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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナポリの女王編
10/41

10話 ナポリの軌跡

 冬の冷たい風がベルリンの街を吹き抜ける。

 エリーはコートの襟を立てながら、公衆電話のボックスへと滑り込んだ。


 ポケットから小銭を取り出し、軽く指で弾いてから投げ入れる。


 ダイヤルを回す。


 この番号を手に入れるのは、そう難しくなかった。

 元KGBの情報筋。


 ソ連崩壊後、あちこちに散らばった旧諜報員たち。

 中には西側に寝返った者もいれば、ただ生き延びるために情報を売る者もいる。

 今回の番号は、そんなつまらん男から手に入れたものだった。


 コール音が鳴る。


 一度、二度――三度目が鳴り終わる前に、受話器の向こうで低い声がした。


「……誰だ」


 冷静で、鋭い声。


 間違いない。


「やっほー、ノーラ。しばらくね」


 電話の向こうで、一瞬沈黙。


 それから、押し殺した息遣いが聞こえた。


「……どこでこの番号を知った?」


「ちょっと元KGBの古い情報網を漁ってね。いやぁ、諜報機関ってすごいわよ。ドイツ軍の大佐の個人番号まで売られてるんだから」


「……貴様、ふざけているのか?」


「いたって真面目よ。ほら、どうせ私の声を聞いて懐かしがってるんじゃない?」


「違う。殺意が湧いているだけだ。」


「それなら電話を切れば?」


「……」


 ノーラは何も言わなかった。


 エリーは電話ボックスの外を眺めながら、くすりと笑う。


「まだ誰かに会うつもりか?」


 ノーラの声は、冷ややかだった。


「えぇ、次はイタリアにでも行こうかと思って」


「……」


 その一言で、ノーラは察した。


「ヴェルガーデンか」


 エリーは薄く笑いながら、電話のコードを指で巻き取るように弄ぶ。


「やっぱり、ノーラは察しがいいわね。親衛隊の情報網ってやつ?」


「あいつはナポリ出身だ。戦時中の記録に残っていた。」


「へぇ、意外とそういうの覚えてるのね」


「忘れたことはない」


 ノーラの声が少しだけ硬くなった。


「ヴェルガーデン……アイツが今どうしているかは知らないが、イタリアの裏社会と繋がりがあると聞いたことがある。」


「まぁ、そうでしょうね。まともな生き方はしてないでしょうね。」


「……エリー、本気で会うつもりか?」


「そりゃあね」


「……」


「なんだかんだで、みんな気になるでしょ?」


「私は興味はない。」


 ノーラの声は淡々としていた。


「ヴェルガーデンが今どこで何をしていようと、私には関係のないことだ」


「ふぅん?」


 エリーは軽く鼻を鳴らした。


「でも、調べたんでしょ?」


「……」


「裏社会と繋がってるって話、どこで聞いたのかしら?」


 ノーラは短く息を吐いた。


「……イタリアは、戦後の混乱で戸籍管理がずさんだった。お前のような奴には都合がいい国だ。」


「なるほどね」


「審査も緩い。亡命者や難民も多かった。アイツが身を隠すのは造作もなかっただろう。」


「さすが、詳しいわね」


「ヴェルガーデンのことだ。今でも生きているなら……私のようにはいかないぞ」


 ノーラの声には、どこか苛立ちが混じっていた。


「……本当に、どうでもいいの?」


 エリーはわざと軽い口調で聞いた。


「どうでもいい。」


 ノーラは即答した。


「……そう」


 エリーは、ふっと笑う。


「じゃあ、ナポリまでの行き方、教えてくれる?」


「……」


 ノーラは短く息を吐いた。


「ベルリン中央駅からICEでミュンヘンへ向かえ。」


「ほう」


