表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
3/41

3話 旧ソビエトの残党

 サーシャは静かにグラスを傾けた。ブッカーズの琥珀色が、バーの鈍い照明にかすかに輝く。


「ナチスは、莫大な財産をどこかに隠した」


 エリーはグラスを回しながら、興味なさげに聞き流す。


「へぇ、そりゃまたベタな話ね。黄金列車とか、南米の亡命資金とか?」


「それもあるが、俺が追っていたのは、もっと具体的なものだ」


 サーシャは、軽く息を吐き、視線をエリーに向けた。


「KGB時代、俺はずっとその”ナチスの隠し遺産”を探していた」


 エリーは眉をひそめる。


「冷戦時代のソ連が、そんなもん探してたの?」


「当たり前だろう。戦争が終わっても、ナチスが残したものは国家にとって脅威だった。隠し財産がどこかにあるなら、敵の手に渡る前に押さえねばならない。それに、ナチスは金だけを隠していたわけじゃない」


「……何を?」


「情報だ」


 サーシャは、グラスを置いた。


「ナチスは戦争末期、膨大なデータを持って逃げた。実験記録、戦略資料、極秘プロジェクトのデータ、そして――」


 彼は一拍置くと、低い声で続けた。


「“偉大なる魔女”の記録 も含まれていた」


 エリーの指が、グラスの縁から離れた。


 一瞬の沈黙。


「……あっそ」


 エリーは無理に肩をすくめて、気のない素振りを装う。


「で、それがどうしたのよ? アンタ、今でもそんな昔話を追っかけてるわけ?」


 サーシャは、静かにエリーの目を見つめた。


「ナチスの隠し情報の中に――“ノーラ・ベルクハイム”の名が最重要機密として記録されていた」


 エリーは、一瞬だけ息を止めた。


「……なんで?」


「それがわかれば、俺はこんな回りくどいことはしていない」


 サーシャは苦笑し、グラスを傾ける。


「ソ連は戦後、ドイツからあらゆる機密資料を持ち去った。だが、“ノーラ・ベルクハイム”に関する記録は、徹底的に隠蔽されていた。西側はおろか、俺たちKGBでさえ、断片的な情報しか得られなかった」


 エリーは、無意識にグラスを握りしめる。


「……つまり、アンタはKGB時代にノーラを探してたってわけ?」


「そういうことだ。だが、見つからなかった」


 サーシャはゆっくりと、視線を落とした。


「公式記録にも、極秘ファイルにも、何もなかった。まるで意図的に消された みたいにな」


「……」


 エリーは、眉をひそめた。


 ノーラが生きている可能性は、図書館で調べた時点で確信に近かった。


 でも、それがナチスの”最重要機密”として隠されていた?


