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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
4/41

4話 墓標のある場所

 ベルリンの早朝は相変わらず気だるい。


 エリーはまだ眠気が抜けきらないまま、繁華街のカフェで適当なコーヒーを啜っていた。昨夜の酒が少し残っているのか、頭の奥がぼんやりしている。


 そんな中、サーシャが無言で目の前に車のキーを放り投げた。


「行くぞ」


 エリーは半眼で彼を睨む。


「……あんたの運転?」


「当然だろう」


 そう言って、サーシャはカフェの外に停めた車を指さした。


 見ると、そこには漆黒のBMW M5が停まっている。


「はぁ? 何よこれ」


「BMWだ」


「そんなの見ればわかるわよ、なんでこんな無駄にいい車なわけ?」


「ドイツ車は信頼性が高い」


 エリーはため息をついた。


「ソ連崩れのくせに、ドイツ車なんか乗っちゃって……」


「俺の祖国はなくなったんだ。車ぐらいは実用的なものを選ぶさ」


「へぇ、KGBってそんな裕福なの? それとも、ソ連の年金で買ったの?」


「……乗るのか、乗らないのか、どっちだ?」


 サーシャは無表情のままドアを開ける。


 エリーはわざとゆっくりと歩き、助手席に乗り込んだ。


 ドアを閉めた瞬間、シートの滑らかさに気づく。


「……」


「どうした?」


「クソ、座り心地いいじゃない……」


「だからBMWだと言った」


 エリーは小さく舌打ちした。


「運転荒かったら蹴っ飛ばすわよ」


「心配するな。俺はプロフェッショナルだからな」


 エリーは適当にカーナビを操作し、目的地を入力する。


「オラニエンブルク、っと」


 画面にルートが表示される。


「……ほう、ベルリンから北へ約35kmか」


「行き方は?……ええっと……カーナビによるとA111を北上し、A10経由でB96に入るルートが最速ね」


「ふむ」


 サーシャはギアを入れ、スムーズに車を発進させた。


 エリーは腕を組みながら、カーナビの画面を睨む。


「今の道をまっすぐ行って、次のインターチェンジを左……え、早っ!? もうそんなスピード出すの!?」


 サーシャは冷静に答える。


「制限速度内だ」


「うっそ、体感的に倍は出てるんだけど!?」


 エリーは半ば呆れながらも、シートに深く座り直す。


「で、その後は?」


「ええっと、B96に入ったら、そのまま道なりに……あ、違うわ、途中でL171に逸れないといけない。左折ね」


 サーシャは静かに頷く。


「了解」


 数分後――


「左折って言ったじゃない!」


「お前、今『右折』って言わなかったか?」


「言ってないわよ!」


「おかしいな、KGBの訓練では聴覚も鍛えられていたんだが」


「……それもうKGBじゃないでしょ!」


 エリーは思い切りシートを叩く。


 サーシャは肩をすくめた。


「まぁ問題ない。多少のロスだ」


「このまま進んだら、どこ行くのよ?」


「シュヴェート」


「ポーランド行っちゃうじゃない!!!」


 サーシャは無言でUターンを決めた。


 エリーは頭を抱える。


「こんな運転するなら、タクシーで行けばよかった……」


「それは無理だな」


「なんでよ」


「お前、タクシー代払えるのか?」


「……」


「遺産は、そんな無駄遣いのためにあるのか?」


「……」


 エリーはカーナビを見ながら、深くため息をついた。


「いい? 次の交差点を左」


「了解」


「その後はB96をひたすら北上」


「ふむ」


「お願いだから、その通りに運転しなさいよね」


 サーシャは口元に薄く笑みを浮かべた。


「了解」


「……っ!! しっかりしなさいよ!!!」


 ベルリンの都会の喧騒を抜け、車は北へと進んでいった。


 ……そして。


「目的地に到着しました。」


 カーナビの機械的な声が車内に響くと同時に、エリーは勢いよくドアを開け、外に飛び出した。


 そして――


「……オ゛エ゛ッ!!」


 路肩で盛大に吐き散らす。


「……」


 サーシャは運転席で腕を組みながら、その様子を呆れ顔で見つめていた。


