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26.日曜日午後2時
王手だったはずなのに、待ったをかけられた……。
おれは、はるばるこんなところまで来てしまった。
麻衣に別れを告げることもなく、あれからすぐに日本を出た。ここまでたどりつくのには、いくつかのステップがあった。
《店員》に襲われたときに、マネキンの口に入っていた鍵は、新宿駅周辺のコインロッカーのものだった。マネキンの額には、そのロッカーの番号と場所が記されていたのだ。
てっきり、そのなかに報酬が入っていると思ったのだが……世の中は──いや、裏の世界は甘くはなかった。
ロッカーのなかには、暗号のような数字が書かれた紙だけが入っていたのだ。おれはまた面倒にもそれを解いたわけだが、そこの部分は割愛する。
それによると、成田空港のロッカーに行けという指示と、それを開けるための暗証番号が隠されていた。
そして、空港で新たなる暗号をうけとった。それを解いた部分も省略するが、とにかく飛行機に乗ってベルギーに飛べということだった。
まわりくどい。
空港のロッカーには、パスポートもいっしょに入っていた。日本のものではなく、中国の外交官用のものらしい。貼られていた写真は、似ても似つかない別人のものだった。
おれの顔を知らないのだから、それも当然だ。写真の人物に変装しなければならない。そういう技術も、プロのうちだ。いつもよりも手間取ったが、完璧に化けた。
外交官パスポートだから、あやしまれることもなく出国できた。ブリュッセル国際空港──ザベンテム空港ともいうらしいが、どちらが正式名称なのかは知らない。
じつは、パスポートのなかにも暗号のようなものが隠されていた。
それも解いてみたら、ZUIDEN、という文字と、いくつかの数字が浮かび上がった。調べてみたら、オランダ語で「南」を意味する単語だった。ベルギーの公用語であるフラマン語については詳しくないが、たしかフラマン語とオランダ語は、ほぼ同じ言語であるはずだ。ならば、ベルギーの言葉でも「南」ということになるだろう。
おれはそこでピンときた。このブリュッセルには鉄道の駅が三つある。北と中央と南──これまでの流れからいけば、まちがいなくブリュッセル南駅のことだ。番号は、そこのコインロッカーの場所と暗証番号をあらわしているはずだ。
おれは該当するロッカーをみつけ、その前に立った。
まったく期待していない。また、どこかのヒントが入っているにきまってる。こうして、永遠にお宝にはありつけないのだ。
「ん?」
これまでとは、おもむきがちがっているようだ。
USBメモリー?
それから一枚のメモ。暗号ではなく、日本語で書かれていた。
『ここがゴールよ』
おまけにキスマークもつけられていた。
それを信じるならば、これが報酬だ。
キスマーク自体が報酬だとしたら、シャレにもならない。
「これか……」
このUSBメモリーが報酬……。
なかには、なにが入っている?
これをパソコンに挿せば、銀行のサーバに侵入できて、口座に金が振り込まれるとか?
それとも、なにかの重要な機密情報?
「そうか」
今回の一連の流れを読み解けば、答えはすぐに出た。
これが、ワクチンのデータなのだ。
「それにしてもおかしいな」
その情報は、世良のもとにあったはずだ。ということは、世良がしゃべったということだ。
それが腑に落ちない。
あの男が、そんなことをするだろうか?
いや、したかもしれない。しかしその場合、この情報に意味がないとわかっていたからだ。
つまり、こういうことだ。やつらは、これのありかを最初から知っていた。世良が情報をどうしようと関係なかった。
たぶん国家安全部やアメリカ側の組織は、本気でそれを知りたかった。しかし、それらを操っていた二重スパイの女は、その情報をつかって世界をもてあそんだ。
《黙示録》とかいうやつらの、目的も感性もわからない。
わかりたくもない……。
さて──。
これが報酬だとして、これをどうするか?
金に変えなくてはならないが、おれがワクチンをつくって売り出すわけにもいかない。金にするためには、これをどこかに売り渡すしかない。
そうそう、昨日から不穏なニュースが世界を駆けめぐっていたのだ。
中国のとある地域で、原因不明の感染症が発生していると。
これか……そう思った。
WHОが調査員を派遣しようと動きはじめたのだが、中国は公式にその噂を否定していた。
そうなるとWHОは、及び腰になるはずだ。いまあの組織は、チャイナーマネーに染まっている。
もし未知のウイルスによるものなら、このワクチンがなければ、世界はヤバいことになるかもしれない。
とんだ報酬をくれたものだ。
ブリュッセル南駅は、ユーロスターをはじめとするヨーロッパ各地に向かう高速列車の出発地でもある。
「……」
おれは、選択を迫られた。
ユーロスターの行きつく先は、ロンドンの『セント・パンクラス駅』だ。イギリスには、世界的に有名な製薬会社がある。
もしくは高速鉄道タリスに乗れば、パリに行けたはずだ。フランスにも同じような規模の製薬会社ある。
たしかスイスにも大きい会社があった。ドイツを経由すれば列車で行けるはずだ。
イギリスか、フランスか、スイスか?