「ミュンヘンからオーストリア・インスブルックを経由して、ヴェローナへ入る。そこからフレッチャロッサでナポリだ。」


「なるほど、鉄道ね」


「フランクフルトやローマ経由は目立つ。空路は監視されている。」


「助かるわ」


「……」


「それじゃあ、ノーラ。またね」


 エリーは受話器を置こうとした。


 その瞬間、ノーラが低く呟いた。


「エリー、気をつけろ。」


 エリーは少しだけ驚いた。


 だが、すぐに笑う。


「私を誰だと思ってるのよ?」


 そして、カチリと電話を切った。


 エリーはポケットに手を突っ込み、軽く背伸びをする。


「さて……ナポリ、ね」


 ベルリン中央駅へと向かう道を歩き出した。


 目的地は――ナポリ。



 冷たい風がコートの裾を揺らした。

 エリー・ブラックローバーは手をポケットに突っ込み、ベルリン中央駅の構内へと足を踏み入れる。


 ガラス張りの天井から淡い光が差し込み、鉄骨の梁が無機質な影を落としている。

 人々は足早に行き交い、行き先を示す電光掲示板が忙しなく点滅する。


 「――ICE 120号、ミュンヘン行き、9番ホームに到着いたします。」


 駅のスピーカーがドイツ語と英語でアナウンスを繰り返す。


 エリーは自動券売機の前で立ち止まり、ミュンヘン行きのチケットを購入する。

 座席は適当――一等車。


 「どうせ長旅だし、少しくらい楽をしたっていいわよね」


 プリントされたチケットを手に取り、駅の雑踏の中を歩き出す。


 乗車時間まであと10分。


 駅構内のカフェに寄り、コーヒーを一杯注文する。

 苦味のある香りが鼻をくすぐり、湯気が冷えた空気に溶けていく。


 「……ナポリ、ね」


 小さく呟く。


 そこに行けば、ヴェルガーデンがいる。

 今もどこかで優雅に暮らしているのか、それとも――


 考えたところで答えは出ない。


 エリーはコーヒーを飲み干し、列車へと向かった。


 電車がホームに滑り込む。

 ドイツ高速鉄道、ICE(Intercity-Express)。

 流線型の車体が、白と赤のカラーリングをまとって静かに停車した。


 ドアが開き、人々が乗り降りする。

 エリーは乗車し、予約した座席へと向かう。


 車窓側の席に腰を下ろし、窓の外を眺める。


 「……」


 ベルリンの街が、静かに遠ざかっていく。

 灰色の建物が並ぶ景色が流れ、徐々に郊外へと移り変わる。


 車内は静かで、座席のクッションは適度に柔らかい。

 窓の外を眺めながら、エリーはぼんやりと考える。


 ヴェルガーデンとの再会。


 戦争が終わってから、一度も会っていない。

 ノーラの話では、戦後の混乱を利用して裏社会と手を組んだらしい。

 それが今も続いているのなら、ナポリで彼女を探すのは容易ではないだろう。


 「まぁ、どうにかなるでしょ」


 独り言のように呟く。


 列車は順調に南へ進む。

 途中、ライプツィヒ、ニュルンベルクと停車しながら、ベルリンの寒さとは違う空気が流れ始めた。

 窓の向こうの景色は、冬の終わりを告げるように緩やかに変わっていく。


 ミュンヘンまではおよそ4時間半。

 エリーは目を閉じ、少しの間だけ眠ることにする。



 ミュンヘン中央駅。


 ホームに降り立つと、ベルリンよりも少し柔らかい空気を感じた。

 ここから次の目的地、オーストリアのインスブルックを経由し、イタリアへ入る。


 エリーはインスブルック行きの電車へ乗り換え、ゆったりとした車両へと足を踏み入れる。

 ドイツの列車に比べると、少しレトロな雰囲気がある。


 インスブルックへ向かう列車が動き出すと、窓の外にはアルプスの山々が広がった。

 白銀の峰が連なり、雲がかかるその姿はまるで絵画のようだった。


 「……壮観ね」


 雪を纏った峰々を眺めながら、エリーは軽く足を組んだ。

 ここを越えれば、イタリアだ。


