2話 安否確認
翌日、バーのカウンターに寝そべり、エリーは煙を吐き出しながら、天井を見上げた。
「……まずはノーラか。」
酒と煙草の匂いが染みついたバーのカウンターに肘をつきながら、彼女はぼやく。今も古びたスクリーンには白黒の西部劇が映っていた。ガンマンが決闘に向かい、砂塵の舞う荒野で相手と向かい合う。
くだらない。
施設にいたあの頃も、ノーラと向かい合ったことが何度もあった。
決闘とまではいかないが、言い争いなら腐るほど。
「お前らナチはクソよ」
「我々のやり方が気に入らないなら、祖国へ帰るか?」
「戦争に巻き込んでおいて、何言ってんのよ」
「お前はドイツに救われたんだろう? ならば少しは感謝しろ」
「はぁ? アンタに言われる筋合いはないわよ」
会話のたびに、噛み合わなかった。
アイツは、ナチスに陶酔していた。
親衛隊の肩書きを誇りにし、「国家のために戦う」とか、「我々こそが未来を築く」とか、そんなことばかり言っていた。
エリーは、そんなノーラが大嫌いだった。
「……で、今になって何で私がアイツを探すわけ?」
エリーはグラスを回しながら、ひとりごちた。
戦争が終わったあと、アイツがどうなったかなんて知らない。正直、どうでもよかった。
「同窓会なんて……チェイスが言い出さなかったらきっと、やってもなかったかも。」
親衛隊の将校だったのなら、当時の記録がどこかにあるはずだ。シュタービ……ベルリン州立図書館に行けば何かわかるかもしれない。
「なんでアイツのために、そんなお行儀のいい場所まで行かなきゃならないのよ。」
エリーは大げさにため息をつき、グラスを置いた。
酒が抜けたら、さっさと行ってしまおう。
――めんどくさいことになるのは、分かりきっていたけれど。
そしてやってきたのはベルリン州立図書館。
エリーは建物の前で足を止め、心底うんざりした顔をした。
古めかしい石造りの外観に、無駄に高い天井と荘厳な装飾。ドイツらしい重厚さに満ちた建築は、エリーにとって居心地の悪い空間にしか見えなかった。こんなところに足を踏み入れるのは、どう考えても性に合わない。
彼女は煙草を一本取り出し、口にくわえた。だが、すぐに思い直してポケットに戻す。
どうせ、こんな場所で吸ったら怒られる。
仕方なく、重い扉を押して中に入る。
一歩踏み込むと、ひんやりとした空気と、本の匂いが鼻をついた。静寂に包まれた広大な空間。長い机に座る人々が、黙々と本をめくり、ペンを走らせている。
「……うわ、無理」
エリーは眉をひそめた。こんな場所で、私が情報を探す? 冗談じゃない。
とはいえ、ここまで来た以上、やるしかない。
彼女は仕方なく受付に向かった。
「戦争時代の記録を見たいんだけど」
受付の女性は、冷静に尋ねてきた。
「どの時代の、どのような記録でしょうか?」
「ナチス親衛隊の、ベルリン駐留部隊のやつとか?」
「親衛隊の記録は、機密文書として扱われており、一般公開されているものは限られていますが……戦後の戦犯記録や戦没者名簿なら、閲覧可能です」
「戦没者名簿ねぇ……」
エリーは適当に相槌を打ちながら、それを借りることにした。
奥へ案内され、重厚な書架から分厚い本が取り出される。
エリーはそれを受け取り、閲覧席に腰を下ろした。
目の前に置かれたのは、数百ページに及ぶ戦没者名簿。無駄に細かい文字が、びっしりと並んでいる。
「……これ、全部調べろってこと?」
エリーは顔をしかめた。
とりあえず、本を開く。
最初の数ページは索引らしきものだが、当然のようにアルファベット順ではない。
「……マジで役人の考えって意味わかんない」
イラつきながら、ページをめくる。
地域ごとに分かれたリストには、数え切れないほどの名前が並んでいた。
名前、階級、死亡年月日、死亡場所。
スターリングラード、アルデンヌ、ベルリン防衛戦。