おれは気の向くまま、列車に乗り込んだ。
エピローグ
「ひどくないですか? ずっと姿をあらわさないなんて」
麻衣が憤慨していた。
最近、よく事務所に顔を出す。あれから三週間ほどが経っていた。世良は、のんびりと彼女の愚痴を耳にしている。
「たぶん、日本を出たんだよ」
つまりそれは、やつにとっての事件も終わったということだ。
「それなら、なおさらです! 別れの挨拶もないなんて」
『新型ウイルスは──』
ラジオをつけっぱなしにしていたが、彼女との会話に気をつかって、ラジオに近づく峰岸の足音が響いた。
「あ、このニュース」
麻衣が注目──注耳したので、峰岸はもといた位置にもどっていく。
『ヨーロッパでも、感染者が急増していると──』
未知のウイルスによる感染症が中国から流行し、欧州でも猛威をふるっていた。死亡率は高くないが、いまのところ治療薬はなく、基礎疾患のある人々の死亡が目立っていた。
「これ……なんですかね?」
「どうだろうね」
中国。
これまでに発見されていないウイルス。
それらを合わせて考えれば、ほぼまちがいないということになる。しかし《黙示録》の語っていた内容が、どこまで本当のことだったのか……。
あれは全部嘘で、このニュースになっている騒動は、ただの偶然という可能性も捨てきれない。
「これのことだとしたら、ちゃんとワクチンはあるんですよね?」
これについても、同じことが言える。
「だといいんだけど……」
もし最悪のケースが待っていたとしても、このウイルスで人類が絶滅するとは、さすがに考えていなかった。それは楽観しすぎだろうか?
『すでにアメリカの製薬会社フェザーとモデルスが、ワクチンの臨床実験をはじめていると──』
ほかにも中国とロシアが、ワクチン開発の最終段階にきていると報道されている。
はやすぎる対応だ。しかも、その三か国には今回のことでおぼえがある。《黙示録》から得た情報を活用したのだろうか。
『イギリスのアストラル社も、ワクチンの開発を順調にすすめていると──』
英国?
世良の巻き込まれた今回の件には出てきていない国家だ。アメリカとイギリスは同胞ともいえる関係だが、巨額の利益を分配するような博愛精神は、米国にはない。
では、これも《黙示録》が?
(ちがうな……)
世良は、漠然と思った。
なにか、べつの動きがあったのだ。
もちろん、その真相までわかるはずもないが……。
ラジオのニュースは、ほかの項目に移ってゆく。
『ロシアが軍備を増強し、隣国へ──』
次のニュースには関心がないのか、麻衣は愚痴を再開した。
「普通、なにか一言ぐらいは──」
それを聞き流しながら、このニュースのことを脳内で精査していた。
ロシアの不穏な動きは、坂本から聞いていた。本当に21世紀にもなって、大国が戦争を仕掛けるのだろうか?
やはりリアリティがない。しかし世の動きとは、そのようなものかもしれない。
だとすれば、考えてもムダか……。
「まあ案外、お土産でも送ってくるかもしれないよ」
「なんですか、それ?」
適当なことを言ってしまった。だがやつなら、なにを仕掛けてくるか想像できない。
これから世界がどのように動いていくかも未知数だ。
未曽有の危機か、戦乱の世か?