「お前、酒癖が悪いにもほどがあるだろ」


 エリーはゼェゼェと肩で息をしながら、サーシャを睨みつけた。


「アンタの運転が悪いのよ……! なんであんなスピードでカーブを曲がるのよ!!」


「俺は制限速度を守った。問題は、お前の体調管理だ」


「クソッ……こんな奴に頼るんじゃなかった……」


 エリーはぐらつく足取りで立ち上がり、口元を拭うと、ようやく辺りを見渡した。


 ――ここが、かつて彼女たちがいた施設の跡地。


 そのはずだった。


 しかし。


「……は?」


 エリーは眉をひそめた。


 周囲を見回しても、かつての施設の面影はほとんどない。

 戦争末期にいたはずの、古びたレンガ造りの建物も、鉄柵も、何もかもが跡形もなく消えている。


 代わりに目に入るのは、綺麗に舗装された道路と、近代的な建物。

 遠くには住宅地が広がり、公園らしき場所では親子連れが散歩をしていた。


 エリーは、明らかに混乱していた。


「……違う、こんな場所じゃなかったはず」


 まるで”普通の町”だった。


「おい、どうした?」


 サーシャが車のドアを閉めながら歩いてくる。


 エリーはゆっくりと振り向き、眉間にシワを寄せながら言った。


「……ここじゃない」


「何?」


「いや、間違いなくここだったはずなのよ。でも……こんなはずじゃなかった」


 エリーの記憶の中の風景と、目の前の光景が、全く一致しない。


 戦争中、あの施設はもっと閉鎖的で、陰鬱な空気に包まれていた。

 周囲は森に囲まれ、どこか寒々しい空気が流れていた。


 だが今は――


「……町になってる」


 エリーは呆然と呟いた。


 サーシャは腕を組み、周囲を見渡しながら言う。


「当たり前だ。戦後50年以上経ってるんだぞ? 町が変わっていないと思うほうがどうかしてる」


「……でも、そんな簡単に消えるもの?」


「ナチスが使っていた施設ならな。戦後、証拠を消すために取り壊されたか、別の用途に転用されたんだろう」


 サーシャの言葉には、一切の感傷がない。


 エリーは、再び周囲を見渡した。


 50年。


 それだけの時間が経てば、何もかも変わってしまうのか。


 彼女たちがいたあの場所も、こんな”日常”の中に埋もれてしまうのか。


 エリーは苛立つように拳を握りしめた。


「……ちょっと、登るわ」


「登る?」


 エリーは、道路の向こうに見える小高い丘を指さした。


「ここに来る前、施設の窓から見えた景色があったのよ。丘の上から確認すれば……ここが本当にあの場所なのか、わかるかもしれない」


 サーシャは肩をすくめた。


「勝手にしろ」


 エリーは、足早に丘へと向かう。


 舗装された道を抜け、少しずつ傾斜がきつくなる。

 かつてこの辺りは鬱蒼とした森だったはずだが、今は開発されてすっかり”普通の丘”になっている。


 息を切らしながら、頂上へとたどり着く。


 そこから見える風景。


 それを見た瞬間――エリーの足が止まった。


「……あぁ」


 変わってしまった町並み。

 新しく建てられた住宅や道路。


 だが、それでも。


 視線を遠くへ向けると、記憶の中の風景と重なる部分が、確かに残っていた。


 木々の配置、地形の起伏、そして――


「やっぱり……ここだったのね」


 丘の上から見下ろしたその場所に、今あるもの。


 エリーは、思わず苦笑した。


「……よりにもよって、墓地かよ」


 そう、かつての施設の跡地は――


 戦没者墓地になっていた。



 エリーは黙って墓標を眺めた。


 サーシャは無言で、一つの墓の前に立ち、その表面をポンポンと叩く。


「……何してんの?」


 エリーが怪訝そうに尋ねると、サーシャは軽く肩をすくめた。


「祈ってるんだよ」


「へぇ、意外ね。あんたってそんな信仰深かったっけ?」


「いや、特に」


 サーシャは静かに煙草をくわえた。


「だが、戦って死んだ奴には、それなりの敬意を払うべきだろう」


「……ロシア人らしいわね」


 エリーは皮肉っぽく笑ったが、すぐに表情を曇らせた。


 この墓地にあるのは、ナチス親衛隊の墓もあれば、ソ連軍や戦後の東独兵のものもある。

 国も思想も関係なく、ただ戦って、死んだ人間たちが埋まっている。


