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Große Hexen/偉大なる魔女  作者: 西島書店
ナチの亡霊編
1/41

1話 戦争とエリーの人生

 ベルリンは雨だった。


 灰色の空から降り続ける冷たい雨が、静かな街を濡らしていた。古いアパートの窓には水滴が流れ、アスファルトの上には無数の波紋が広がる。


 そんな夜、街の片隅にある 廃れたバー の灯りだけが、かすかに揺れていた。


 埃っぽいカウンター、長い間誰も手をつけていない酒瓶、割れた時計。時が止まったようなその場所で、一人の少女がグラスを傾けている。


 黒いジャケットにウェスタンハット。白黒のミニスカート。膝を組みながら、スカイブルーの瞳がじっとスクリーンを見つめている。


 古びたテレビの中では、白黒の映画が流れていた。ガンマンがリボルバーを抜き、最後の決闘に挑んでいる。


 エリー・ブラックローバー。


 かつて「偉大なる魔女」と呼ばれた少女。


 だが、それは過去の話だった。


 彼女はナチス・ドイツが枢軸国とともに生み出した、戦争の道具。人体実験と秘術、科学とオカルトの交差点で生まれた、ただの 人間兵器。


 フィンランド。

 それが、彼女の故郷だった。


 ソ連との継続戦争で、エリーはフィンランド軍の狙撃手として戦った。


 森の中、雪に身を潜め、銃の照準越しに数えきれないほどの敵を撃ち抜いた。


 だが、戦争は終わった。

 そして、彼女の国は敗れた。


 捕まれば、処刑。

 生き延びたければ、逃げるしかない。


 そんな彼女の亡命を手助けしたのが、チェイス・ロートヴィッツ という男だった。


 ナチス・ドイツの将校。


 もっとも、彼は大した人物ではなかった。


 戦争の末期、ベルリンの混乱の中で、「ただの一兵士」として日々をやり過ごしていた。彼にとって、ナチスはどうでもよかった。ただ、自分の身を守ることに必死だった。


 「お前、これからどうするつもりだ?」


 敗戦が濃厚になった頃、彼はエリーを見てそう言った。


 「……わからない。捕まるわけにはいかない。」


 「なら、ついてこいよ。」


 戦争が終わり、ベルリンは東西に分裂した。


 チェイスは生き延びた。西側に逃げて、バーテンダーになった。


 「俺の夢だったんだ、バーを開くのがな。」


 エリーを匿い、食わせ、酒を飲ませた。


 彼女が仕事をしないことも知っていたが、何も言わなかった。


 「お前、ガキのくせに飲みすぎじゃねぇか?」


 「……ガキじゃないわよ。」


 「そうか? 俺から見りゃ、ずっと変わんねえ。」


 「……変わらないのよ。」


 エリーはそう呟き、グラスを揺らした。


 チェイスは戦争のことを語らなかった。彼はもう、戦いたくなかった。


 「なあエリー、お前はどうしてそんなに飲むんだ?」


 「考えなくて済むから。」


 「俺は、酔うために飲むんじゃない。味を楽しむために飲むんだ。」


 「……バーテンダーらしいわね。」


 「だろ?」


 エリーはチェイスが作るカクテルを何度も飲んだ。だが、どんなに美味い酒でも、彼女にとってはただの 酔うための毒 でしかなかった。


 それでも、チェイスは何も言わずに、彼女の前にグラスを置いた。


 「お前には、まだ先があるんだろう?」


 チェイスは何度かそう言った。


 そのたびに、エリーは「もう何もない」と笑った。


 やがて、チェイスは年老いた。


 エリーは変わらないままだったが、チェイスの髪は白くなり、体は衰えていった。


 ある日、彼は静かに死んだ。


 遺されたのは、埃をかぶったバーと、彼が飲みきれなかった酒だけだった。


 エリーは今でも、ここにいる。


 彼が遺した酒を、彼がいなくなったこの場所で、一人飲み続ける。


 スクリーンの中では、ガンマンが最後の銃弾を放った。


 彼らは、まだ戦っている。