「おじゃましますね」
華やいだ声がした。さゆりの声だった。
「あら、たしか……麻衣さんだったわね」
「あ、さゆりさんでしたよね?」
二人は、前回の事件で面識がある。ただし会話する機会は、ほぼなかったはずだ。
「郵便受けにこれが入っていましたよ。勝手にもってきちゃったけど、いいですよね」
「ありがとうございます」
峰岸が礼を言った。
「なんだろ。外国からの郵便ですね」
封を開けている。
「英語で書かれてます……うーん、麻衣さん、読める?」
現役の大学生だから英語ができると考えたのだろう。
「わたしは、受験英語しかできません」
「かしてみて」
さゆりが受け取ったようだ。彼女の語学力については、世良は知らない。
「これ、有価証券の証明書みたい。あれ?」
「どうしたの?」
不思議そうな声に、世良は問いかけた。
「宛先は、この事務所になってたはずだけど……この証明書の名義は、麻衣さんみたい」
「え?」
麻衣が、素っ頓狂な声をあげた。
「えーと、アストラル社というところの株券みたいね」
アストラル社といえば、いまラジオで報じていたばかりだ。
「製薬会社の株券ということですよね?」
峰岸も、困惑の声音だ。
「王海さん……」
「これがお土産かもね」
「じゃあ……」
麻衣への謝礼だろう。
「いくらぐらいになるんですか?」
その質問には答えられない。株の取引には興味がなかった。
「ワクチンを開発した会社なら、かなり値段が上がるんじゃないですか?」
峰岸の言葉に、麻衣の呼吸数が増えた。
「え!? すごい金持ちになったりして?」
「それはどうかしら。100株だって。全部売っても、それほどのお金にはならないわね」
「なんだぁ……」
残念そうな麻衣の声が響き渡る。
「でも、女子大生のお小遣いにはなるんじゃないかしら」
「え? なに買っちゃおう」
すぐに頭を切り替えた麻衣は、いまから使い道を模索している。
と、冷静をよそおうように深呼吸した。
「使っちゃっていいですかね?」
これが《U》からのものなら、犯罪にからんでいるかもしれないと麻衣は心配しているのだ。
「いいと思うよ」
世良は言った。
大金でないのなら、問題にすべきではない。きっとこれに関しては、殺しで得た報酬とは無縁のものだろう。
「じゃあ、遠慮なく!」
* * *
ノストラダムスの予言は当たっていた──。
電話の声は、挨拶よりもまえに、そのことを告げた。
「なつかしいですな」
いまの若い世代は、その名前自体も知らないだろう。
かつて世紀末の予言をした人物だ。いや、正確には後世の研究家が、そういう解釈をしたというだけにすぎない。
『ご無沙汰しています。電話で失礼しますよ』
「お久しぶりですな。もう何年になるでしょうか?」
そこでようやく、挨拶を交わしあった。
『おたがい歳をとったということでしょう』
「ふふふ」
『なんとお呼びしましょうか? 最後にお会いしたときは、《かかし》と名乗っていましたが』
「まだ、その名で活動していますよ」
二人の会話は、そこで数秒間の沈黙をはさんだ。
『今回の配慮には、とても感謝しています。われら一同、お礼を言わせてください』
「ですが、なぜ彼らに協力を? 《黙示録》と呼ぶそうですが」
『協力というのとはちがいます』
「そちらものほうも、しがらみ、ですか?」
『そういうことにしておいてください』
電話の声には、楽しげな響きがこもっていた。
『われわれの秘密も守ってくれているようで、そのことについても感謝させてください』
「いえ、それは当然のこと」
『しかし、いまあなたは《機関》の人間ではないでしょう?』
「《機関》ですか……あのころのことは、遠い遠いむかしの話ですよ」
『それにしても、あなたの気にかけている人物が、二人も同時にあらわれるとは』
「世界が、変わるかもしれませんな」
『この世界には、がん細胞がいたるところに発生しています』
「さしあたりの恐怖は、氷原の独裁者ですかな?」
『当初のレポートでは、日本の北海道が狙われていました』
「それを、あなた方が変えたのですね?」
『方向性を正したにすぎません。悲劇は、悲劇ですがね』
その言葉には、深い感情がこめられていた。
「恐ろしいことだ……そこまでおかしくなっているとは」
そこで、最初の会話にもどった。
『ノストラダムスの予言は、やはり当たっていたのです』
1999年7月に火星から恐怖の大王がふってくる──たしか、そのような内容だった。研究家は、それを核戦争で人類が絶滅すると解釈した。
しかし、それがはずれたことは歴史が証明している。
『いまの大統領が副首相に任命されたのが、1999年8月です。同時に首相が辞任していますから、そのまま副首相から首相にあがっている。つまり政治の表舞台に立ったのが、1999年の8月です』
「そういうことになりますか」
『ノストラダムスのころは旧暦が使われていたはずですから、7月はいまの8月ごろと仮定ができます』
「なるほど。恐怖の大王は、核爆弾ではなく、あの国の大統領だったというわけですか」
『そうです。あの大統領……正常な判断は、とてもではないが期待できない』
「深刻な状況ですな……」
『どこかのだれかが排除してくれまいか、と理想を嘆いているところですよ』
「それは、あなた方でも?」
『難しいですね。ご助言いただけるとありがたいのですが』
「このおいぼれでは、力になれませんよ」
『さきほど話に出た二名については?』
「ほほほ、どこまでが冗談なのか──」
冗談などではないと、《かかし》にはわかっていた。
「一人は、無理ですな。そういう依頼は、絶対に受けない」
『では、もう一人のほうは?』
「ふふふ」
笑うだけにとどめておいた。
『世界を混乱から救わなければならない』
「なるほど……あなた方の出番というわけですか。サンタ・アリアンザ──よもや本当に存在しているとは、人々は信じないでしょうね」
『われわれは、法王の意思のもとに』
「さて、これからなにがおこるのやら」
そのことを思うと、怖さと興奮がある。
『世界に安定と調和を……』
わが、バチカンの名にかけて──。
はじめての続編になります。もっと簡単に書けるかと思ってましたけど、それなりに難しかった。今回、かなりスケールが大きくなってしまったので、次回はもっとミステリー寄りにしたいなぁと考えております。