 インスブルックを通過し、ヴェローナへ。


 列車は次第に高度を下げ、山を抜けると、景色は穏やかな丘陵地帯へと変わる。

 気温も少しずつ上がり、空気が柔らかくなっていくのがわかった。


 エリーは座席で軽く伸びをする。


 「さて、イタリアね」


 ヴェローナの駅に降り立つと、暖かな風がエリーの髪を揺らした。

 ドイツとは違う空気。

 少し湿った、地中海の香り。


 ここからイタリアの高速鉄道フレッチャロッサ(Frecciarossa)に乗り換え、最終目的地ナポリへと向かう。


 列車は赤い車体が特徴的で、ドイツのICEとは違う、どこかエレガントな雰囲気が漂っていた。

 イタリア語のアナウンスが流れる中、エリーは車内に乗り込む。



 エリーは座席に腰を下ろし、軽く帽子を深くかぶった。

 列車が発車し、窓の外にヴェネツィア、フィレンツェ、ローマといった都市が流れ去っていく。


 ローマを越え、ついにナポリが近づく。

 海が見える。

 太陽が高く、空は抜けるように青い。


 「……あぁ、もうドイツとは別世界ね」


 南イタリア特有の陽気な空気が、ベルリンの冷たい冬とは正反対だった。


 エリーは窓の外を眺めながら、遠くに見える港の光をぼんやりと眺めた。


 ナポリ。


 戦後、ヴェルガーデンが根を張った場所。


 そこに、彼女はいるのか――


 列車は静かに減速しながら、ナポリ中央駅のホームへ滑り込んだ。

 ブレーキの音とともに、窓の外の景色がゆっくりと止まる。


 ドアが開いた瞬間、ベルリンとはまるで違う空気が流れ込んできた。

 南イタリア特有の強い日差しが降り注ぎ、地面の熱気がわずかに肌を撫でる。

 湿気は少なく、カラッとしている。暑さはあるが、不快ではない。


 「……んーっ」


 エリーは大きく背伸びをして、両手を天高く伸ばした。

 ぐいっと胸を張りながら、ナポリの空気を肺いっぱいに吸い込む。


 「ふーっ……なるほどね、これが南の空気ってやつ?」


 爽やかで、少し潮の香りが混じっている。

 それだけでベルリンの冷たい空気が、遠い過去のものに思えた。


 人の活気も違う。

 駅のホームには旅行者や地元の人々が行き交い、売店の店主が元気よく声を張り上げている。

 カフェのテラスでは、人々が小さなエスプレッソカップを片手におしゃべりに夢中になっていた。


 エリーはジャケットの襟を軽く直しながら、駅の外へと歩を進める。

 まずはナポリの街を少し見て回ることにした。



 ナポリ中央駅を出ると、目の前には活気に満ちた街が広がっていた。

 ベルリンとは違う、陽気なエネルギーがあふれている。


 路地からはバイクの排気音が響き、通りには観光客と地元の人々が入り混じって歩いている。

 青空の下、カフェのテラスでは人々がくつろぎ、どこからか漂ってくるピザの香ばしい匂い。


 エリーはご機嫌だった。


 「うん、いい街じゃない」


 のんびりと歩きながら、イタリアらしい街並みを楽しむ。

 石畳の道、色とりどりの洗濯物が干された細い路地、古びた教会の鐘の音。

 目に映るものすべてが新鮮で、どこか映画のワンシーンのようにすら思えた。


 「ヴェルガーデンを探すのは後でいいわね」


 せっかくナポリに来たのだから、まずは腹ごしらえ。

 とりあえず、評判のピザでも食べに行こう。


 そう思い、エリーは軽快な足取りで通りを進んだ。


 ――その時だった。


 ほんの一瞬、肩が軽くぶつかった。


 「……ん?」


 大して気にもせず、足を止めずに歩き続ける。

 だが、次の瞬間――ふと、違和感がよぎった。


 ポケットに入れたはずの財布の感触が、ない。


 「……え?」


 急いでポケットを探る。

 ジャケットの内ポケット、ズボンのポケット、どこにもない。


 ない。

 ない。

 どこにも、ない。


 「……え?」


