3話 旧ソビエトの残党
サーシャは静かにグラスを傾けた。ブッカーズの琥珀色が、バーの鈍い照明にかすかに輝く。
「ナチスは、莫大な財産をどこかに隠した」
エリーはグラスを回しながら、興味なさげに聞き流す。
「へぇ、そりゃまたベタな話ね。黄金列車とか、南米の亡命資金とか?」
「それもあるが、俺が追っていたのは、もっと具体的なものだ」
サーシャは、軽く息を吐き、視線をエリーに向けた。
「KGB時代、俺はずっとその”ナチスの隠し遺産”を探していた」
エリーは眉をひそめる。
「冷戦時代のソ連が、そんなもん探してたの?」
「当たり前だろう。戦争が終わっても、ナチスが残したものは国家にとって脅威だった。隠し財産がどこかにあるなら、敵の手に渡る前に押さえねばならない。それに、ナチスは金だけを隠していたわけじゃない」
「……何を?」
「情報だ」
サーシャは、グラスを置いた。
「ナチスは戦争末期、膨大なデータを持って逃げた。実験記録、戦略資料、極秘プロジェクトのデータ、そして――」
彼は一拍置くと、低い声で続けた。
「“偉大なる魔女”の記録 も含まれていた」
エリーの指が、グラスの縁から離れた。
一瞬の沈黙。
「……あっそ」
エリーは無理に肩をすくめて、気のない素振りを装う。
「で、それがどうしたのよ? アンタ、今でもそんな昔話を追っかけてるわけ?」
サーシャは、静かにエリーの目を見つめた。
「ナチスの隠し情報の中に――“ノーラ・ベルクハイム”の名が最重要機密として記録されていた」
エリーは、一瞬だけ息を止めた。
「……なんで?」
「それがわかれば、俺はこんな回りくどいことはしていない」
サーシャは苦笑し、グラスを傾ける。
「ソ連は戦後、ドイツからあらゆる機密資料を持ち去った。だが、“ノーラ・ベルクハイム”に関する記録は、徹底的に隠蔽されていた。西側はおろか、俺たちKGBでさえ、断片的な情報しか得られなかった」
エリーは、無意識にグラスを握りしめる。
「……つまり、アンタはKGB時代にノーラを探してたってわけ?」
「そういうことだ。だが、見つからなかった」
サーシャはゆっくりと、視線を落とした。
「公式記録にも、極秘ファイルにも、何もなかった。まるで意図的に消された みたいにな」
「……」
エリーは、眉をひそめた。
ノーラが生きている可能性は、図書館で調べた時点で確信に近かった。
でも、それがナチスの”最重要機密”として隠されていた?
そんなバカな話があるか。
エリーは、グラスの酒を飲み干した。
「それで、ソビエトが崩壊した今も、アンタはまだ探してるってわけ?」
「そういうことだ」
サーシャは淡々と答える。
エリーは、鼻で笑った。
「……ふーん、アンタこそ亡霊じゃん」
サーシャは微かに目を細めたが、すぐに口元を歪めた。
「そうかもしれんな」
「戦争に負けたナチの残党が、隠した金や情報を今さら追いかけてる。ソ連が消えたってのに、アンタはまだKGBのままってわけ」
エリーはカウンターに肘をつきながら、呆れたように言う。
「まるで、あの頃から時間が止まってるみたいね」
サーシャは、ゆっくりとグラスを回しながら答えた。
「……それは、お前も同じだろう?」
エリーの指が、僅かに止まった。
「このバーで、死んだ男の遺産と酒に溺れ、過去を忘れたフリをしている」
サーシャは、静かに言葉を続ける。
「お前も、亡霊だ」
エリーは、短く息を吐いた。
「……だから何?」
サーシャは、何も言わず、ただグラスを傾けた。
静かなジャズが流れるバーの空間で、二人はそれぞれの亡霊を抱えたまま、沈黙に包まれていた。
エリーは、ふとサーシャに目を向ける。
「それで、いつから私を尾行してたの?」
サーシャは、一瞬の間を置いて、口元に笑みを浮かべる。
「秘密だ」
「……は?」
「少なくともお前が、ベルリン州立図書館で”ノーラ・ベルクハイム”を探しているのを見た」
エリーは、わずかに目を細める。
「へぇ……やけに都合がいいわね」
「お前が戦没者記録をめくっているのを、俺はずっと見ていた。途中で苛立って本を閉じたときも、コンピューターを殴り倒したときも」
エリーは、グラスを置き、顔をしかめる。
「アンタ、性格悪いでしょ」
「お前が面白かっただけだ」
サーシャは、軽く肩をすくめた。
「だが、確信したよ。お前は、“ノーラ・ベルクハイム”を探している」
「……」
「そして、俺もまた同じものを追っている」
エリーは、グラスの縁を指でなぞりながら、小さく息をついた。
「つまり、こういうことね」
彼女は、サーシャを睨む。
「私がノーラを見つけたら、アンタもついてくるってわけ?」
サーシャは、淡々とウィスキーを飲み干し、グラスを置いた。
「当然だ」
エリーは、肩をすくめた。
「面倒事の匂いしかしないわね」
「お互い様だろう?」
サーシャは、再びグラスを傾けた。
