」


 酒の匂いが漂う中、彼女は震える手で墓石にすがる。いくつもの墓標をなぞり。指先が震え、名前を追うたびに息が詰まる。それでも、そこに彼の名はない。


 名もない墓、十字架だけが立てられたもの、荒れ果てた墓標。

 ここに眠るのは、誰にも知られることのなかった者たち。

 歴史に埋もれ、記録にすら残らなかった者たち。


 そして、彼女が探しているのは――


「……どこだよ……。」


 エリーの声は掠れていた。


「どこに埋まってんのよ、チェイス……!」


 彼女の手が震える。


「葬式もなかった……墓もなかった……」


 酒を煽る。


 喉が焼けるような感覚が、ほんの少しだけ彼女の感情を鈍らせる。

 だが、それでも何も変わらない。


「……死んだ後のことなんて、考えたこともなかった……。」


 エリーはぽつりと呟いた。


 チェイスが死んだ後、自分は何をしていた?


 彼の死を受け入れたわけでもない。

 彼を悼んだわけでもない。

 ただ、酒を飲んで、思い出を酒瓶の奥に沈めて、見ないふりをしていた。


 彼が死んだ後のことを、何一つ考えてこなかった。


 それが、今になって胸を抉る。


「……バカみたいだわ……。」


 エリーは墓の前に崩れ落ちた。


「こんなところで、何してんのよ、私……。」


 彼女の視界が滲む。

 アルコールのせいか、涙のせいか、それはもう分からなかった。


 そして――


 遠くから、墓地の入り口で、誰かの足音が聞こえ始めた。


 ――ノーラ・ベルクハイムだった。


 それだけじゃない。

 バディも、彩葉も、ソフィアも、皆がいた。


 彼らは、沈黙のままエリーを見つめていた。

 その静寂の中、ノーラが低く呟いた。


「……まるで滑稽だな。」


 エリーの肩がピクリと動く。


「死んだ大事な人間の名前すらも、分かってなかったのか。」


 その瞬間、エリーはゆっくりと顔を上げた。


 酒の匂いが漂い、目は赤く充血している。

 彼女の口元が、嗤うように歪んだ。


「……あぁ?」


 その言葉には、明確な怒気が滲んでいた。


「……お前らに、何が分かる?」


 エリーは立ち上がり、フラつきながらノーラを睨みつける。


「お前らは愛を知らない。」


 ノーラの眉が微かに動く。


「その愛にすら裏切られた私の気持ちが、分かるのか?」


 エリーは酒瓶を強く握りしめたまま、一人一人を見渡す。


「……ハッ、笑わせるわよ……」


 酒臭い息を吐きながら、彼女は言い放つ。


「つい最近まで、自分を死んだことにしてたナチの亡霊。

 自分を誤魔化して、何もなかったことにして、過去を塗りつぶして生きてるくせに。」


 ノーラの表情は変わらなかったが、口元がわずかに引き締まる。


「それから……」


「お高く止まっただけのクソ女。

 戦争で貴族も何もかも失ったくせに、

 今は金と権力で自分を保ってるだけ。

 そんなものにすがってないと、

 本当の自分が何もないってことに気づくのが怖かったんでしょ?」


 バディは静かに微笑みながら、グラスの縁をなぞるような手つきをした。


「はは……どっちが滑稽よ。」


 エリーは少し酔った足取りで彩葉に近づくと、鼻で笑った。


「ただの時代に馴染めない社会不適合者。

 戦争が終わったのに、自分だけが取り残されたって拗ねて、

 いつまでも『昔はよかった』ってギャンブルに逃げてる。

 それでいて、今の社会には馴染めないって? 笑わせないでよ。」


 彩葉は、一瞬だけ目を伏せた。


 そして――最後に、ソフィアに目を向けた。


「何より、お前。お前が一番ムカつく……なんでそんなに被害者ぶれるのよ、本質的にはなんも失ってないくせに」


 ソフィアは、静かに彼女を見つめていた。


 彼女だけは、怒りもせず、ただそこに立っていた。


 エリーは勝ち誇ったように息を吐く。


「何よ、何か言い返せば?」


 その瞬間――


「いいえ。」


 ソフィアの言葉が、冷たい夜に響いた。


「愛は、裏切っていない。」


 エリーの目が揺れる。


「……何?」


 ソフィアは一歩、静かに前に出た。


「愛が裏切ったのではありません。」


 彼女の言葉は、静かで、けれど確信に満ちていた。


「裏切られたのは、貴女の期待です。」


「……っ!」


 エリーの指が、酒瓶をギリッと握りしめる。


「チェイスは、貴女を裏切ったのですか?」


「…………。」


「彼は貴女を騙しましたか? 彼は、愛していなかったのですか?」


「……そんなこと……」


「違います。」


 ソフィアは、静かに首を振った。


「彼は最後まで、貴女を愛していました。」


「……。」


「なのに、どうして“裏切られた”なんて言うのですか?」


 エリーの喉が、かすかに震えた。


「貴女は、チェイスを信じていましたか?」


「……信じていたわよ。」


 エリーは低く答えた。


「ならば――なぜ、彼の愛を疑うのですか?」


「…………っ。」


 エリーの手が、震えた。