無数の名前がありながら、ノーラ・ベルクハイムのものは見つからない。
エリーは本をバタンと閉じた。
「はいはい、知ってた知ってた」
こうなることは最初から予想していた。
こんな簡単に出てくるはずがない。
彼女は別の本を手に取り、同じ作業を繰り返す。
それを何冊も、何冊も。
日が暮れていくのがわかった。
窓の外がオレンジ色に染まり、それが次第に深い青に変わる。
本をめくる手が重くなる。
エリーは、腕を組みながら椅子に沈み込んだ。
「……ない」
何時間もかけて、収穫はゼロ。
いや、厳密に言えば、ノーラ・ベルクハイムの名前がどこにもない という収穫だけがあった。
「お探しの名前が見つかりませんでしたか?」
不意に、さっきの職員が声をかけてきた。
エリーは投げやりに答える。
「見ての通りよ」
「もしよろしければ、こちらの端末をお使いください」
職員が指し示した先には、古びた机の上に置かれた機械があった。
「……何これ?」
「デジタル化された戦没者記録です。検索が可能ですので」
エリーは眉をひそめる。
「タイプライター……?」
「いえ、コンピューターです」
「……コンピューター?」
エリーは興味深そうに、黒く鈍い光を放つ画面を眺めた。
画面には、白い文字が光っている。
「Suchen:」
「……検索できるの?」
「ええ。試してみますか?」
エリーは試しに「BERGHEIM」と入力し、エンターキーを押す。
「該当なし」
「……は?」
もう一度試す。
「該当なし」
「おかしくない?」
「スペルミスかもしれません」
「あるわけないでしょ!」
もう一度、慎重に「BERGHEIM」と打ち込む。
「該当なし」
エリーは顔をしかめ、勢いよくタイプする。
「BERKHAM」 → 該当なし
「BERKHEIM」 → 該当なし
「NORA BERGHEIM」 → 該当なし
「……」
彼女は無言でキーボードを叩いた。
「ふざけんな!!!」
次の瞬間、エリーはコンピューターの画面を思い切り押し倒した。
ガタン!
周囲の閲覧者が、一斉に振り向いた。
「……お、お客様!?」
職員が慌てて駆け寄るが、エリーは完全にキレていた。
「何よこれ、全部嘘じゃないの!?」
「落ち着いてください!」
「落ち着けるわけないでしょ!! 丸一日かけて、こんなクソみたいなオチ!?」
職員がパニックになりながら、倒れたコンピューターを直そうとする。
エリーは荒い息をつきながら、カウンターの方へ歩いていった。
「……もう帰るわ」
「ちょっと、お客様……!」
職員の声を無視して、エリーは図書館を出た。
外はすっかり日が落ち、ベルリンの街にはネオンが灯り始めていた。
「……バカらしい」
結局、収穫はゼロ。
ノーラ・ベルクハイムという名前は、どこにも存在しなかった。
――そんなはずがあるわけないのに。
ベルリンの繁華街、クアフュルステンダム。
ネオンが瞬き、バーやクラブの光が歩道を照らす。観光客や地元の若者たちが道を埋め、車のクラクションと笑い声が混ざり合う。
エリーはその中を、足早に歩いていた。
さっきまでいた州立図書館の冷たい空気が、まだ肌にまとわりついているような気がした。くそったれな戦没者記録、くそったれな役人の整理能力、くそったれなコンピューター。
「……やってらんないわよ」
とにかく、酒だ。
そう決めて、目についたバーの扉を押し開けた。
カウンター席に腰を下ろすと、バーテンダーがちらりと彼女を見た。
「何にしましょうか?」
「なんでもいいわ。強いやつ」
バーテンダーは肩をすくめ、無言で琥珀色の液体をグラスに注いだ。
エリーはそれを手に取り、何も考えずに一気に煽る。
喉が焼けるような感覚がした。
「……あ゙ーーーー、クソがぁ!!!」
思わず声が出た。
