3
3.4日午後4時
世良は、監視していると思わる人物へ近づいた。
ふいの足音。
世良が近づいたので、その場を離れていくつもりだ。歩く速度は、やや速めだった。
一つの可能性としては、世良の眼のことを知らない。眼が見えないことを知っていれば、油断してゆっくり逃げようとするだろう。
逆によく知っていることも考えられる。なぜなら、実際には速く歩けるからだ。もちろん土地勘のない場所では無理だが、ここはそれこそホームグラウンドだ。しかしそれなら、不用意に事務所の外にはいないはず……。
やはり自分への監視ではなく、彼女──沢口茜を見張っていたのだ。世良は、そう結論づけた。
事務所は、地下鉄の駅から国道四号線を渡ったさきの雑居ビルにある。四号線のむこうはにぎわっているが、こちらはそれほど人通りはない。監視者は、予想どおり四号線に向かっていた。じょじょに足音が増えていく。
この人物の足音だけに集中する。
一つわかったことがある。もちろん見えない以上、あくまでも推論でしかないが。
人物の外見だ。
もし沢口茜の兄の件が絡んでいるのなら、外国人である可能性を疑うべきだった。が、いま逃走している人物は、すくなくとも外国人の容貌ではないと考えられる。
なぜなら、すれちがう人々の足が過剰に反応していない。白人にしろ、黒人にろ、あきらかな他人種が早足で近づいてきたら、普通は驚いて距離をとろうとするだろう。峰岸もそのことについては、なにもふれていなかった。
日本人、もしくはアジア系と世良は予想をたてた。
駅へ通じる横断歩道が近づいているはずだった。足音はあまりせず、車の音がうるさいから、歩道の信号は赤のようだ。
監視者は立ち止まらず、四号線沿いに進むことにしたようだ。
すぐに曲がった。路地を逃げるつもりだ。足が速くなっている。完全に走り出されたら、いくらなんでも追いつけない。
しかし、速度が上がることはなかった。すぐに世良は、監視者の思惑を察した。路地の奥に誘い込んでいるのだ。
世良は、足を止めた。さすがに一人で飛び込むのは危険と判断した。
そのときだった。想定外の方角から、気配がわきたった。
「!」
世良は、身構えた。
「どうしたのだ? 難しい局面に立たされているような顔をしているぞ」
知っている声だった。
「どうして、あなたが?」
坂本──もちろん、本名ではない。
公安部時代の上司であり、現在でも公安に属する男だ。
「ふふ、よく立ち止まったな。そのまま進んでいたら、おまえの命はそこまでだった」
未解決誘拐事件のときに、坂本とは再会している。そのときは世良のほうから面会を望んだのだが、いまはこの男のほうからやって来た……。
なにかある。
「あれは、何者ですか?」
「教えると思うのか?」
「それならば、なぜ出てきたんですか?」
「むかしのよしみだ。むざむざ死なせるのもしのびない」
心にも思っていないだろうことは、声音から分析するまでもない。
「どっちを見張ってたんですか?」
自分か、いまの監視者か……。
(いや、おれじゃない)
世良は、すぐにそう考えた。前回のことで自身にも公安の監視がついていることは予想できるが、この坂本の登場はそれとはちがう。
いまの人物を公安は監視していた。
(それとも……)
彼女のほうだろうか?
沢口茜……いや、それはないだろう。公安が興味をもつような活動をしているとは思えない。事故死した兄が関係していることもありえるが、やはり普通に考えれば、いまの人物だ。おそらく、国外の諜報員。
「国はどこですか?」
「なんのことだね?」
「だぶん、姿は東洋系ですね?」
とぼける坂本を無視して、世良は自論を展開した。
「ほう。で?」
「あなたたちが興味を抱くのなら、中国ですか?」
もう一ヵ国あるが、北ならば、坂本もこんなに悠長にはしていないだろう。
「……国家安全部だとして、なにをしに来ているのだと思う?」
だんだんと禅問答になってきた。
世良もバカではない。誘拐事件のときのように、この男は自分を利用しようとしている。そうでなければ、たとえ世良に危険がおよんでいようと、あっさり見殺しにする。
「ふふ、そう勘繰るなよ。私も驚いてるんだ。おまえとこうして会えるなんて」
「それで、おれになにをさせたいんですか?」
「そんな他意はもっていない。だが、カシだとは思ってもらいたいものだ」
「……」
彼らは、自らの思惑を明確に語ることはない。曖昧に表現しておいて、論点を巧みにぼかす。そして、なにげない会話のやりとりで、相手を意のままに操ろうとするのだ。
「いまは、このまま事務所にもどることだな。むかしの部下が危険にさらされるのは、上司として見ていられない」
坂本が遠のいていく。
いまの言葉にも裏がある。
事務所に帰ったほうがいい……それは、このさきに進んだほうがいい、そう言っているようなものだ。
