5
5.5日午前11時
峰岸に運転をまかせて、国家安全部だと思われる女とワゴン車の後部に乗った。
峰岸には、適当に車を走らせて二番目に見かけたファミレスへ入るよう指示を出していた。
よく行く場所では、事前にリサーチされている可能性がある。ランダムに選ばなくてはならなかった。
さすがに車内で凶行におよぶことはないだろうが、一応そのことも頭には入れていた。少しでも不穏な気配を察知したら、抵抗するつもりだ。勝てるかどうかの自信はなかったが、峰岸を逃がす時間稼ぎぐらいはできるだろう。
車が、ほぼ直角に曲がった。ファミレスの駐車場に入ったようだ。
「ここでいいのね?」
「ええ」
世良は返事をして、世良のほうから車外に出た。峰岸はすでに店内へ向かっている。背後が無防備になるが、いまさらこの状況で襲ってくることはないはずだ。
無事店内に入って、峰岸の声に誘導されながら席についた。
「ねえ、あなたたちは、わたしのことなんだと思ってるの?」
席に座るなり、女が口を開いた。
さきほどまでは、わざと男らしい口調にしていたのか、いまはむしろ艶っぽい女性の声になっている。
「わたしがたとえ、あなたたちの思っている組織に属しているとしても、安易に襲いかかったりなんてしないわ」
この期におよんで、国家安全部ということを完全に認めていない。
「わたしは殺し屋じゃない」
どうやら、世良が警戒していたことを察知していたようだ。
「では、なんなのですか?」
「元公安のあなたには、ごまかしは不要ね」
「ええ」
「あることをさぐっています」
その「あること」を問い詰めたところで、それを口にすることはないだろう。
「その『あること』と、あの部屋の住人が……なにか関係しているんですか?」
「沢口茜さんのことね」
やはり彼女の素性も知っていた。
「関係というほどじゃないわ」
この女の日本語は完璧で、イントネーションにも外国人を感じさせる部分はなかった。日本での生活が長いか、そもそも日本で育ったかだろう。
年齢は、声だけで判断するのなら二十代後半から、三十歳ぐらい。そのことを考慮すると、幼いころから日本に在住していると考えるべきかもしれない。
「これはね、わが国の治安に関することなのよ」
「中国の?」
ふふ、という笑い声が聞こえた。おそらく、首は縦にも横にも動いていない。ぎりぎりのところで、中国の諜報員だと認めないスタンスをとるようだ。
「彼女は、中国人ではない。反中の活動をしていたり、支援していることもないでしょう」
これは世良の印象論でしかないが、沢口茜から政治色はうかがえない。
「世良王海といえば、いまやこっちの世界では有名人よ。なのに、がっかりね」
女の言わんとしていることがわからなかった。
「あなたたちで言うところの『マル対』が、なんで元凶だと考えるの?」
「……」
そう告げられて、世良にも理解できた。
「お兄さん……ですか」
音楽家の兄、ということしか世良は知らない。海外で活動していた日本人が、なにかのきっかで反中共活動に加担していた可能性はある。
そして、それとは逆に……取り込まれるケースも。
むしろ、そちらのほうだろう──世良は思った。
「あなたたちの《S》だった……そういうことですね?」
「それはやはり、あなたたちの呼び方ね」
中国ではなんと呼ばれているのか、その教養はない。
「《J》になるかしら」
「中国語でスパイということですか?」
「間諜。日本語でもあるでしょう? チエンティエ──発音を英文字で表記すれば、頭文字はJになるのよ」
「彼女の兄に、なにをさせたんですか?」
「とくには、なにも」
なにもさせてないのに、こうして妹の身辺をさぐることはない。
「まあ、日本人は信用度が高いから」
そう女は、お茶を濁した。
海外で活動する日本人は、あくまでも一般論としてだが、中国人より信用されている。一党独裁の中国と、自由陣営の日本というイメージもある。だから日本人を協力者にしたほうが、情報を円滑に集めることができるという思惑だろうか。
「そういうことよ」
世良は口に出していないのに、女はそう見透かした。
「欧州で、中国に有用な情報を集めさせていたということですか?」
「そうともかぎらない」
この女が──いや、諜報組織に属している人間が、素直に認めることはない。
「沢口茜さんをマークする理由は?」
協力者の肉親というだけでは、やはり理由にはなっていない。
「彼女にも情報が漏れていると考えているんですか?」
協力者には、守秘義務はない。自らの命の危険がかかれば、秘密を口外することもめずらしはくない。もしくは、そこまで重要ではないと判断できる程度の情報ならば、親しい人間に話してしまうこともあるだろう。それを疑っているのだろうか?
それとも、もっと確証があって接触しようとしている?