「彼は最後まで、貴女を愛していたのです。

 愛は、裏切らない。

 それを裏切るのは、貴方の勝手な思い込みです。」


 静寂が落ちた。


 エリーは、拳を握りしめながら、ソフィアを睨んだ。


 しかし、その瞳は――


 涙で滲んでいた。


 エリーの体が震えていた。

 怒りか、悲しみか、もはや分からない。

 ただ、彼女の中に押し込めていた感情が、今にも溢れ出しそうになっていた。


 肩で息をしながら、彼女は歯を食いしばった。


「……ふざけないでよ……。」


 声が掠れる。

 酒瓶を強く握りしめ、爪が食い込むほど力を込める。


「だったら……だったら、私はどうすればよかったのよ……!」


 涙が止まらなかった。

 声を殺しても、嗚咽が漏れる。


「私は……私は、あの人がいない世界で……どうやって生きていけばよかったのよ!」


 チェイスが死んで、すべてが終わった。

 彼が最後に見た景色も、最後に交わした言葉も、何も覚えていない。

 ただ、死んだという事実だけが残されて、彼女はそこから目を背け続けてきた。


 向き合うことなんて、怖くてできなかった。


 それなのに、どうして、こんな簡単に言えるの?

「愛は裏切らない」だなんて。


「っ……!」

 ソフィアはエリーの手を握る。


 しかしエリーは彼女の腕を振り払おうとした。

 けれど、離さなかった。


 そして強く、だけど優しく、彼女は抱きしめた。


 壊れそうなガラスを包み込むように、そっと。


 エリーの体がびくりと震えた。


「私は、貴女を愛しています。」


 温もりに触れた瞬間、エリーは息を呑んだ。


「……何を……言って……」


「いいえ。ここにいるみんなが、貴女を愛している。」


 静かで、揺るぎのない声だった。


「エリー、貴女は誰よりも頑張っていた。」


 ソフィアはゆっくりと、エリーの背を撫でる。


「同窓会の手配をしてくれたのは、貴女です。

 私たちを繋げてくれたのも、貴女です。

 それなのに、どうしてそんなに独りになろうとするのですか?」


 エリーの目が大きく揺れた。


「……そんなの……」


「違います。」


 ソフィアは微笑んだ。


「貴女がいなければ、私たちはこうして集まることもなかったんです。」


 バディが小さく息を吐いた。


「……そうね。」


 彼女は腕を組んだまま、ゆっくりとエリーを見つめる。


「私は、たぶん、貴女が手紙をくれなければ、

 この同窓会に来なかったわ。」


 淡々とした声だったが、その瞳はどこか柔らかかった。


「貴女がいたから、私は来たのよ。」


 エリーの視界が滲む。


「……っ、バディ……。」


「アタシもだな。」


 彩葉が酒瓶を拾い上げ、苦笑しながら言った。


「まさか、同窓会に誘われるなんて思ってもみなかった。

 正直、迷ったんだけどさ……」


 彼女は酒瓶の底を軽く叩きながら、微かに笑った。


「……でも、お前が招待してくれたから、ここに来たんだよ。」


 エリーの喉が詰まる。


 まるで、知らなかったような顔をしていた。

 でも、彼女はずっと気づいていなかった。


 自分がしてきたことに、どれほどの意味があったのかを。


「お前はずっと一人で背負い込んでたみたいだけどよ。」


 彩葉は肩をすくめる。


「少なくとも、アタシたちは“エリーがいる”から、集まれたんだ。」


 エリーは、震える手でソフィアの服を握りしめた。


「……私は……。」


 涙が、溢れた。


「私は……っ……。」


 ソフィアの胸に顔を埋めると、もう涙を堪えられなかった。


「……なんで、そんなふうに言うのよ……。」


「だって、事実ですもの。」


 ソフィアはそっとエリーの髪を撫でる。


「貴女が、貴女のままでいること。」


「……。」


「それだけでいいんです。」


 エリーの涙は、静かに零れ落ちた。


 ソフィアの肩に染み込んでいく。


 温かかった。


 こんなふうに誰かに抱きしめられるのが、いつぶりだっただろうか。

 ずっと孤独に耐えていたのに、今は違った。


 彼女の周りには、仲間がいた。


 そして――


 その静寂を破るように、ノーラがベレー帽を外した。


 彼女の動きは、驚くほど静かだった。

 無言のまま、その帽子を手に持ち、エリーの顔を覆う涙を優しく拭った。


「……泣くな。」


 それだけ言って、ノーラは帽子を畳んだ。


「お前が主導した同窓会なんだ。

 最後までちゃんとやれ。」


 声はいつものように冷静で、表情も硬いままだった。

 だが、エリーには分かっていた。


 ノーラなりの、不器用な優しさだった。


 エリーは嗚咽を漏らしながら、小さく頷いた。


「……あぁ……。」


 涙は、まだ止まらなかった。

 けれど、それはもう、孤独の涙ではなかった。


 ソフィアの腕の中で、ノーラの帽子に触れながら、

 エリーは初めて、ほんの少しだけ、安らぎを感じていた。

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