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8.火曜日午後7時
「どうでした? あれ、置いてきましたか?」
待ち合わせていた場所で、麻衣とおちあった。秋葉原駅前にある小さな公園だ。周囲に人の姿は多いが、園内にいるのは会社員らしき数人だけだった。
おれは、少し恥ずかしい気持ちになりながら麻衣の言葉を聞いていた。
「ああ、置いてきた」
あれ、とは世良の事務所に残してきた紙だ。『殺し屋参上』と書いてあった。麻衣が書いたものだ。
正直、あんなものをおれが書いたと思われたら赤面ものだ。
「で、世良さん、元気でしたか?」
「元気だったんじゃないか」
おれがいるとわかっていたのに──先陣をきって事務所内に入ってきたのだ。それで元気がないのなら、それこそバケモノを通り越して、神の領域だ。
「やつだけじゃなく、あの刑事もいたな」
「刑事? 長山さんですか?」
その名前の刑事は、たしか年配だったはずだ。
「ちがう。もっと若いやつだ」
「ああ、たしか……桐野さん」
そいつとは、あまり接点がなかったようだ。
「でもどうせなら、もっと派手にやったほうがよかったんじゃないですか?」
「派手って?」
「マスコミを呼んだりして」
彼女の脳内でどんなイメージをつくりだしているのか、少し恐ろしくなった。
「大丈夫だ。そんなことをしなくても、裏の世界には噂が広まる。それに刑事がいたんだから、警察も動くだろう。それで充分だ」
「事件化されるんですか?」
「そこまではわからないが、鑑識が入るだろうな」
「え? あの紙から、わたしの指紋とか出ちゃわないですか?」
「安心しろ。あの紙は、鑑識には提出されない」
「どうしてですか?」
「きみが気にすることじゃない」
おれは、その話題を打ち切った。確証があるわけではないからだ。あの男なら、そうするだろうと予想してのことだ。
「これから、どうするんですか?」
「とりあえず、いまはむこうからのリアクションを待つしかないな」
「なにもなかったら?」
さすがに日本まで導いておいて、それはないだろう。が、相手の思惑がわからない以上、いろいろな想定はしておくべきだ。
「もう一度、ためすしかない」
「世良さんを襲うんですか?」
「そうなる」
しかし、そのテが使えるのは、あと一回が限度だろう。
「それじゃあ、今夜のところは帰りますか?」
「きみはさきに帰っててくれ」
「え? まだなにかあるんですか?」
「ああ」
麻衣の視線が、なにかを疑っていた。
「なんだよ……」
「まさか、いまから引き返して、決着をつけるつもりじゃないですよね?」
キツめの口調で、問いただされた。
「そんなことはしない」
「殺し屋の血が騒いだんじゃないですか? 強敵を前にして、闘わずにはいられなくなったとか」
想像力は、あいかわらずたくましいようだ。
「おれを信じろ。世良には会わない」
「……本当ですか?」
「本当だ」
それでなんとか納得してくれた。おれは麻衣と別れると、世良の事務所に近づいた。
近づきすぎに注意した。足音から察知されるおそれがあるからだ。よくよく考えれば、こんなに恐ろしい相手をほかには知らない。メキシコで遭遇した鉄球男がおもちゃに思えるほどだ。
おれ自身も、その世界では怪物のように噂されているが、あの男こそが本物のバケモノだ。
そして、そのバケモノを誕生させたのが、このおれだとは……なんて間の抜けた話だ。おれは、自分で自分の首を絞めてしまったのだ。
「……」
おれは、世良の事務所周辺を見て回った。擬態はしていない。もし世良を監視している人間がいたら、あきらかに不審人物として眼に映る。
それが《おおやけ》なのかわからないが、世良の価値を考えたら、どこかに監視されていたとしても不思議ではない。
どうやら、食らいついたようだ。
おれは路地に入った。
夜だから暗く、ほかに人の姿はない。街灯のない位置で立ち止まった。
むこうも、誘われたことを承知している。
「……顔は見えないし、見たこともないので、たしかなことは言えないが……《U》と呼ばれている人物かな?」
むこうのほうから話しかけてきた。おぼえのある声だった。
「あんたのことは知ってる」
「そうだったな、どこかの廃工場で会っているな」
麻衣を誘拐(保護)した直後に、この男が現れた。思わせぶりな登場だったのだが、そのときのやりとりはもう忘れた。
《おおやけ》の言動は、どうせ中身があるようで中身がない。覚えるだけ脳細胞のムダだ。
「で、おれになんの用だ?」
「これはおもしろいことを言う。用があるのは、そちらではないのか?」
痛いところを突かれた。たしかに、いま誘ったのはおれのほうだ。
「あんたは、世良を張ってたのか?」
「どうだろうね」
《おおやけ》翻訳機があったとしたら、「そうだ」と訳しているだろう。
「いつもなのか? それとも、いまだからなのか?」
「難しい質問だな」
──いつも監視はしているが、いまは特別に注視している。
