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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
大東京ヤクザ物語編
35/41

35話 日本の正義舐めんな

 遠山は、静かに背後へと下がり始めた。

 ゆっくりと、しかし確実に。


 公安の赤色灯が倉庫内の闇を照らし、サイレンが空気を震わせる。

 それは、迫る終焉の合図だった。


 ──ここは、もうダメだ。


 ヤクザとマフィアの間で生き残る術を知る者なら、こういう時の動きは決まっている。


 混乱に乗じての“撤退”──


 それが唯一の正解だった。


「ワシは……ここまでやな。」


 遠山は、小さく呟いた。

 決して焦ることなく、淡々とした足取りで影へと消えていく。


 ──この場から、生きて逃げられるのは何人いるだろうか?


 それを考える余裕すらないほど、事態は急速に動いていた。


 公安は突入をはじめる。


 倉庫の鉄扉が、重い音を立てて開かれる。

 その瞬間、倉庫内の空気が一変した。


『──制圧開始! 全員武器を捨てろ!!』


 無機質な命令が、鋭く響き渡る。


 公安の突入部隊が、一斉になだれ込んできた。

 黒ずくめの装備、揃った動き、遮蔽物を利用した瞬時の制圧態勢──


 動きに迷いはない。


 彼らはここに、躊躇なく“戦闘”をしに来た。


 マフィアの何人かが反応し、銃を抜く。

 しかし、それよりも公安の手の方が速かった。


 ──銃声。


 短く、鋭い破裂音。


 一発、二発。即応、即応、即応。


 照準を定めた公安の部隊が、撃つべき対象を寸分の狂いもなく狙い撃った。


 膝をつく者、倒れ込む者、撃たれた腕を押さえて呻く者。


「くそっ……!」


 孫は顔を歪めた。

 この動きの速さは想定外だった。


 数分はもつと思っていた防衛線が、一瞬で崩壊していく。


 公安は、徹底していた。

 迷いなく“制圧”を優先し、逃がす隙を与えない。


 出口──

 そこはすでに公安によって完全に封鎖されていた。


 その公安部隊の先頭に立っていたのは、桜海 怜太郎だった。


「動くな、孫徳成……!」


 その声が、倉庫内に響く。


 迷いのない声。

 相手を追い詰める確信に満ちた声。


 孫は、その名を聞いただけで理解した。


 ──“逃げ場はない”


 部下たちは次々と銃を捨て、膝をついた。

 戦闘の継続が不可能であると悟った者たちだ。


 だが──孫だけは違った。


「……ッ!」


 孫は銃を握りしめたまま、ゆっくりと後退する。


 ここで捕まるわけにはいかない。

 この程度の包囲で終わるつもりなど、毛頭なかった。


 彼はまだ、“勝機”を探していた。


 だが──


 公安の包囲網の中に、もはやエリーたちの姿はなかった。


 “最初からそこにいなかった”かのように、完璧に姿を消していた。


 彼らは、騒ぎが本格化する前に、既に逃走していたのだ。


 公安の目が孫たちに向けられる中、エリー、彩葉、遠山の一行は音もなく闇に紛れていた。


 公安はエリーたちがいた形跡すら掴めない。


 ──そういう手際だった。


 怜太郎は冷静な表情のまま、銃口を孫へと向け続けた。


「観念しろ。」


 孫の息が荒くなる。


 焦燥が滲む。


 ──これで終わるのか?


 その思いが、孫の目に鋭い光を宿らせた。


「……」


 孫は、歯を食いしばった。


 銃声が、倉庫の闇を裂いた。


 孫が焦燥に駆られ、最後の抵抗を試みようとした瞬間、怜太郎が鋭く踏み込んだ。


「……!」


 孫が銃を構えるより速く、怜太郎の手が孫の襟を掴む。


 瞬間、重心が浮く。


 孫の身体が宙に舞った。


 ── 一本背負い。


 バキッ──!


 鉄の床に叩きつけられる衝撃音が、倉庫内に響いた。


「が……っ!」


 孫の意識が一瞬、飛ぶ。

 呼吸が詰まり、背中に鋭い痛みが走る。


 怜太郎は、孫の腕を極めたまま、低く唸るように言った。


「日本の正義、舐めんじゃねぇ!!」


 倉庫の空気が、一瞬で凍りついた。


 公安の隊員たちがすぐに駆け寄り、孫の動きを完全に封じる。


 もはや、彼にできることはなかった。


 孫の目に宿っていた光が、ゆっくりと消えていく。


 ──これで、終わりだ。




 全てが終わった後、怜太郎は当然のようにエリーを探した。


 倉庫は公安の制圧が完了し、銃声も沈静化していた。

 倒れたマフィアたち、拘束された孫。

 だが、そこにエリーの姿はなかった。


「……チッ。」


 怜太郎は無線機を握りしめた。

 ここまで尾行してきて、その姿が忽然と消えるのは納得がいかない。


 彼女はどこに消えた?

