4話 墓標のある場所
ベルリンの早朝は相変わらず気だるい。
エリーはまだ眠気が抜けきらないまま、繁華街のカフェで適当なコーヒーを啜っていた。昨夜の酒が少し残っているのか、頭の奥がぼんやりしている。
そんな中、サーシャが無言で目の前に車のキーを放り投げた。
「行くぞ」
エリーは半眼で彼を睨む。
「……あんたの運転?」
「当然だろう」
そう言って、サーシャはカフェの外に停めた車を指さした。
見ると、そこには漆黒のBMW M5が停まっている。
「はぁ? 何よこれ」
「BMWだ」
「そんなの見ればわかるわよ、なんでこんな無駄にいい車なわけ?」
「ドイツ車は信頼性が高い」
エリーはため息をついた。
「ソ連崩れのくせに、ドイツ車なんか乗っちゃって……」
「俺の祖国はなくなったんだ。車ぐらいは実用的なものを選ぶさ」
「へぇ、KGBってそんな裕福なの? それとも、ソ連の年金で買ったの?」
「……乗るのか、乗らないのか、どっちだ?」
サーシャは無表情のままドアを開ける。
エリーはわざとゆっくりと歩き、助手席に乗り込んだ。
ドアを閉めた瞬間、シートの滑らかさに気づく。
「……」
「どうした?」
「クソ、座り心地いいじゃない……」
「だからBMWだと言った」
エリーは小さく舌打ちした。
「運転荒かったら蹴っ飛ばすわよ」
「心配するな。俺はプロフェッショナルだからな」
エリーは適当にカーナビを操作し、目的地を入力する。
「オラニエンブルク、っと」
画面にルートが表示される。
「……ほう、ベルリンから北へ約35kmか」
「行き方は?……ええっと……カーナビによるとA111を北上し、A10経由でB96に入るルートが最速ね」
「ふむ」
サーシャはギアを入れ、スムーズに車を発進させた。
エリーは腕を組みながら、カーナビの画面を睨む。
「今の道をまっすぐ行って、次のインターチェンジを左……え、早っ!? もうそんなスピード出すの!?」
サーシャは冷静に答える。
「制限速度内だ」
「うっそ、体感的に倍は出てるんだけど!?」
エリーは半ば呆れながらも、シートに深く座り直す。
「で、その後は?」
「ええっと、B96に入ったら、そのまま道なりに……あ、違うわ、途中でL171に逸れないといけない。左折ね」
サーシャは静かに頷く。
「了解」
数分後――
「左折って言ったじゃない!」
「お前、今『右折』って言わなかったか?」
「言ってないわよ!」
「おかしいな、KGBの訓練では聴覚も鍛えられていたんだが」
「……それもうKGBじゃないでしょ!」
エリーは思い切りシートを叩く。
サーシャは肩をすくめた。
「まぁ問題ない。多少のロスだ」
「このまま進んだら、どこ行くのよ?」
「シュヴェート」
「ポーランド行っちゃうじゃない!!!」
サーシャは無言でUターンを決めた。
エリーは頭を抱える。
「こんな運転するなら、タクシーで行けばよかった……」
「それは無理だな」
「なんでよ」
「お前、タクシー代払えるのか?」
「……」
「遺産は、そんな無駄遣いのためにあるのか?」
「……」
エリーはカーナビを見ながら、深くため息をついた。
「いい? 次の交差点を左」
「了解」
「その後はB96をひたすら北上」
「ふむ」
「お願いだから、その通りに運転しなさいよね」
サーシャは口元に薄く笑みを浮かべた。
「了解」
「……っ!! しっかりしなさいよ!!!」
ベルリンの都会の喧騒を抜け、車は北へと進んでいった。
……そして。
「目的地に到着しました。」
カーナビの機械的な声が車内に響くと同時に、エリーは勢いよくドアを開け、外に飛び出した。
そして――
「……オ゛エ゛ッ!!」
路肩で盛大に吐き散らす。
「……」
サーシャは運転席で腕を組みながら、その様子を呆れ顔で見つめていた。
「お前、酒癖が悪いにもほどがあるだろ」
エリーはゼェゼェと肩で息をしながら、サーシャを睨みつけた。