「なにがあった?」
「なんのことだ?」
──重要なことがおこった。
「……どうやらあの男も、なにかに巻き込まれているようだな」
おれが頭のなかで翻訳していることを知ってか知らずか、《おおやけ》はニヤッと笑った。おれは夜目がきく。それぐらいは、この闇夜でもわかる。
「その口ぶりだと、稀代の殺し屋も同じ境遇ということかな?」
もちろん、その返事はしない。こういう連中にとっては、なにが弱みになるかわからない。
「世良は、敵か?」
「その質問は、そっくりそのまま返そう。最強の殺し屋は、世良王海の敵なのか?」
「あたりまえだ。おれとあの男は、それ以外、なにがある?」
ふふ、と《おおやけ》は、今度は声を出して笑った。
「なにが可笑しい?」
「いや、失礼。彼はいま、あるものを手に入れようとしている」
「あるもの?」
「われわれは、それに少し興味があるだけなのだ」
「どんなものだ?」
「人によっては、喉から手が出るほど欲しいだろうね」
「あんたもか?」
「どうだろう」
──われわれではないが、それを欲している人のために協力したいと考えているんだよ。
翻訳すると、こんなところだろう。
「そうか。だいたいの事情はわかった」
おれは、闇に溶けた。
「もう行くということかな?」
応答はしなかった。
いわば、闇夜はおれのフィールドだ。たとえ名うてのスパイであろうと、もう追跡はできない。
おれは路地を抜けて、大通りへもどった。国道4号線だ。麻衣はすでに地下鉄を使って、自分の部屋に帰っているだろう。
「ん?」
夜でも交通量は多く、信号待ちをしている人々も途切れない。
そのなかで、存在感のある視線を察知した。
以前にも知っている気配だ。
見られている?
いや、そんなはずはない。擬態はしていないが、だれからも目立たないようにしている。染みついているクセのようなものだ。
もし見ている人間がいるとしたら、おれの顔を知っている、ということになる。そうでなくては、目立たないおれの姿に注目するわけがない。
おれの顔を知っている人間は、世良と麻衣以外には、あと二人……。
店員は、いまも生きているかどうか疑わしい。すると──。
おれは雑踏のなかから、ある女の姿をさがした。
みつけられない。
さすがだ。おれからうまく姿を隠している。
あの女も、擬態ができるのかもしれない。
しかしこのままでは、おれのプライドが許さない。
おれは、大まかに場所の見当をつけて、そこへ迫った。
「なんの用?」
後ろから声が来た。
背筋が寒くなった。
やはり、この女は脅威だ。
どうする? いま消しておくか?
「なぜここにいる?」
「それは、わたしのほうが聞きたいわ。わたしは、恋人に会いに行くだけ」
この女は、あくまでもあの男の恋人だと言い張っている。
名前は、夢見まりもといったはずだ。声優としての芸名なのだろうが、おれはこの女を見逃したことがある。いまにして思えば、あのとき確実に仕留めておくべきだった。
この女は、おれにとって最大の不確定要素だ。
「おまえは、だれの思惑で動いている?」
あのときも、いまも。
「あなたのほうこそ、なにをしようとしているの?」
「おれのことはいい!」
「いえ、そのほうが重要なことだわ」
この女にしてみれば、たしかにそうなるだろう。
「安心しろ。世良を殺すわけじゃない」
「それがいいわね。あの人を狙えば、死ぬのはあなたのほうよ」
それは、世良が勝つ、ということをしめしているのか……それとも、この女がやるということなのか……。
この女は、《店員》に反撃の隙をあたえず倒した実力者だ。もしかしたら、世良に匹敵するバケモノかもしれない……。
「それはそうと……あの子をみかけたわ」
「あの子?」
「世良さんが保護したことのある女の子よ」
麻衣のことだ。女子大生だから「女の子」と呼ぶのは失礼かもしれないが、たしかにしっくりくる。それにこの女の見た目は二十代でも通用するが、実年齢は三十代後半ぐらいになるだろう。いや、それ以上かもしれない。娘とはいわないが、姪ぐらいには感じるほどの年齢差があるはずだ。
「まさか、また巻き込んでいるわけじゃないでしょうね?」
巻き込んでいるが、知らないふりをした。
「……そう。なら、偶然だったのかしらね」
あきらかに信じていない。
「わたしは、もう行っていいかしら?」
おれは、道をあけた。とりあえず敵意はないようだ。
「あ、そうそう。彼女の近くに、不審な人物がいたわね」
「? だれだ?」
「それはわからないわ。でも、たくみな距離をたおもってあとをつけてたわ」
なんでそれを早く言わない──そう言いたいのをこたえた。それがあったから、この女はおれに存在を知らせたのだ。
おれは、急いでその場を離れた。麻衣自身が狙われることはないはずだ。ありえるとすれば、公安の監視が続いていた……。
いや、《おおやけ》だって、そんなにヒマではないはずだ。
わからない。
とにかくいまは、彼女の安全を確認することが重要だ。