 けれど、エリーはもう戦わない。


 彼女はただ、酒を飲むだけだ。




 チェイスが死んで、もう10年が経った。


 ベルリンの壁は崩れ、東と西は一つになり、冷戦は終わった。かつて敵だった国々は手を取り合い、世界は次の時代へと進んでいくのだ。


 戦争は、もうどこにもなかった。


 真の平和がやってきた。


 ——はずだった。


 だが、エリーの心にあるのは、ただの 虚無 だった。


 雨音が静かに響く。


 何本もの酒瓶が転がるテーブルの上、エリーはグラスを傾ける。


 何も変わらない。


 チェイスが死んだ日から、彼女はこのバーで、ただ酒を飲み続けていた。


 スクリーンの中、白黒のガンマンたちは相変わらず銃を構えている。


 この映画も、何度見ただろう。


 まるで、自分の心を映し出しているようだった。


 白黒の世界。


 色を失ったフィルムの中で、彼らは戦い続ける。


 もう何もないのに。


 チェイスは、この映画を最後まで楽しんでいた。ロマン主義な男だった。


 「ガンマンは最後まで戦わなきゃならねぇんだよ」


 そう言って笑った。


 エリーはふと、グラスを握る手を止めた。


 ——涙が、こぼれた。


 「……なんで、今さら。」


 手の甲で拭っても、またこぼれる。


 どうしてこんな夜に。どうしてこんなにも酒を飲んでいるのに。


 チェイスがいなくなって、もう10年も経つのに。


 彼が死ぬ前のことを思い出した。


 ——一度だけ、エリーは昔話をした。


 歳を取らない自分のこと。

 自分が作られた存在であること。

 どこにいるかはわからないが、施設で同じ境遇の仲間がいたこと。


 彼女はずっと悩んでいた。


 こんなことを、たかが一兵士に話すべきなのか。


 だが、亡命先で唯一、彼女を人として扱ってくれたのは チェイスだけだった。


 だから、彼にだけ話した。


 チェイスは黙って聞いていた。


 それから、軽く肩をすくめて、いつもの調子で言った。


 「じゃあ、会いに行けばいいじゃないか。」


 エリーは苦笑した。


 「今さら、生きてるかもわからないわ。」


 「うーん……」


 チェイスはグラスを傾け、しばらく考え込んだ。


 そして、ニヤリと笑うと、こう言った。


 「じゃあ、お前には俺が死んだ後の遺産を渡そう。」


 「……は?」


 「どうせ俺も身寄りはねぇし、俺の全てをお前にやるよ。」


 エリーは呆れたように息をついた。


 「冗談でしょ。」


 「本気だって。」


 「どうして?」


 チェイスはグラスを置き、面倒くさそうに首を回しながら言った。


 「お前には、まだ先があるんだろう?」


 エリーは言葉に詰まる。


 そして、チェイスはニヤッと笑い、酒瓶を軽く振った。


 「……じゃあ俺が最後に、お前に面倒事でも押し付けてやるよ。」


 「……は?」


 「俺の遺産、全部くれてやるって言ったろ? だから、どう使うかはお前に任せる。」


 エリーは呆れながらも、少しだけ笑った。


 「そんなもの、どうしろっていうのよ。」


 「知らねぇよ。お前が決めろ。」


 「……勝手ね。」


 「まあな。」


 そう言って、チェイスは酒を飲み干した。


 それが、彼との最後の夜だった。


 ——10年後。


 エリーは、今もこうして酒を飲んでいる。


 チェイスの遺産は、まだそのままだ。


 どうしろと言われても、わからない。


 彼が死んだあとも、何も変わらなかった。


 でも。


 ——何も変わらないままでいいのか?


 スクリーンの中では、ガンマンが最後の銃弾を放った。


 彼らは、まだ戦っている。


 けれど、エリーはもう戦わない。


 いや、戦わないままでいいのか?


 彼が言った、「面倒事を押し付けてやるよ」という言葉が、なぜか今になって心に引っかかる。


 エリーは、グラスの底に残った酒をじっと見つめた。


 このままでいいのか?