隣の客がギョッとして振り向いたが、エリーは気にしない。
「なんで私が、あんなクソみたいな図書館で、何百冊も本をめくって、わざわざクソみたいなコンピューターまで触んなきゃなんないわけ!? ふざけんな!!」
バーテンダーが苦笑しながら、新しいグラスを差し出す。
「嫌なことでも?」
「聞くな!!」
エリーはそれも一気に飲み干した。
酒が体に染み渡る。胃が熱くなる。
酔いが回るにつれて、図書館でのイライラがだんだんと遠のいていく。
代わりに、思い出すのは――
「……まぁ、でも」
彼女はカウンターに肘をつき、グラスを回した。
「ああは言ったけど、アイツ、生きてたんだぁ……」
ぽつりと、呟いた。
戦没者名簿に名前がない。どこを探しても、「ノーラ・ベルクハイム」の死を示す記録はなかった。
つまり――
「生き延びたってことよね」
戦争を生き抜いた、という事実。
エリーは、それを知って、ほんの少しだけ安堵していた。
笑っちまう。
あんなに嫌いだったくせに。
「……バカみたい」
酔いにまかせて、またグラスを傾けた。
バーの隅では、誰かがピアノを弾いていた。
静かなジャズが流れる。
エリーは瞳を閉じ、しばらくその旋律に身を任せた。
バーテンダーは、ふと棚の奥から一本のボトルを取り出した。
「今日は随分と荒れていらっしゃるようですね」
エリーが愚痴を垂れ流しているのを見て、苦笑しながらグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
「サービスです。バーボンでも飲んで、少し落ち着かれては?」
エリーは一瞬だけ目を細めたが、何も言わずにグラスを取った。
冷えたグラスを唇に当て、一気に喉へと流し込む。
強いアルコールが喉を焼く。
「……キツいわね」
「お口に合いませんでしたか?」
「別に。悪くないわよ」
エリーはグラスを置き、指で軽く回す。
バーテンダーはカウンター越しに彼女を眺めながら、ふと尋ねた。
「御友人とは、長いお付き合いだったのですか?」
「別に」
エリーは短く答えた。
「一年だけ」
「……そうですか」
バーテンダーはそれ以上何も言わず、静かにグラスを拭き続ける。
エリーは、ぼんやりと酒の揺れるグラスを見つめながら考えた。
――施設にいたのは、大戦末期あたりだったか。
少なくとも、フィンランドはもう敗戦が濃厚だった。
祖国から届いた知らせ。
ソビエトが侵攻し、エリーの街が占領されたと知った日。
あの日、自分はどうしていたか。
――慰めてくれたのは、ノーラだった。
あのとき、ノーラは何と言ったのか。
「……何をそんなに落ち込んでいる?」
「はぁ? だって、私の故郷は……!」
「お前が生きているのなら、それでいいじゃないか」
「……ふざけないでよ」
「冗談じゃない」
そう言って、ノーラはいつも通りの表情で、いつも通りの声で言った。
「この戦争において、故郷を失わなかった者などいない」
あのとき、エリーは怒りをぶつけたような気がする。
「でも、あんたの国はまだ……!」
「戦争に勝とうが、負けようが、本質的には何も変わらない……だから戦え、失ったものを数えるのはその後でいい。」
「……」
「お前は強い子だ」
本当に、そう思っていたのか。
それとも、ただそう言い聞かせていただけなのか。
「……馬鹿みたい」
エリーは、グラスを軽く傾けた。
何も変わらない。
ノーラのことは、ずっと嫌いだった。
なのに、今になって彼女を探している。
彼女が死んでいないと知って、安堵している。
「……馬鹿みたい」
小さく呟いて、バーボンをまた一口飲んだ。
バーテンダーは、グラスを拭く手を止めることなく、穏やかに微笑んだ。
「“馬鹿みたい”ではなく、『人とはそういうもの』とおっしゃるのが、少しは粋では?」
「は?」
エリーは睨んだが、バーテンダーは落ち着いた調子で続ける。