 それなのに――


「……それにしても、汚いわね」


 エリーは小さく舌打ちした。


 どの墓も煤け、埃をかぶり、手入れされている形跡がない。

 雨風に晒され、文字が読めなくなったものすらある。


「……手を合わせる前に、掃除のほうが先なんじゃない?」


 サーシャは煙を吐き出しながら、静かに言う。


「時代が忘れちまったんだろう」


 エリーは「はぁ」と大げさにため息をついた。


「バカみたい」


「……そうだな」


 二人はそのまま、丘の上に腰を下ろした。


 サーシャがポケットから煙草を取り出し、一本エリーに放る。

 エリーはそれを器用にキャッチし、ライターで火をつける。


「……まさか施設がこんな風につゆのように消えるなんて、思ってもみなかったわ」


 煙を吐き出しながら、ぼんやりと遠くを眺める。


 戦争中、ノーラと最後に言葉を交わした施設。

 それが、今はただの墓地になっている。


 サーシャも静かに景色を見つめた。


「時間が経てば、そういうもんだ」


「……そうね」


 しばらく無言が続いた。


 朝の光が丘の上に柔らかく差し込む。


 墓標の影は短くなり、草葉の上に残っていた夜露はすっかり乾いていた。


 エリーとサーシャは、墓地の中に静かに立っていた。


 二人の間には、しばしの沈黙が流れる。


 どこからともなく鳥の声が聞こえ、遠くでは街へ向かう車のエンジン音が響いている。


 だが、それらはエリーの耳にはほとんど届いていなかった。


 視線の先には、戦争で死んだ者たちの名前が刻まれた墓石が並ぶ。


 ノーラ・ベルクハイムに関する記録は、どこにもない。


 それがわかった今、エリーの脳裏には、別の疑念が浮かび上がっていた。


「……ねえ、あんたさ」


 エリーは煙草をくわえたまま、ゆっくりとサーシャを見た。


「本当に、生きた証を残したくてノーラを探してるの?」


 静かな問いかけ。


 サーシャは表情を変えずに、煙草をくわえたまま答えた。


「あぁ、現にノーラは生きているんだろう?」


 その瞬間、エリーの目がわずかに細まった。


 ――嘘。


 それを見抜くのに、1秒もかからなかった。


 サーシャの声は落ち着いていた。表情にも動揺はない。

 けれど、それが“嘘が上手すぎる”せいで、むしろ際立っていた。


 本当に探しているなら、もっと必死になるはず。


 こんな余裕のある顔で言えるわけがない。


 エリーは煙草の火を指先で弾き、軽く笑った。


「わかるわよ。あんたの“嘘が上手すぎる”から、逆にね……」


 サーシャはわずかに片眉を上げたが、すぐに視線を逸らす。


「そうか?」


「そうよ」


 エリーは地面に煙草を落とし、靴の先で火を消した。


「そんな与太話、今までチェイスが散々言ってきたのを聞いてるわ」


「……」


「ナチスが遺した莫大な隠し遺産だの、戦争の亡霊だの、いろんな噂話があったわ。でも、大体は陰謀論やら適当な作り話で片付くもんよ」


「……それなら、どうして君はここに来た?」


 サーシャが静かに問い返す。


 エリーは一瞬言葉に詰まったが、すぐに肩をすくめた。


「……なんとなく。チェイスが言ってた『面倒事』の始末をつけるだけ」


「ふーん」


 サーシャは煙を吐き出しながら、ゆっくりと墓石の表面を指でなぞった。


 “ノーラを探す”ことが、単なる昔話の延長なら、こんなにも時間をかけて探すはずがない。


 エリーは、じっとサーシャを見つめた。


「KGBがそんな暇だったとは到底思えないわ」


「……」


 サーシャは笑わなかった。


 彼は、エリーの視線を避けることもなく、ただ静かに立っていた。


「もっと理由があるんじゃないの?」


 エリーは、口元に薄く笑みを浮かべる。


「例えば――チェイスにうまく騙されちゃったとか?」


 サーシャの指が、一瞬だけ止まった。


 それを見逃すほど、エリーは鈍くない。


「……」


 サーシャは、ゆっくりと墓石を叩いた。


「KGB時代にな……おいぼれチェイスが、俺を助けてくれたことがあった」


 そう言って、彼は遠い昔の記憶を語り始めた。

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