 チェイスなら、こう言うだろう。


 「お前には、まだ先があるんだろう?」


 雨は、まだ降り続けていた。



 エリーは、静かにグラスを置いた。


 目の前のスクリーンでは、ガンマンが最後の一発を放った。


 そして、カウンターの上には、もう何も残っていない。


 彼女は、無造作に転がる酒瓶を一瞥し、それを拾い上げると——


 勢いよく地面に叩きつけた。


 「面倒事ってなによ!!」


 怒りにまかせて叫ぶ。


 ガラスの破片が床に散らばり、アルコールの匂いが広がった。


 彼はいつも、こんな調子だった。


 「俺の遺産をやるよ」とか、「お前にはまだ先があるんだろう?」とか、勝手なことばかり言って、最後には「俺が面倒事を押し付けてやるよ」なんて、そんな……。


 「勝手に死んで、勝手に遺産とか言って……何考えてたのよ……」


 チェイスが最後に残した言葉を、エリーはずっと待っていたのかもしれない。


 それを知りたくて、彼が死んだあとも、このバーに居座り続けていたのかもしれない。


 でも、彼の部屋には、一度も手をつけていなかった。


 彼の死を、完全に受け入れるのが怖かったから。


 チェイスの部屋は、今もそのままだ。


 埃は積もっているが、家具も、酒棚も、彼の机も——あの日のまま。


 机の上には、何冊かの書物が置かれていた。


 だが、エリーはそれらを開いたことがない。


 死んだ人間の私物を漁るのも悪いしね。


 それが彼女なりの遠慮だった。


 ……けれど、もう10年も経った。


 さすがに成仏してるだろう。


 エリーはそう自分を納得させると、机の端に置かれていた一冊のノートに目を向けた。


 何の気なしに手に取る。


 パラパラとめくったページには、見覚えのある筆跡。


 チェイスの日記だった。


 最初のページを開くと、そこに書かれていたのは——


 「エリーと初めて会った日」


 彼女のスカイブルーの瞳が、わずかに揺れる。


 《継続戦争の惨敗して逃げている部隊。俺の部隊に捕獲された少女。》


 《その後、親衛隊の奴らが探ってきたが、そんなやつ知らないと追い返してやった。》


 《戦況は次第に悪化の一途を辿り、ベルリン攻防戦では、部隊は全滅。》


 《俺はエリーを抱えて逃げることしかできなかった。》


 エリーはページをめくる手を止める。


 「……こんなの、いちいち書いてたのか? チェイスは?」


 彼は、自分との出会いを日記に書き残していた。


 そんなこと、彼は一度も言わなかったのに。


 エリーは小さく息をつき、日記を持ったまま、椅子に深く座り込んだ。


 スクリーンの中では、ガンマンが静かに銃を下ろしていた。


 ページをめくるたびに、埃と古い紙の匂いが鼻をくすぐった。


 チェイスが敗戦後、西ドイツでバーテンダーを始めた頃の日記。


 彼はずっと夢だったと言っていた。


 「俺の酒は最高だぞ、エリー」

 「誰が決めるのよ、それ」

 「客が決めるんだよ。……まあ、俺が一番上手いと思ってるけどな」


 日記には、そんな彼の日常が詰まっていた。


 エリーのことも、たびたび書かれていた。


 《エリーと喧嘩した。原因は、俺がバーの売上を酒に変えてしまったこと。》

 《ぶん殴られたが、こっちも殴り返してやった。こいつ、意外と力がある。》


 エリーは苦笑する。


 「……あんたがバカなことするからでしょ」


 日記は続く。


 《今日もエリーは何もしない。店番を頼んだのに、カウンターで酒を飲んでいただけだった。》

 《客が絡んできたら、容赦なく殴り飛ばした。俺が後始末する羽目になった。》

 《仕方ない、エリーがやる気を出すのは喧嘩だけらしい。》


 「……そんなことないわよ」


 反論しながら、エリーは苦笑する。


 店の客がウザく絡んできた日、チェイスはいつものように「ほっとけ」と言ったが、エリーは黙っていられず、男を殴り飛ばした。


 結果、バーは騒ぎになり、チェイスは大慌てで事態を収拾した。


 日記には、そんなことが何度も書かれていた。


 「……本当に、いちいち書いてたのね、こんなこと。」


 彼はエリーとの生活を、なんだかんだで楽しんでいたらしい。


 ——ページをめくると、少し違った記述が目に入った。


 《エリーに魔法を見せてくれと頼んだ。》