「アンタの運転が悪いのよ……! なんであんなスピードでカーブを曲がるのよ!!」
「俺は制限速度を守った。問題は、お前の体調管理だ」
「クソッ……こんな奴に頼るんじゃなかった……」
エリーはぐらつく足取りで立ち上がり、口元を拭うと、ようやく辺りを見渡した。
――ここが、かつて彼女たちがいた施設の跡地。
そのはずだった。
しかし。
「……は?」
エリーは眉をひそめた。
周囲を見回しても、かつての施設の面影はほとんどない。
戦争末期にいたはずの、古びたレンガ造りの建物も、鉄柵も、何もかもが跡形もなく消えている。
代わりに目に入るのは、綺麗に舗装された道路と、近代的な建物。
遠くには住宅地が広がり、公園らしき場所では親子連れが散歩をしていた。
エリーは、明らかに混乱していた。
「……違う、こんな場所じゃなかったはず」
まるで”普通の町”だった。
「おい、どうした?」
サーシャが車のドアを閉めながら歩いてくる。
エリーはゆっくりと振り向き、眉間にシワを寄せながら言った。
「……ここじゃない」
「何?」
「いや、間違いなくここだったはずなのよ。でも……こんなはずじゃなかった」
エリーの記憶の中の風景と、目の前の光景が、全く一致しない。
戦争中、あの施設はもっと閉鎖的で、陰鬱な空気に包まれていた。
周囲は森に囲まれ、どこか寒々しい空気が流れていた。
だが今は――
「……町になってる」
エリーは呆然と呟いた。
サーシャは腕を組み、周囲を見渡しながら言う。
「当たり前だ。戦後50年以上経ってるんだぞ? 町が変わっていないと思うほうがどうかしてる」
「……でも、そんな簡単に消えるもの?」
「ナチスが使っていた施設ならな。戦後、証拠を消すために取り壊されたか、別の用途に転用されたんだろう」
サーシャの言葉には、一切の感傷がない。
エリーは、再び周囲を見渡した。
50年。
それだけの時間が経てば、何もかも変わってしまうのか。
彼女たちがいたあの場所も、こんな”日常”の中に埋もれてしまうのか。
エリーは苛立つように拳を握りしめた。
「……ちょっと、登るわ」
「登る?」
エリーは、道路の向こうに見える小高い丘を指さした。
「ここに来る前、施設の窓から見えた景色があったのよ。丘の上から確認すれば……ここが本当にあの場所なのか、わかるかもしれない」
サーシャは肩をすくめた。
「勝手にしろ」
エリーは、足早に丘へと向かう。
舗装された道を抜け、少しずつ傾斜がきつくなる。
かつてこの辺りは鬱蒼とした森だったはずだが、今は開発されてすっかり”普通の丘”になっている。
息を切らしながら、頂上へとたどり着く。
そこから見える風景。
それを見た瞬間――エリーの足が止まった。
「……あぁ」
変わってしまった町並み。
新しく建てられた住宅や道路。
だが、それでも。
視線を遠くへ向けると、記憶の中の風景と重なる部分が、確かに残っていた。
木々の配置、地形の起伏、そして――
「やっぱり……ここだったのね」
丘の上から見下ろしたその場所に、今あるもの。
エリーは、思わず苦笑した。
「……よりにもよって、墓地かよ」
そう、かつての施設の跡地は――
戦没者墓地になっていた。
エリーは黙って墓標を眺めた。
サーシャは無言で、一つの墓の前に立ち、その表面をポンポンと叩く。
「……何してんの?」
エリーが怪訝そうに尋ねると、サーシャは軽く肩をすくめた。
「祈ってるんだよ」
「へぇ、意外ね。あんたってそんな信仰深かったっけ?」
「いや、特に」
サーシャは静かに煙草をくわえた。
「だが、戦って死んだ奴には、それなりの敬意を払うべきだろう」
「……ロシア人らしいわね」
エリーは皮肉っぽく笑ったが、すぐに表情を曇らせた。
この墓地にあるのは、ナチス親衛隊の墓もあれば、ソ連軍や戦後の東独兵のものもある。
国も思想も関係なく、ただ戦って、死んだ人間たちが埋まっている。
