プロローグ
じとりと肌にまとわりつくような天気だった。外は雨が激しく降っていて、先程から雷鳴が遠くに聞こえる。まだ昼間だと言うのに部屋の中は薄暗く、視界も朧気だ。
こんな日は昔からなにか良くないことが起こりそうで苦手だった。雨音がほかの音をかき消し、自分だけがここに取り残されたような気分になる。手元の本も明かりをつけてまで読む気にはなれず、サイドテーブルの上で閉じられたままになっている。
ふと、カタリと音がした気がした。音がした方を見ても何も変わりはない。きっと部屋の外にいた誰かが少し音を立てただけだろうと思い、さして気にはとめなかった。
しかし不思議なものだ。先程までこの世界に1人取り残された気分だと思っていたが、実際音がすると人がいると安心するよりも不気味に思ってしまう。やはりこの天気と薄暗さのせいなのだろうか。
それからどのくらい時間が経ったのか。10分、20分、もしかしたらもっと経っていたかもしれないし、5分も経っていなかったのかもしれない。部屋はどんよりとした暗さのままで私は無気力に、より激しくなる雨を眺めていた。
その時、とんとん、と扉を叩く音がした。誰だろう。侍女ならば私が返事をする前に手短に用件を言ってくるはずだ。家族ならば私が部屋にいるかどうかを尋ねてくる。それが我が家の日常だった。それなのに扉の向こう側の誰かはそれを言う気配がない。
普段であれば気にもしていない些細なことだが、嫌な予感がして私は返事をしなかった。
そうして返事をしないでいると、もう一度とんとん、と先程より強めの音がした。何故か心臓がドクリと嫌な音を立てる。
部屋にはいつも内側から鍵をかけている。一人の時間を邪魔されたくないという思いから、家族や侍女に多少反対されながらも、無理やり取り付けさせた。だからこそ、一向に名乗り出ない訪問者は無理やり開けることが出来ないのだろう。それが今ほど役に立ったことは無いと思うほど、不気味だった。
扉の向こう側にいるのは、侍女でも、家族でもない。それならば誰だと言うのだろう。返事をしてはいけない、音を立ててはいけない、扉を開けてはいけない。ここにいてはいけない、ここにいては危険だ。
そう、本能が告げてくる。しかし、底知れぬ恐怖と不気味さで震えて体が動かない。
そうしてもう一度、強く、ノックの音がした。
どうしてノックをしてくるのかは分からない。ノックをせずに扉を壊せばいいのに。混乱する頭の中でどこか冷静な部分がそう囁いた。
ここにとどまっていてはいけないことは理解している。逃げなければ。しかし外は雨。窓を開けるにしても音がしてしまうし、この雨の中では逃げ切れるかどうかも分からない。
じとりと背中に嫌な汗が走った。逃げ場がない。どうしたらいい。どうしたらいいのか考えなければ。逃げ場が、逃げ場はどこ、どこに行けばいい、隠れるだけでもいい、どこに。
叩きつけるようなノック音でビクリと身体が震える。そこでやっと少しだけ足を動かすことが出来た。
どこに隠れればいい?
必死に隠れ場所を探して部屋中を見渡す。
机の下。クローゼットの中。ベッドの下。
ああ、この部屋はなんて隠れる場所が少ないんだ。どこもすぐ見付かってしまう。
しかし多少の時間稼ぎにはなるだろう。時間を稼いで誰かが助けに来てくれるのを待つしかない。
本当に?待つしかない?
本当に助けは来るの?
こんなにもノックの音が激しく鳴り響いているのに、誰一人としてこの部屋に駆けつけてこない。どうして?もしかしたら、もう既にほかの人は……
不安な気持ちを首を振って断ち切る。まずは自分の身が優先だ。隠れなければ。
そうして震える体を叱咤してなんとか隠れた時、遂に扉は壊され、家族でも侍女でも護衛でもない誰かが部屋の中に入ってきたのだった。
「ヒヒヒ」
まず聞こえてきたのは不気味な笑い声だった。
次に聞こえてきたのは棚に飾られていた花瓶を壊す音。ガチャン!と大きな音がなり、身が竦む。
緊張で呼吸が浅くなる。しかしここで音を出しては元も子もない。見つかってしまっては私自身どうなるかわかったものではない。なんとか口を手で強く抑えて音を漏らさないようにより力を込める。
その間も不気味な侵入者は私の部屋のものを次々と漁り、壊していく。
サイドテーブルに乗せたままだった本も無惨に破られる音がした。その本は床に叩きつけられ、踏みつけにされたのが横目で見えた。
侵入者は私を探しているのかいないのか。はっきりとは分からないが、部屋を荒らす手に迷いはない。
一体なぜこんな目に。
震える体を力を込めることで押さえつけるが意味をなさず、がたがたと震え出す。
男がサイドテーブルを蹴飛ばし、クローゼットを開ける音がした。年季の入ったそれは、ギィィっと音を立てる。普段ならば日常の音の一つであるにも関わらず、今のこの状況では不気味で恐ろしいことこの上ない。ひとつずつ部屋を暴かれていく度に次は私の番だと思わされるようで気が気ではない。全身が汗だらけで心臓が早鐘を打っている。
侵入者はクローゼットを開け、服を切り裂きクローゼットの扉にナイフを何度も刺しているようだ。
刃物を持っていたのだ。刃物を持った男に見つかるなど、道はひとつしかないでは無いか。切り裂かれて死ぬなんて、そんなことは望んでいない。見つからないように気をつけなければ。
男に見つからないことを祈りつつ、必死で息を潜める。見つかってはいけない。見つかったら終わりだ。
そう考えると更に震えが増してしまった。カタカタととまらない。ふと、肘に何かが当たる気配がした。そんな些細な感覚にビクリと大袈裟に身体を震わせながらもそちらの方を見る。
そこにあったのは木剣だった。
小さいものだ。小さくて、子供のお遊びのような。
そうだ。この木剣は、私が隠しておいたものだ。どうして忘れていたんだろう。
その、小さな木剣を掴み、手元に引き寄せる。何も無かったさっきよりも、子供の遊び道具とはいえ、心強く感じた。
それをぎゅっと握りしめ、心を落ち着かせる。
自分の居場所がバレるのも時間の問題だ。クローゼットを探し終えたなら、ここを探す可能性もある。気を抜けない。もし見つかったとしても、この木剣で隙をついて逃げよう。何としても逃げるんだ。
いつの間にかクローゼットの扉を刺していた音は止み、再び侵入者の動く衣擦れだけが聞こえるようになる。大抵のものは見終えたのか、壊し尽くしたのか。うろうろと私の部屋を歩き回る男の足が布の隙間から見える。
何かを探しているかのようにこの部屋から出ていこうとはしない。
ふと、見えていた足が止まった。全身に緊張が走る。
足があるのは、私の目の前だ。
男が屈んだ。目の前の布に手が掛けられる。次第に視界が開けていくのが、とてもゆっくりに感じられた。
真っ白の布に覆われていた視界はやがて鮮明に目の前を映し出す。
目の前には、ニタリと嫌な笑みを浮かべた男がいた。
「みィつけたぁ」
男はその顔にうかべた笑みをさらに深くしてこちらに手をのばしてくる 。
私は─────