 そんなバカな話があるか。


 エリーは、グラスの酒を飲み干した。


「それで、ソビエトが崩壊した今も、アンタはまだ探してるってわけ?」


「そういうことだ」


 サーシャは淡々と答える。


 エリーは、鼻で笑った。


「……ふーん、アンタこそ亡霊じゃん」


 サーシャは微かに目を細めたが、すぐに口元を歪めた。


「そうかもしれんな」


「戦争に負けたナチの残党が、隠した金や情報を今さら追いかけてる。ソ連が消えたってのに、アンタはまだKGBのままってわけ」


 エリーはカウンターに肘をつきながら、呆れたように言う。


「まるで、あの頃から時間が止まってるみたいね」


 サーシャは、ゆっくりとグラスを回しながら答えた。


「……それは、お前も同じだろう?」


 エリーの指が、僅かに止まった。


「このバーで、死んだ男の遺産と酒に溺れ、過去を忘れたフリをしている」


 サーシャは、静かに言葉を続ける。


「お前も、亡霊だ」


 エリーは、短く息を吐いた。


「……だから何?」


 サーシャは、何も言わず、ただグラスを傾けた。


 静かなジャズが流れるバーの空間で、二人はそれぞれの亡霊を抱えたまま、沈黙に包まれていた。


 エリーは、ふとサーシャに目を向ける。


「それで、いつから私を尾行してたの?」


 サーシャは、一瞬の間を置いて、口元に笑みを浮かべる。


「秘密だ」


「……は?」


「少なくともお前が、ベルリン州立図書館で”ノーラ・ベルクハイム”を探しているのを見た」


 エリーは、わずかに目を細める。


「へぇ……やけに都合がいいわね」


「お前が戦没者記録をめくっているのを、俺はずっと見ていた。途中で苛立って本を閉じたときも、コンピューターを殴り倒したときも」


 エリーは、グラスを置き、顔をしかめる。


「アンタ、性格悪いでしょ」


「お前が面白かっただけだ」


 サーシャは、軽く肩をすくめた。


「だが、確信したよ。お前は、“ノーラ・ベルクハイム”を探している」


「……」


「そして、俺もまた同じものを追っている」


 エリーは、グラスの縁を指でなぞりながら、小さく息をついた。


「つまり、こういうことね」


 彼女は、サーシャを睨む。


「私がノーラを見つけたら、アンタもついてくるってわけ?」


 サーシャは、淡々とウィスキーを飲み干し、グラスを置いた。


「当然だ」


 エリーは、肩をすくめた。


「面倒事の匂いしかしないわね」


「お互い様だろう?」


 サーシャは、再びグラスを傾けた。



 夜のベルリンは冷えていた。

 酔いがまだ抜けきらないエリーは、肩をすくめながら繁華街のネオンの下を歩く。


 バーの中では適当にあしらったつもりだったが、後ろを歩く足音 がまだ消えない。


 ちらりと視線を横にやると、サーシャ・イワノフの影が暗闇に沈みながら、一定の距離を保ってついてきている。


 エリーは溜息をつき、歩みを止めた。


 振り返りざまに、あからさまに睨む。


「……いーつまでついてくんのよ、このソ連崩れのストーカーKGB」


 サーシャは微かに口元を歪めた。


「ソ連崩れ、か。なかなか手厳しいな」


「でしょ? あんたみたいにくっついてくる奴、昔もいたわ。ゲシュタポの取り巻きとか、赤軍の監視官とかね」


「俺はそういう連中とは違うつもりだが」


「つもりってのが怪しいわね」


 エリーは鼻で笑い、再び歩き出した。


 だが、サーシャはやはり後をついてくる。


「ノーラを見つけるまで、俺はここにいる」


「……はぁ? もう決定事項なの?」


 エリーは呆れたように振り向くが、サーシャは微動だにしない。


「頼む、せめて施設の名前だけでも教えてくれないか?」


「そんなの、覚えてるわけないじゃない」


 エリーは即答した。


「何十年も前よ。あんたが生まれるずっと前の話」


 サーシャは黙ったまま、エリーをじっと見つめた。


 だが、その目の奥にあるのは、苛立ちでもなく、焦りでもない。


 ……喪失感だ。


「……祖国はもうない」


 ぽつりと、サーシャが呟く。


「俺が仕えたソビエトは、もうどこにもない。KGBも崩れ、国の誇りも失われた。連邦はバラバラになり、かつての同志たちは散り散りだ」


 エリーは一瞬だけ言葉を失う。


「でも、俺は諦めていない」


 サーシャは続ける。


「過去が消えようとも、歴史が書き換えられようとも、俺の生きた証はそこにある。……だから、ノーラを探している」


 エリーは、口を開こうとしたが、言葉が出なかった。


 彼の言葉が、妙に引っかかった。


 “祖国はもうない”――それは、エリー自身も抱えていた感情だった。


 フィンランドはまだ存在する。だが、彼女がいた”祖国”は、もうどこにもない。


 “俺は諦めていない”――それもまた、自分にはないものだった。


 サーシャは、未だに過去を掴もうとしている。

 エリーは、それを捨てようとしている。


 “亡霊”なのはどっちだ?


 しばしの沈黙。


 エリーは、ふっと肩をすくめた。


「……まぁ、明日、それっぽい場所には行ってみるわ」


 サーシャは、わずかに目を細めた。


「恩に着る」


「別にアンタのためじゃないわよ」


 エリーはそう言いながら、ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。


 ベルリンの夜景を見上げながら、エリーは煙を吐き出した。


 無論、思い当たる節はある。


 ノーラと最後に話をしたあの施設。

 そこから見えた景色。


 曇った窓ガラスの向こうに広がる、遠くまで続く林と、その先にポツポツと並ぶ低いレンガ造りの建物。

 都会とはかけ離れた、静かで古びた空気。


 エリーは目を細める。


 ――あれは、どこだった?


 大戦末期、ベルリンに移送された彼女たちが収容されていた場所。

 ノーラと初めて本気で言い争ったのも、あの施設の中だった。


「戦争が終わるわよ」


「それでも我々は戦う」


「何のために?」


「国家のために」


「……バカみたい」


 窓の外に広がる景色は、ずっと変わらなかった。

 都会の喧騒とは無縁の、静かな土地。

 それでいて、ベルリンのすぐ近くにあったはずだ。


 エリーは頭の中で地図を思い浮かべた。


 大戦時代からあって、尚且つ田舎っぽい場所。


 オラニエンブルク。


 そこなら条件に合う。


 ベルリンから北へ約30km、田舎のような風景が広がる町。

 今は平和な住宅地や工業地帯になっているが、戦時中はナチスの重要拠点のひとつだった。


 かつてそこには、ザクセンハウゼン強制収容所 があった。


 そして、その周辺には、ナチスの軍事研究施設や訓練施設がいくつも存在していた。

 戦争末期には、親衛隊の特務機関が使用する施設もあったはずだ。


「……あのあたり、か」


 エリーは煙草をくわえたまま、ぼそりと呟いた。


 戦後、大半の施設は廃墟になったか、取り壊されたはずだ。

 だが、何か痕跡が残っているかもしれない。


「で、何か思い出したのか?」


 後ろで腕を組んでいたサーシャが、エリーの顔を覗き込む。


 エリーは煙草を指で弾き、灰を落とした。


「オラニエンブルク」


「……ふむ、悪くない」


 サーシャは満足げに頷く。


 エリーは彼を睨むように見た。


「悪くない、じゃないわよ。こっちは記憶を掘り起こしてんの」


「だが、お前も確信があるんだろう?」


 エリーは舌打ちして、煙をもう一度吐き出した。


「まぁね」


 明日、向かう先は決まった。


 オラニエンブルク。


 かつてノーラとエリーが”最後の言葉”を交わした場所へ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