夜のベルリンは冷えていた。
酔いがまだ抜けきらないエリーは、肩をすくめながら繁華街のネオンの下を歩く。
バーの中では適当にあしらったつもりだったが、後ろを歩く足音 がまだ消えない。
ちらりと視線を横にやると、サーシャ・イワノフの影が暗闇に沈みながら、一定の距離を保ってついてきている。
エリーは溜息をつき、歩みを止めた。
振り返りざまに、あからさまに睨む。
「……いーつまでついてくんのよ、このソ連崩れのストーカーKGB」
サーシャは微かに口元を歪めた。
「ソ連崩れ、か。なかなか手厳しいな」
「でしょ? あんたみたいにくっついてくる奴、昔もいたわ。ゲシュタポの取り巻きとか、赤軍の監視官とかね」
「俺はそういう連中とは違うつもりだが」
「つもりってのが怪しいわね」
エリーは鼻で笑い、再び歩き出した。
だが、サーシャはやはり後をついてくる。
「ノーラを見つけるまで、俺はここにいる」
「……はぁ? もう決定事項なの?」
エリーは呆れたように振り向くが、サーシャは微動だにしない。
「頼む、せめて施設の名前だけでも教えてくれないか?」
「そんなの、覚えてるわけないじゃない」
エリーは即答した。
「何十年も前よ。あんたが生まれるずっと前の話」
サーシャは黙ったまま、エリーをじっと見つめた。
だが、その目の奥にあるのは、苛立ちでもなく、焦りでもない。
……喪失感だ。
「……祖国はもうない」
ぽつりと、サーシャが呟く。
「俺が仕えたソビエトは、もうどこにもない。KGBも崩れ、国の誇りも失われた。連邦はバラバラになり、かつての同志たちは散り散りだ」
エリーは一瞬だけ言葉を失う。
「でも、俺は諦めていない」
サーシャは続ける。
「過去が消えようとも、歴史が書き換えられようとも、俺の生きた証はそこにある。……だから、ノーラを探している」
エリーは、口を開こうとしたが、言葉が出なかった。
彼の言葉が、妙に引っかかった。
“祖国はもうない”――それは、エリー自身も抱えていた感情だった。
フィンランドはまだ存在する。だが、彼女がいた”祖国”は、もうどこにもない。
“俺は諦めていない”――それもまた、自分にはないものだった。
サーシャは、未だに過去を掴もうとしている。
エリーは、それを捨てようとしている。
“亡霊”なのはどっちだ?
しばしの沈黙。
エリーは、ふっと肩をすくめた。
「……まぁ、明日、それっぽい場所には行ってみるわ」
サーシャは、わずかに目を細めた。
「恩に着る」
「別にアンタのためじゃないわよ」
エリーはそう言いながら、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
ベルリンの夜景を見上げながら、エリーは煙を吐き出した。
無論、思い当たる節はある。
ノーラと最後に話をしたあの施設。
そこから見えた景色。
曇った窓ガラスの向こうに広がる、遠くまで続く林と、その先にポツポツと並ぶ低いレンガ造りの建物。
都会とはかけ離れた、静かで古びた空気。
エリーは目を細める。
――あれは、どこだった?
大戦末期、ベルリンに移送された彼女たちが収容されていた場所。
ノーラと初めて本気で言い争ったのも、あの施設の中だった。
「戦争が終わるわよ」
「それでも我々は戦う」
「何のために?」
「国家のために」
「……バカみたい」
窓の外に広がる景色は、ずっと変わらなかった。
都会の喧騒とは無縁の、静かな土地。
それでいて、ベルリンのすぐ近くにあったはずだ。
エリーは頭の中で地図を思い浮かべた。
大戦時代からあって、尚且つ田舎っぽい場所。
オラニエンブルク。
そこなら条件に合う。
ベルリンから北へ約30km、田舎のような風景が広がる町。
今は平和な住宅地や工業地帯になっているが、戦時中はナチスの重要拠点のひとつだった。
かつてそこには、ザクセンハウゼン強制収容所 があった。
そして、その周辺には、ナチスの軍事研究施設や訓練施設がいくつも存在していた。
戦争末期には、親衛隊の特務機関が使用する施設もあったはずだ。
「……あのあたり、か」
エリーは煙草をくわえたまま、ぼそりと呟いた。
戦後、大半の施設は廃墟になったか、取り壊されたはずだ。
だが、何か痕跡が残っているかもしれない。
「で、何か思い出したのか?」
後ろで腕を組んでいたサーシャが、エリーの顔を覗き込む。
エリーは煙草を指で弾き、灰を落とした。
「オラニエンブルク」
「……ふむ、悪くない」
サーシャは満足げに頷く。
エリーは彼を睨むように見た。
「悪くない、じゃないわよ。こっちは記憶を掘り起こしてんの」
「だが、お前も確信があるんだろう?」
エリーは舌打ちして、煙をもう一度吐き出した。
「まぁね」
明日、向かう先は決まった。
オラニエンブルク。
かつてノーラとエリーが”最後の言葉”を交わした場所へ。