それなのに――
「……それにしても、汚いわね」
エリーは小さく舌打ちした。
どの墓も煤け、埃をかぶり、手入れされている形跡がない。
雨風に晒され、文字が読めなくなったものすらある。
「……手を合わせる前に、掃除のほうが先なんじゃない?」
サーシャは煙を吐き出しながら、静かに言う。
「時代が忘れちまったんだろう」
エリーは「はぁ」と大げさにため息をついた。
「バカみたい」
「……そうだな」
二人はそのまま、丘の上に腰を下ろした。
サーシャがポケットから煙草を取り出し、一本エリーに放る。
エリーはそれを器用にキャッチし、ライターで火をつける。
「……まさか施設がこんな風につゆのように消えるなんて、思ってもみなかったわ」
煙を吐き出しながら、ぼんやりと遠くを眺める。
戦争中、ノーラと最後に言葉を交わした施設。
それが、今はただの墓地になっている。
サーシャも静かに景色を見つめた。
「時間が経てば、そういうもんだ」
「……そうね」
しばらく無言が続いた。
朝の光が丘の上に柔らかく差し込む。
墓標の影は短くなり、草葉の上に残っていた夜露はすっかり乾いていた。
エリーとサーシャは、墓地の中に静かに立っていた。
二人の間には、しばしの沈黙が流れる。
どこからともなく鳥の声が聞こえ、遠くでは街へ向かう車のエンジン音が響いている。
だが、それらはエリーの耳にはほとんど届いていなかった。
視線の先には、戦争で死んだ者たちの名前が刻まれた墓石が並ぶ。
ノーラ・ベルクハイムに関する記録は、どこにもない。
それがわかった今、エリーの脳裏には、別の疑念が浮かび上がっていた。
「……ねえ、あんたさ」
エリーは煙草をくわえたまま、ゆっくりとサーシャを見た。
「本当に、生きた証を残したくてノーラを探してるの?」
静かな問いかけ。
サーシャは表情を変えずに、煙草をくわえたまま答えた。
「あぁ、現にノーラは生きているんだろう?」
その瞬間、エリーの目がわずかに細まった。
――嘘。
それを見抜くのに、1秒もかからなかった。
サーシャの声は落ち着いていた。表情にも動揺はない。
けれど、それが“嘘が上手すぎる”せいで、むしろ際立っていた。
本当に探しているなら、もっと必死になるはず。
こんな余裕のある顔で言えるわけがない。
エリーは煙草の火を指先で弾き、軽く笑った。
「わかるわよ。あんたの“嘘が上手すぎる”から、逆にね……」
サーシャはわずかに片眉を上げたが、すぐに視線を逸らす。
「そうか?」
「そうよ」
エリーは地面に煙草を落とし、靴の先で火を消した。
「そんな与太話、今までチェイスが散々言ってきたのを聞いてるわ」
「……」
「ナチスが遺した莫大な隠し遺産だの、戦争の亡霊だの、いろんな噂話があったわ。でも、大体は陰謀論やら適当な作り話で片付くもんよ」
「……それなら、どうして君はここに来た?」
サーシャが静かに問い返す。
エリーは一瞬言葉に詰まったが、すぐに肩をすくめた。
「……なんとなく。チェイスが言ってた『面倒事』の始末をつけるだけ」
「ふーん」
サーシャは煙を吐き出しながら、ゆっくりと墓石の表面を指でなぞった。
“ノーラを探す”ことが、単なる昔話の延長なら、こんなにも時間をかけて探すはずがない。
エリーは、じっとサーシャを見つめた。
「KGBがそんな暇だったとは到底思えないわ」
「……」
サーシャは笑わなかった。
彼は、エリーの視線を避けることもなく、ただ静かに立っていた。
「もっと理由があるんじゃないの?」
エリーは、口元に薄く笑みを浮かべる。
「例えば――チェイスにうまく騙されちゃったとか?」
サーシャの指が、一瞬だけ止まった。
それを見逃すほど、エリーは鈍くない。
「……」
サーシャは、ゆっくりと墓石を叩いた。
「KGB時代にな……おいぼれチェイスが、俺を助けてくれたことがあった」
そう言って、彼は遠い昔の記憶を語り始めた。