「そうか……なにかを渡していると考えているんですね?」
女は、肯定も否定もしなかった。こういうときは、肯定しているとみるべきだ。しかも、それをこちらにアピールしたいとき……。
詮索されたくなければ、否定か肯定どちらかを口にする。
「それがなにか、あなたはわかっているんですか?」
「ふふ」
「それを奪うつもりですか?」
「……世界平和のためよ」
思わず吹き出してしまいそうなことを女は声に出した。中国のエージェントからは、最も遠い言葉だ。
「強引なことはしない……あなたが手に入れてくれれば、すべて丸くおさまるわ」
「おれが協力すると?」
「そのほうが、おたがいのためでしょ? 彼女にとっても」
「……」
女の思惑を見極めなければ──いや、聞極めなければ……。
「べつに高価なものじゃない」
「具体的には?」
「……今日は、ここまでにしておきましょうか」
やはり、核心をはぐらかす。
「あなたが、わたしに協力してくれるというのなら、それを話す」
立ち上がる気配があった。
「あとで、あなたの事務所に電話をさせてもらうわ」
そして、声のトーンを一段上げて、
「ここは、あなたのおごりね」
そう言い残して、店内から出ていった。
「王海さん……どう思いますか?」
これまで一言もしゃべらずにいた峰岸が、慎重に言葉を出した。
「沢口茜さんがもっているかもしれないもの……それがなんなのか、いまの女は知らない」
「え?」
「知っていたら、知っている……もしくは、知らないと答える。そのほうが、こちらを混乱させられる」
「でも……わざとぼかしていたのかもしれませんよ。それはそれで悩むでしょ?」
「そうかもしれない。結局のところ、どんな言葉であっても信用できないということだ」
「で、どっちなんですか?」
「知らないと思う」
つまりは、あの女どうこうではなく、自身の勘を信じるかどうかの問題だ。
「それが、どういう意味をもつものかは知っていても、具体的にそれがなにかは知らない」
「よくわからないです……ぼくの頭が混乱してます」
「……どんな容姿だった?」
世良は話題を変えた。形の見えない話を続けるよりは、ずっと建設的だ。
「美人でしたよ。年齢は二七、八ぐらいでしょうか」
「日本人に見えた?」
「はい。そう見えました」
あれだけ日本語が堪能なら、この国での活動は潤滑におこなえる。今回のことで派遣されたのか、それとも常駐しているか判断できないが、対日のエージェントとしてはうってつけの人材だ。
「これから、どうしますか? もう一人いますよね」
いまの女のまえに沢口茜の部屋へ侵入した人物がいる。
「そうだな……まずは、そっちを解決しよう」
沢口茜のアパートへもどった。
彼女にも連絡をして、職場から一時的に帰宅してもらった。ピアノ教室へは自転車で通っているので、それほど遠くはない。
「あの……本当に、入ったんですか?」
「はい」
世良の返事を聞くと、くぐもったうめき声のようなものが彼女の口からもれた。
部屋のなかで侵入者のことを説明したのだが、おそらく気味の悪いさから自室内を見回しているだろう。
「部屋の前にマイクを仕掛けてあったんだけど、それだけじゃなくて、カメラもつけてたんだ」
映像は世良では確認できないから、峰岸なり、茜本人に見てもらうためのものだ。
「で、この男に見覚えはある?」
撮影できた侵入者の映像を、沢口茜に観てもらった。
「この人……」
どうやら知っている人物のようだ。
「だれなんですか?」
「ダイニングバーの従業員です……」
「よく行く店なんですか?」
「演奏してたんです」
その店はピアノの演奏もおこなわれるらしく、月二、三回のペースで出演してたという。
「いまも?」
「いえ、三ヵ月ぐらいまえが最後ですね」
店とのあいだに雇用契約はなく、そのつど店側の要請や、人によっては演奏者のほうの希望で出演が決まるようだ。ギャラもけっして高くはなく、仕事としてよりも、ピアニストの卵がライブ感覚をやしなうために演奏するようなところらしい。
「すごく酔ったお客さんにからまれたことがあって……それで演奏するのが怖くなってしまったんです」
つまり、彼女の意思で出演しなくなった。
「その人の名前はわかりますか?」
「たしか……田所さんといったはずです」
「田所さんとは、個人的なつきあいがありましたか?」
田所、という名前を思い出す速度から考えると、深い関係ではないだろう。
「いえ……とくには……」
「言い寄られたとか、好意をもたれたとか、そういうのはありましたか?」
「そんなことはなかったですけど……」
普通に推理すれば、一方的に好意をもってストーカー行為をおこなうようになった。
「王海さん?」
少し考え込んでしまったから、峰岸に声をかけられた。
「こっちのほうは、単純な事件ですよね?」