 こんな短時間で、公安の包囲を抜け出すなど不可能なはずだ。


 まるで最初から存在していなかったかのように。


 怜太郎は拘束された孫の前に立った。

 彼は顔に汗を浮かべ、どこか焦点の合わない目で虚空を見つめていた。


「……孫徳成。」


 怜太郎が静かに名前を呼ぶ。


 孫はゆっくりと視線を上げた。

 その目には恐怖がこびりついていた。


「……白い髪の女。身長は小柄で……妙に落ち着いていて、青い目をした……」


 怜太郎はエリーの容姿を言葉にした。


 孫は、僅かに震える唇を動かす。


「……彼女は……」


 孫の言葉が詰まる。

 まるで、自分が体験した出来事をどう表現していいのか分からないといった様子だった。


「……撃鉄を落としたんだ。」


「何?」


「俺の目の前で……確かに、銃の撃鉄を落とした。」


 孫は空を見つめるように続ける。


「だが、次の瞬間……俺が瞬きをした時には、もう消えていた。」


「…………」


 怜太郎の背筋に、冷たいものが走る。


「一体、何がどうやったのか……俺には分からない……」


 孫は苦しげに呟く。


「それだけじゃない……」


「なにか、得体の知れない笑みを浮かべていた……」


「その眼差しは……忘れられない。」


 怜太郎は孫の表情を見つめた。

 彼は恐れていた。

 負けたことへの悔しさではない。


 何か、理解を超えた存在に触れた人間の顔だった。


「……彼女は、人間か?」


 孫は、蚊の鳴くような声で尋ねた。


 怜太郎は、答えられなかった。


「…………」


 何も言わず、踵を返す。


 ──おそらく、彼がホテルに戻る頃にはエリーはそこにいるだろう。


 当然のように。

 まるで何事もなかったかのように。


 ソフィアとポーカーでもしているに違いない。


「……」


 怜太郎は目を細める。


 何をしていたのか問いただしても、おそらく、こう返される。


「なにが? ずっとここにいたわよ?」


 ──当然のように。





 環七沿い、上野方面へとボロボロのセドリックが走り出す。


 車体はガタガタと揺れ、パンクしたタイヤが時折軋むような音を立てる。

 フロントガラスには細かなヒビが入り、ボンネットからは微かに白い煙が立ち上っていた。


 今にも止まりそうだ。


 だが、それでもかろうじて走っていた。


 車内は、疲労と焦燥の余韻に満ちている。


 運転席のエリーは、微かに鼻歌を口ずさみながらハンドルを回していた。

 助手席の彩葉は、窓にもたれかかるように腕を組み、気まずそうに視線を逸らしている。


 後部座席では、遠山がゼェゼェと肩を揺らしながら、何度も額の汗を拭っていた。


「……助かったぁ……」


 遠山は、まるで地獄から這い出てきたような顔で呟いた。


「ほんま、もうダメかと思ったわ……」


「クソヤクザ、情けねぇな。」


 彩葉がぼそりと呟く。


「うるせぇ……ワシらだって、正面から撃たれてたら終わってたじゃろが……!」


 遠山は口を尖らせながら言い返すが、肩で息をするのに忙しそうだった。


 エリーはそんな二人のやりとりにクスクスと微笑みながら、ハンドルを軽く回した。


「ふふ、でも楽しそうだったじゃない? 彩葉。」


「……は?」


 彩葉は訝しげにエリーを睨む。


 エリーは、無邪気な笑みを浮かべたまま言った。


「だから、つい混ざっちゃった。」


「…………」


 彩葉は深いため息をつき、視線を逸らす。


「……まぁ、一応礼くらいは言っとくよ。」


「なんですって? 聞こえなかったわ。」


「クソが……! ありがとよ!」


「ふふ、どういたしまして。」


 エリーは満足そうに笑う。


 ボロボロのセドリックは、哀れな音を立てながら、なおも環七を進んでいく。


 時折、後続車のヘッドライトが、傷だらけのボディを照らす。

 剥げかけた塗装が無惨に光り、かつての輝きは見る影もない。


 まるで戦場を駆け抜けた老兵のようだった。


 それでも、この車はまだ走る。


 上野へ向けて、疲れた三人を乗せて。



 深夜の上野。


 ネオンの灯りも消え、夜の静寂が広がっていた。

 昼間の喧騒が嘘のように、人影はほとんどない。

 街灯の下、傷だらけのセドリックが最後の仕事を終えたかのように停車する。


 エンジンが止まり、車内に静寂が戻った。


 彩葉は、ドアを開けて降りると、無言で歩き出した。


「……どこへ行くの?」


 エリーの声が、夜の冷たい空気を切る。


「歩いて帰る。」


「待ちなさい。」


 エリーの声が鋭くなる。


「話は終わってないわよ。」