 しばらく固まる。

 思考が追いつかない。


 財布は、確かにポケットに入れていた。

 それなのに、今はどこにもない。


 「嘘でしょ?」


 焦りとともに、さっきのぶつかりざまのことを思い出す。

 あの時――いや、間違いない。


 スられた。


 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 突如、エリーの頭を抱える悲鳴がナポリの空に響く。


 近くの通行人が驚いたようにこちらを見たが、すぐに気にせず通り過ぎていった。

 ナポリでは珍しくもない出来事なのだろう。


 「ちょっ……待って……マジで?」


 あらためてポケットをまさぐる。

 コートの裏地を確認し、バッグの中もひっくり返す。

 が、何度確認しても、財布はない。


 ――現金、なし。

 ――クレジットカード……そもそも持ってねぇ。

 ――持っているのは、煙草、ライターのみ。


 「ナポリ、こえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」


 心の中で絶叫する。


 「いやいやいや、でも、こういうのってすぐに気づけば取り返せるんじゃないの?」


 周囲をキョロキョロと見回す。

 だが、それらしい人物はどこにもいない。


 「おいおいおいおい、嘘でしょ……」


 額に手を当て、呆然と立ち尽くす。

 ついさっきまで、のんびりと街を眺めていた自分がバカみたいだ。


 「こんなの、どうにかなってるわけが……」


 そして――


 グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……。


 胃袋が、情け容赦なく主張した。


 「………………」


 そうだった。


 私、お腹が空いてたんだった。


 ピザを食べるつもりだった。

 お金があったら、ピザ屋に行って、おいしいマルゲリータを頬張っていたはずだった。


 でも、財布がない。

 つまり、何も買えない。


 「……ちょっと待って、状況整理しよう」


 焦りを抑えつつ、冷静になろうとする。


 ① 私はナポリにいる

 ② お腹が空いている

 ③ お金がない

 ④ 知り合いもいない


 「…………」


 詰んでない?


 最初は楽観的だった。

 ナポリの陽気な空気に浮かれ、異国の風を楽しんでいた。

 けれど今は――


 目の前にはピザ屋。

 漂ってくる香ばしい匂い。

 幸せそうにピザを頬張る観光客たち。


 なのに、私は何も食べられない。


 なんなら、座ることすらできない。


 カフェの椅子は有料。

 無料のベンチは埋まっている。

 適当に座ろうものなら、店員に追い出されるのは目に見えている。


 「……」


 そして、エリー・ブラックローバーは考えた。


 ――これって、かなりヤバい状況なのでは?


 ナポリの街は活気に満ちている。

 太陽はまぶしく、カラッとした空気が心地よい。

 観光客はみんな楽しげで、イタリア語の陽気な会話が飛び交う。


 それなのに――私だけが、完全に終わってる。


 エリーはふらふらと近くの石造りの階段に腰を下ろし、頭を抱えた。


 「いやいやいや……どうするのよ、これ……」


 目の前には、誰かが食べ終えたピザの箱が転がっている。

 その中には、まだ一口分だけ残っていた。


 いや、いくら私でもそこまでは落ちぶれない……!!


 そう自分に言い聞かせながら、思わず手が動きそうになるのを必死に抑える。


 「……クソッ、ナポリのバカ野郎……」


 小さく毒づくが、もちろん誰も助けてはくれない。


 エリー・ブラックローバー、ナポリ到着早々に完全に詰んでいた。

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