 《魔女なんだろ?》


 エリーは息を止めた。


 ……そんなこともあった。


 彼女は、どう答えたのだったか。


 「……覚えてないわね。」


 適当に誤魔化したか、呆れたか、バカなことを言うなと笑ったか。


 ただひとつだけ、鮮明に覚えていることがあった。


 ——エリーは、彼にキスをした。


 チェイスは驚いた顔をして、それから笑って、「そういう魔法か」と言った。


 そのあとは、どうしたんだったか。


 ……思い出せない。


 エリーは日記を閉じた。


 チェイスの文字が目の前にあるのに、そこにいるわけじゃない。


 彼の声も、仕草も、すべてがもう過去のものだった。


 彼女は、『我が闘争』 を読んだときに鼻で笑った。


 くだらない、と。


 だが、彼の日記は、そうはならなかった。


 エリーは日記を抱えたまま、窓の外を見た。


 エリーはページをめくる手を止めた。


 チェイスの死が迫っている のを、紙の上から感じ取った。


 日付は飛び飛びになり、書かれた文字の筆圧も薄くなっている。


 最初の頃の彼の日記は、まるで酒の匂いが漂ってくるようだった。軽い調子で、くだらないことを綴り、喧嘩や騒ぎ、店の出来事を書き連ねていた。


 しかし、後半になると違った。


 「今日はエリーと何も話さなかった」

 「店を開くのが少し億劫になってきた」

 「エリーは相変わらず飲んでばかりだ」


 次第に、日記の行間には 沈黙 が増えていった。


 それは、彼の終わりが近づいている証だった。


 そして、最後の日記のページ に辿り着いた。


 エリーは、しばらく手を止めたまま、そこを見つめた。


 ——見たくなかった。


 これを読んでしまえば、彼の死を本当に受け入れてしまう気がした。


 彼が残した最後の言葉を、この10年間ずっと見なかったのは、そのせいだった。


 「……」


 だが、エリーは深く息をつき、震える指先でその日記を掴んだ。


 その瞬間、一通の手紙がふわりと床に落ちた。


 エリーは驚いて、それを拾い上げる。


 「……なにこれ……?」


 封筒を開き、中の便箋を広げる。


 見覚えのある文字。


 チェイスの筆跡だった。


 書き慣れたラフな筆跡だったが、今までのどれよりも力強かった。


 『ようエリー、毎日酒を飲んで退屈そうだな。

 そんなお前も、俺が死んだらどうする?

 ずっとこのままやっているのも、つまらないだろう。』


 エリーは息を呑んだ。


 「……バカね。」


 『お前とは昔話をしたことなかったよな。

 戦争のことなんて、俺らからしてみりゃ、人生をめちゃくちゃにされたもんだ。

 語りたくもないだろう?』


 語りたくもなかった。


 忘れたくて、酒を飲んで、時間の中に埋めようとした。


 チェイスもきっとそうだった。


 だが——


 『だけど、一夜だけ、面白おかしく語ってみようじゃないか。』


 『お前にも友達がいるんだろ?そいつらを呼んで、一晩だけさ。』


 エリーは思わず手を震わせた。


 友達。


 ——彼女には、かつて同じ境遇の仲間がいた。


 今も生きているかはわからない。


 だが、いるかもしれない。


 手紙の文字が、次第に歪んでいた。


 筆跡が乱れ、文字が揺れている。


 彼がどれほどの力で、どれほどの思いでこの手紙を書いたのかがわかった。


 最後の一行。


 そこには、たった一言だけ——


 『ごめんよ、エリー。時間がなかったんだ。』


 ——それだけが書かれていた。


 エリーは、手紙をそっと胸に押し当てた。


 「……バカね、チェイス。」


 彼は最後の最後まで、勝手なことを言って、勝手に面倒事を押し付けていった。


 だけど。


 ——彼の代わりに、やってやろうじゃないか。


 エリーは静かに立ち上がった。


 彼のための、同窓会を開く。


 かつての仲間を探し、一夜だけ、過去を語る。


 それが、彼が残した最後の「面倒事」。


 「……いいわよ、チェイス。」


 「最後まで付き合ってやるわ。」


 エリーは、手紙をポケットにしまうと、バーの扉を開けた。


 外では、まだ雨が降り続いていた。


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