が、それは彼らの願望であり、世良にとっはて逆が正解ともいえる。では、おとなしくもどったほういいことになる。
しかし、その結論を出すことは坂本もわかっているだろう。
では、裏の裏だ。彼らは、このまま本当に帰ってもらいたい……ということは、進んだほうが世良にとってはプラスになる。
「ちがうな……」
世良は、方向を変えた。
こうやって惑わされている段階で、彼らの思うつぼなのだ。
そういうときは、自身の勘に頼るしかない。
世良は、事務所にもどった。
峰岸から連絡がきたのは、それから三十分後だった。無事に沢口茜を自宅まで送り届けたという報告だ。峰岸には、ついでに周囲の状況を確認してもらうようにお願いした。
連絡からさらに一時間経過したころに、峰岸がもどってきた。
「王海さんのほうは、どうでしたか?」
「まあ、いろいろとね……」
監視者が路地に逃げ込んだこと。坂本という名前は出さなかったが、公安の人間と会ったことを伝えた。峰岸には坂本との面会場所までつれていってもらったことはあるが、坂本との面識はない。彼を、公安との暗闘に巻き込むわけにはいかなかった。
「じゃあ、また公安と関係するんですか?」
峰岸の声音からは、怖さというより、好奇心のほうが勝っているような明るさがあった。色で表現するなら、光に照らされたレモン色といったところだ。
「どうだろうね……」
「結局、ここを見張ってた人物の正体はわからないんですよね?」
世良は、うなずいた。
中国の国家安全部であるという可能性は、いまのこの段階では口にすべきでない。坂本が、そう思わせたいがために、ああいう返答をしたかもしれないからだ。
しかし、その予想にまちがいはないだろう。
では、なぜ中国が絡んでくるのか?
「茜ちゃんを見張ってたんですかね? それとも、王海さん?」
「彼女のほうだと思う」
「でも、なんで……」
彼女はピアノ教室の先生であり、外国の諜報員が興味をしめすようなことはないだろう。
「まさか、お兄さんの事故と関係があるんですか?」
むしろ、それしかない。
もちろん、知らないうちに見てはいけないものを目撃した、そういうことだってあるだろう。しかし現在知る材料では、兄の事故と関連していると考えるべきだ。
「どうするんですか、王海さん?」
「まずは本来の依頼どおり、ストーカーを特定しよう」
見えなくても、峰岸が納得できない表情をしているのがわかった。
彼のなかでは、すでにストーカーはどこかの諜報機関ということで結論が出ているようだ。世良は決めつけていない。とくに公安の姿が垣間見えた以上、いろいろなことを想定しておかなければならない。
いざ蓋を開けてみれば、本当にただのストーカー事案だった、ということだってあるかもしれない。公安は普段からこの事務所を監視していて、意味ありげに坂本が口を出したのも、たんに撹乱するためか、ただの嫌がらせかもしれないのだ。
翌日の午前十時に、世良と峰岸は沢口茜の住むアパートで張り込みをしていた。
茜本人は、仕事で部屋にはいない。アパートから50メートルは離れているはずだ。眼をつかった張り込みでは遠すぎるのだろうが、世良が使うの耳だ。
ワンボックスカーの後部には、峰岸が選び抜いた音響機材が並んでいる。残念なことに世良が峰岸に会ったのは眼を潰されてからだから、そういう機器類を目視したことはない。見えていたころは音響機材などに興味はなかったから、どのメーカーのどの機種だと教えられても、よくわからないのだが。
すでに沢口茜のアパート周辺には、峰岸がマイクを仕掛けている。さらにこの車から収音マイクで音をひろっている。
世良は、スピーカーから流れてくるそれらの音に集中していた。
気になる足音があった。
目的地が定まっていない──そんな靴音がする。いや、どこかには向かっているのだが、まっすぐ向かってはいない。周囲を警戒しながら歩いている可能性がある。
その人物が、アパートの階段を上がった。
彼女の部屋の前に仕掛けてあるマイクが、その足音をとらえている。立ち止まった。ドアノブを回す。カチャ、という鍵のかかっている音。
しばらく静寂が続き、ノブを回す音よりも小さな、カチカチという音が続いた。三十秒ほどしたときに、鍵が解除された。ピッキングで開けたようだ。
さすがに室内には仕掛けていないが、それでも部屋の前のマイクでおおよそのことはわかる。部屋を物色しているような大きな音はしていない。
扉が開いた。
侵入者が引き上げていく。
「王海さん、どうしますか?」
峰岸も一連の音を聞いている。音響の専門家ではあるが、世良ほどに耳がいいわけではない。それでも、いまの音ぐらいならよく聞こえていたはずだ。
「追いますか?」
「ああ」
峰岸が運転席に移り、エンジンをかけた。
世良はそのときになっても、収音マイクからの音に耳をかたむけていた。
「待って!」
世良は、峰岸がアクセルを踏み込もうとしたのを制止した。