 彩葉は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

 その目には、面倒くさそうな光が宿っている。


「……なんだよ、まだ説教でもすんのか?」


 エリーは何も言わず、ただじっと彩葉を見つめる。


 睨み合い。


 どちらも一歩も引かない。


 だが、先に根負けしたのは彩葉だった。


「……チッ。」


 舌打ちしながら、地面に腰を落とし、タバコを咥える。

 ジッポの火が揺れ、煙が夜空へと溶けていく。


「……久しぶりに、刀を抜いたよ。」


 煙を吐きながら、ぼそりと呟く。


「ずっと、もう使わねぇって思ってたのに……」


 少しの沈黙。


「……でもな、体は忘れてなかった。」


 彩葉は目を細め、紫煙の向こうに揺れる街灯を眺める。


「へへ……こんなアタシでも、生きてる実感があったんだ。」


 戦争を生き抜いた後、ずっと虚無だった。

 何をしても、どこにいても、ただ“生きている”だけだった。


 でも、今日の戦いは違った。


 本能が目覚めた。


「次は、いつ刀を抜くことになるのか……分からねぇ。」


 彩葉は、煙をもう一度吐く。


「……だけど、そういう場所を見つけるのも、悪くねぇな。」


 ぼそりと呟く。


 エリーは、その言葉に微かに口角を上げる。


「──ふん、どうでもいいけどさ。」


 そう言って、コートの内ポケットから一枚の封筒を取り出す。


「ほらよ。」


 彩葉の前に、封筒が落とされた。


「……?」


 彩葉は怪訝そうにそれを拾い、封を破る。


 “同窓会の便り”。


 古びた文字で記された案内状。


 そこには、見覚えのある名前が並んでいた。


 ──かつての仲間たちの名前が。


 彩葉は、しばらく無言でそれを見つめた。


 そして、ゆっくりと視線をエリーへと向ける。


「……お前、これ……」


 エリーは何も言わず、ただ微笑んでいた。


 彩葉は封筒を手の中で弄びながら、しばらく黙っていた。

 風が吹く。夜の上野の静寂の中で、紙がわずかに揺れる音が響いた。


「……これから忙しいわよ。」


 エリーが微笑みながら言う。


「まずは鹿児島に行って、ソフィアに謝りなさい。その後に、ドイツにでも来なさいな。」


「ドイツ?」


 彩葉は訝しげに眉をひそめる。


「ええ。あんたが一番、昔を笑いながら語ってくれそうだもの。」


 エリーは楽しげに言うが、彩葉は面倒くさそうに溜息をついた。


「……ったく。そんな金、ねぇよ。」


 エリーは、わざとらしく肩をすくめる。


「あら、そちらの人が貸してくれるんじゃないかしら?」


 エリーの視線が、ちらりと遠山を向いた。


 遠山はまだ息を整えながら、ぼろぼろのセドリックのハンドルに寄りかかっていた。

 ヤクザのプライドを保つように、無表情を装っていたが、明らかに疲れている。


「……利子を取りたいところじゃが。」


 遠山は、低く広島弁で呟く。


「まぁ、恩もあるけぇの。利子は取らん。」


「ケチだな!」


 彩葉は不満げに遠山を睨んだ。


「助けてやったんだから、タダでちょうだいよ!」


 遠山は鼻で笑う。


「貸し借りは貸し借りじゃけぇの。」


 そして、少しだけ表情を緩めた。


「まぁ、ただ……ありがとう。」


 それは、ヤクザにしては、あまりにも素直な言葉だった。


 彩葉は一瞬驚いたように遠山を見たが、すぐに照れくさそうに笑う。


「……ま、アンタに言われると、妙にこそばゆいな。」


 風が吹く。


 彩葉は封筒を握りしめたまま、エリーの方を向いた。


「なぁ、エリー。」


「なに?」


「戦後……アタシは、何者にもなれなかった。」


 エリーは黙って聞いている。


「軍人としての役目を終えた後、何をすればいいのか分からなくて、ただ流されるまま生きてきた。」


「でも、今になって思うんだ。」


 彩葉は空を仰ぐ。


「何かになれなかった道を選んだのも、アタシ自身だったんだって。」


 エリーの青い瞳が、静かに彩葉を見つめていた。


「……アタシはね、世界に失望したんじゃない。」


 そう言って、彩葉はもう一度、タバコを口にくわえる。


 火をつけて、静かに煙を吸い込む。


 そして、ゆっくりと吐き出した。


「役目を終えたから、今自由に生きていいんだと思えた。」


 微かな煙が、夜の闇へと溶けていく。


「今は……そう思うことにする。」


 そう言って、彩葉は静かに微笑んだ。

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