念を押すように、峰岸は言った。そうであってほしいようだ。
「本人に会って確かめるしかない」
そして沢口茜はピアノ教室にもどり、世良と峰岸は一旦、事務所へもどった。
警察を呼んで事件化することも進言したが、とりあえず自分たちに一任してくれるということだった。
本来なら仕事などしている心理状態ではないはずだが、不安と恐怖をかき消す意味でも働くことを選んだのだろう。部屋にいたくないという思いもあるのだ。
世良にできることは、すくなくとも田所という男のストーカー行為だけでも解決してあげなくてはならない。
「王海さん……」
田所の働くダイニングバーに向かっている途中だった。事務所でバーの住所を確認していた。
声のトーンから、運転席の峰岸には不満があるようだ。
「どうして茜ちゃんに、あのことを確かめなかったんですか?」
あのこと──とは、中国国家安全部の女がさがしているという「なにか」についてだろう。
「それは、もうわかってるんだ」
「え?」
彼女が兄から受け取っているかもしれない物。
「なんですか?」
「いまは、おれの手元にある」
「それって……」
そうだ。例のCDだ。
「でも、なにもなかったですよね? ただの音楽CDだったじゃないですか」
「ああ。だが、なにかが隠されてるんだろう」
だからこそ、兄の部屋を荒らした犯人もみつけられなかった。
「そう考えたから、あのCDをあずかったんですか?」
「少し違和感があった」
「違和感?」
「ちょっと、調べたいことがね」
そんな会話をしているうちに、目的地についた。浜松町にある『ムーンウォーター』という店だ。
「ここなら停められそうです」
車を降りて店に向かう。
二十秒歩いたあと、峰岸が扉を開けた。
夜だけの店ならば、まだ営業前のはずだ。が、BGMが流れているから、すくなくても夕方には開店しているようだ。
食器の音、咀嚼の音、それらから割り出すと、客は四,五人といったところだ。足音からフロアの店員は二名。厨房の音もするが、さすがにシェフの人数まではわからない。
「あの、田所さんはいらっしゃいますか?」
店員に話しかけた。香水の匂いから、若い女性と判断した。
「田所さんは、夜にならないと……」
戸惑ったような声が返ってきた。
「何時ごろですか?」
「七時からです。あの……」
こちらの身元を確認したいようだ。なんと答えようか、そう考えているときだった。
店内に二人の気配がなだれ込んできた。客でないことは、足音だけでもあきらかだ。
「王海さん……」
峰岸の眼にも、異質に映っているようだ。
「こちらに、田所雅史さんという方が勤められてますよね?」
横柄な口調で、一人が話しかけていた。声の印象では四十歳前後の男性で、世良と会話していたのとはべつの店員に訊いていた。
「こういう者です」
おくれて、身分を証明したようだ。
「警察手帳です」
峰岸の補足がなくても、想像はついていた。
「田所さん……ですか?」
どうやら警察官に訊かれた店員が、世良に応対していた店員の顔を見たらしい。場の空気が複雑なものになった。
「ん? あなたたちは?」
彼らの矛先が、世良に移った。客でないことが、刑事たちにもわかったのだ。
「田所さんをさがしています」
世良は、正直に答えた。
「どういった関係ですか?」
「私は、探偵をしています。田所さんは、依頼人の女性の部屋に侵入した疑いがあります」
見えないのがもどかしい。刑事がどのような表情になっているのか……。
普通は探偵と聞くと、うさん臭く思う。警察官であっても、それは同じだ。テレビに出ているような由緒正しい探偵事務所は例外的で、大半はブラックな人間が食いぶちに困ってやる仕事だ。
「探偵ですか……」
値踏みするような視線で観察されているのだろう。警察官が退職後に探偵事務所をひらくこともあるから、警官と探偵はそれなりに近い関係ともいえる。
が、その場合の退職は、ほとんどが早期退職であり、へたをすると不祥事で懲戒免職になっている人間かもしれない。ちゃんと定年をむかえた警察官なら、再就職先は警備会社になる。
「お名前は?」
「世良といいます」
「世良さんは、田所雅史さんと面識はありますか?」
「いえ。会ったことはありません」
「女性の部屋に侵入したと言われましたが、その依頼人の女性は、どういった方ですか?」
世良は一瞬、考えた。
守秘義務は探偵として大事なことではあるが、被害者である沢口茜の名前を出しても問題はないはずだ。だがそのためには、一つ確かめておかなければならないことがある。
「田所さんは、どうかされたんですか?」
刑事が職場に来るということは、別件で逮捕されたか、事件に巻き込まれたか、そのどちらかだ。
ためらったような間が数秒あいてから、刑事は答えた。
「……田所雅史さんは、さきほど遺体で発見されたました」