「王海さん?」
アパートに近づく足音がある。聞き覚えのある音だった。
「だれかが入っていく」
「どうしますか?」
彼女の部屋に侵入した人物を追うべきか、それとも新たなる接近者をマークするか……。
「待とう」
一人一人の足音はちがうものだ。しかし、所詮は足音でしかない。似ている足音同士は聞き分けづらく、絶対に同じものだとは断言できない。
つまりこの足音が、例の監視者(中国国家安全部?)のものだとは、断定できないということになる。
が、それでも似た足音の主が、彼女の周辺に現れたのも事実だ。偶然とかたづけるわけにもいかない。
階段を上がり、さきほどの侵入者と同じように彼女の部屋で立ち止まった。
「ん?」
しばらく無音が続いたと思ったら、ガシャ、という雑音が世良の耳を襲った。
マイクを壊されたのだ。
峰岸もこういう活動には慣れているから、すぐにみつかるようには仕掛けていないはずだ。
やはりこの人物が、昨日の監視者とみてまちがいないだろう。
「行こう」
世良は、ワゴン車のスライドドアを開けた。
次いで、峰岸も車外に出る。
事前に周囲の状況を確認しているが、はじめての土地では介助者がいなければ移動はできない。
とはいえ、世良が先頭に立っていた。峰岸は、歩行に困難な障害物があるときにだけ助言してくれる。なにも伝えてこないということは、前方にはなにもないということだ。
「10メートル先、右。アパートの出入り口です」
世良は、もう2メートル進むと立ち止まった。峰岸には隠れてもらって、できれば第二の侵入者の画像を撮ってもらうつもりだ。
まだアパートの敷地からは出ていないはずだ。そのためには、マイクを壊してからすぐに逃げていなければならない。周辺に仕掛けてあるマイクからはなにも聞こえなかったから、逃げているとしたら、世良が車外に出てからになる。その場合、峰岸の視界には入っているはずだし、マイクを通さなくても、足音が世良の耳にも届いてくる。
まだ出てきていない。
マイクに気づいたのなら、彼女の部屋のなかに侵入することもないだろう。
そのとき、シュッと布が擦れるような音がした。
アスファルトに着地する。
何者かは、その後、動かなかった。おそらく、こちらを見ている。
「グゥオヂィアアンチュアンブゥ」
世良は呼びかけた。
国家安全部と直訳したのだ。あくまでも「国家」「安全」「部」をそれぞれ中国語にしただけなので、本当に『国家安全部』のことをそう発音するのかわからない。だが、意味は理解できるはずだ。
「……ヘタな発音だ」
少しの沈黙のあと、何者かの声が答えた。
流暢な日本語……。
しかし、いまのが中国語だとわかったのなら、読みどおりの素性でまちがいないだろう。
が、世良は意外さを隠しきれなかった。
声は、女性のものだった。
昨日、峰岸はこの人物のことを目撃しているはずだが、女性とはまったく思っていないようだった。ということは、男装している──そこまでいかなくても、女性らしさを隠している……。
足音でも性別の判断はできなくないが、女性でも男のような歩き方をする人間はいるし、その逆もある。体重にしても、軽い男もいれば、重い女性もいる。
つまりは、世良の抱いていた人物像が完全にはずれていたということだ。
「世良王海だな?」
「おれのことを知っているのか?」
「昨日までは知らなかった。あれがおまえの事務所だとは……」
声は女だが、しゃべり方は男のようだった。
「だが以前から、噂だけは聞いていた」
「噂?」
「ある人物に狙われて、ただ一人、生き残った男だということはな」
「……」
どうやら《U》のことを言っているらしい。
「おい、そこに隠れている男も出てくるんだ。わたしを撮影していることはわかっている」
遅れて、峰岸が物陰から移動したのが気配でわかった。
「なぜ、彼女につきまとっている?」
「彼女? だれのことだ?」
世良は、その誘いには乗らなかった。沢口茜の名前を知らないということは考えられないが、可能性としてその名を引き出すためにとぼけていることもありうる。
「ふふ。さすがに、一筋縄ではいきそうにないな」
女はそうつぶやくと、一歩踏み出した。
世良は警戒感を強めたが、動くことはしなかった。
「わたしとしても、あえて敵をつくろうとは思っていない。こちらの情報を教える。おまえには協力してもらいたい」
到底、信じられるわけもなかった。
「国家安全部と?」
「わたしは、まだそれを認めていない」
「ならば、出直せ。身分を偽っている人間と協力はできない」
「……わかった。そういうことにしておこう。ここではなんだ。場所を移動したい」
「おれは眼が見えない。そちらの用意した場所なら断る」
「そっちの指定でいい。ワゴン車で来てるだろう。これからそれで移動すれば、わたしは仲間とも連絡をとる隙はない」
世良はうなずいた。
こうして、国家安全部の女と話し合うことになった。