「過去の記憶というのは、常に整理できるものではありません。お嫌いだった方でも、ふとした瞬間に懐かしく思うことは珍しくないでしょう」
「……それっぽく言ってるけど、結局馬鹿みたいってことでしょ」
「とんでもございません。むしろ、それに気づいている時点で、お客様は聡明な方かと」
エリーはジト目でバーテンダーを睨みながら、グラスの中身を飲み干した。
「……ガキのくせに、生意気ね」
「お仕事ですので……30年やってますから」
バーテンダーは肩をすくめ、新しい酒を注いだ。
エリーは無言でグラスを取る。
確かに、そういうものかもしれない。
ノーラ・ベルクハイム――忌々しいナチスの亡霊。
嫌いだった。今でも好きじゃない。
けれど――彼女が死んでいないと知って、安堵している自分がいるのも、また事実だった。
――その時「一杯奢ろうか?」と背後から、見計らったように低く落ち着いた男の声がした。
エリーは眉をひそめたが、すぐには振り向かない。
代わりに、グラスの縁を指で軽く叩いた。
カン、カン。
氷の音が静かに響く。
カウンターに並ぶ酒瓶のガラスが、薄暗いネオンの光を反射して揺れていた。ジャズが低く流れ、店内のざわめきが微かに混じる。
エリーは、そのままゆっくりとグラスを持ち上げた。
「……勝手にすれば?」
気だるげにそう言って、残りのバーボンを一気に煽る。
喉が焼けるような感覚が、僅かに意識を引き締めるような気がした。
そして、ゆっくりと振り返る。
男は、すでに彼女の隣に腰を下ろしていた。
黒のロングコートの襟を立て、肩には細かな雨粒が残っている。グレーのスカーフを無造作に巻き、長身の体を悠然とカウンターに預けている。
まるで、最初からそこにいたかのような自然な動き。
だが、決定的だったのは、手元。
革手袋をしているのに、右手の指先だけが露出している。
エリーの目が、無意識にその指を追った。
トリガーを引くため。
そのために、指先だけを自由にしているのだ。
――この男、元KGB だ。
エリーは、無言でバーテンダーを見やる。
バーテンダーは、何事もなかったかのように、淡々と酒を注ぎ続けている。
常連客なら、この手の客が時折現れることを知っているのだろう。
エリーは再び、カウンターに肘をついた。
「……なんの用?」
男は、ゆっくりとバーテンダーに目を向けた。
「ブッカーズを」
短く頼むと、目線を戻す。
「驚いたよ。こんなところで、KGB仕込みの観察眼を試すことになるとはな」
エリーは、眉をひそめた。
「……何のこと?」
「さっきの動作だよ」
男はグラスを受け取りながら、口元に薄く笑みを浮かべた。
「飲む前に、グラスの縁を指で軽く叩いた。潜在的な警戒心の表れだ」
エリーの指が、無意識にグラスの縁を撫でる。
「アンタ、観察眼がいいのね」
「職業病だよ」
男は、淡々とした調子で答えた。
グラスを傾け、琥珀色の液体を一口飲み込む。
そして、エリーを見た。
「サーシャ・イワノフ。元KGBだ」
エリーは目を細めた。
「自己紹介がやけに丁寧じゃない?」
「君には、それくらいの礼儀を示す価値があると思ってね」
「へぇ?」
エリーは、気怠げにグラスを回しながら、男を観察した。
仕立てのいいコートに、無駄のない動き。
周囲のざわめきにも気を配りつつ、完全にリラックスしている。
この男、間違いなく冷戦の影を生き抜いた人間 だ。
「それで?」
エリーは、グラスを置き、男を睨む。
「元KGBが、今さら何の用?」
サーシャは薄く笑う。
「俺も、ナチスの亡霊を追っている」
エリーの指が、グラスの縁から離れた。
「ノーラ・ベルクハイム」
男は、その名を静かに口にする。
エリーは、小さく息を吐いた。
「……また面倒事の匂いがしてきたわね」
サーシャは、ただ静かにグラスを傾けた。