君が思うよりずっと
彼女を救う。
倫理や善悪など、どうでもよかった。
見渡す限り真っ白な研究室の奥には深緑の、まるで海のような液体に満たされた巨大な水槽が鎮座している。
目を凝らして水槽を覗くと、その奥になにやら子犬のような大きさの物体が浮遊している。
それは人間の脳であった。
綺麗なピンク色をしたそれは、一見すると生きているのか死んでいるのかわからないが、
計器が示す数値は間違いなく生きている人間のそれと違いはなかった。
この脳の持ち主であった少女は、生物学的にはすでに死んでいる。
けれど脳科学研究の礎となるべく、この研究所で治療という名の恩恵を授かっていた。
水槽を前にして、一人の研究者がコンピュータを操作している。
カタカタと震える指を動かす様子には、緊張や焦りといった感情が見られる。
それは期待の先走りであった。
このプログラムを走らせた先に、彼の念願が叶う。
それを思うと興奮して、キーボードが上手く叩けず、何度も同じ工程を繰り返す羽目になっていた。
そして、ついにその時がやってきた。
「アキ……」
研究者がかつての教え子の名前をつぶやく。
しかし、それに反応を返すものはいない。
「アキ」
再び、彼は脳に向かって語り掛ける。
その心が悦びから不安へと染まっていく。
何かを間違えたのだろうか。
そんなはずない。他の生物を使った実験だって全て上手く行っていた。
設備に不備もない。彼女に彼の声が届いて、また彼女の声が聞こえないわけがないのだ。
「アキ」
今度はマイクのほど近いところで囁きかける。
彼女の声を、吐息を逃さないよう、スピーカーの感度を更に上げる。
「……」
けれど、彼女はしゃべらない。
懐かしいあの声を聞かせてはくれない。
ぶつぶつと独りごちながら、彼は何度も何度も自身の研究成果を見直すが、どこにも不備はない。
そんなはずはない。脳科学の研究と実験の果てに、彼女の脳とのインプット/アウトプットできることに疑念の余地はないはずなのだ。
「アキ……頼むよ」
焦燥しきった目が、顔が、身体が、水槽の奥にある少女の忘れ形見を見つめる。
少女は何も応えない。
少女は何も応えない。
実験は終了した。
どれだけの禁忌に手を染めても、男の人生には何も残らなかった。
ただ、彼女の脳が浮かぶばかり。
先ほどまでの狂喜とは一転、男は絶望の只中に落ち込んでいた。
少女はすでに死んでいる。彼が数十年かけて辿り着いた結論がそれだった。
もしかしたら、しばらくは生きていたのかもしれない。
けれど脳だけの存在となり、誰とも触れ合うことのできなかった彼女は、
不安と絶望が襲ってくる思考の奔流の中で、自らを殺してしまったのだ。
もっと早くここまで辿り着けていれば。
そもそもあの日彼女を……。
悔やんでも詮無い気持ちがとめどなく溢れ出す。
あの日以降のやり場のない感情が、数十年分一気に押し寄せてきたようだ。
そう、全てはこの日のために生きてきた。けれど無為に終わってしまった。
終わってしまった。
――死のう。
男は生命維持装置――水槽――の電源を力づくで引き抜くと、研究室を後にする。
「先生……」
自らを慕う少女のいつかの声が、ずっと聴きたかった声が、薄暗い室内にこだましていた。
Cogito, ergo sum.
Non cogitat, ergo non est.