25
25.8日午前1時
その夜は、念のため三人で事務所に泊まった。
何事もなく朝になり、世良はこの事件に遭遇する理由にもなった沢口茜のアパートへ向かうことにした。
「ダメです。携帯には出ません」
時刻は八時になっていた。普段ならまだ家にいる時間なのは、事前に聞き取っている。周辺についてから、峰岸が連絡を入れたのだ。
「とにかく、部屋へ行こう」
アパートの前に車を停めて、三人で向かった。先頭は桐野で、次に峰岸、世良が後方についた。
階段を上がる。
桐野がノックをした。応答はない。
「……留守か?」
「鍵は?」
桐野がノブを回して確かめた。
「あいてる……」
峰岸の唾を飲み込む音がした。
「入るぞ」
扉を開いた。
「なんだ、これは……」
呆然とした桐野の声がした。
その反響で、おおよそのことがわかった。
「本当に、ここなのか?」
桐野は、彼女の部屋を訪れたことがない。
「……王海さん」
峰岸の声も、似たようなものだった。
「なんにもありません……」
部屋は、もぬけのからになっているようだ。
「おい、あんたたちは!?」
背後から、驚いたような声がした。おそらく、アパートの大家だろう。
「警察です。この部屋を借りていた沢口さんは、どうされましたか?」
桐野が応対する。
「け、警察ですか!?」
連続で驚くことになったようだ。
「沢口さんは?」
桐野が繰り返した。
「いやね、急に引っ越すことになったって」
「昨日ですか?」
「そうです。いくらなんでも、急すぎるでしょ? 夜逃げでも、もうちょっと時間がかかるんじゃないですかねぇ」
最後のほうは、場をなごませるために冗談を言ったようだ。
「沢口さん、なにかあったんですか?」
「あの、」
大家の質問を無視して、世良は問いかけた。
「彼女から、ストーカーのことで相談をうけませんでしたか?」
「ストーカー?」
素直に驚いている。
「そうなんですか? だから引っ越したんですか?」
相談してくれればよかったのに──小さく大家はつぶやいた。
「このなか、一応、見て回ってもいいですか?」
「いいですよ。でもごらんのとおり、もうなにもないですけど」
終わったら声をかけます、と桐野が話すと、大家は行ってしまった。
「沢口茜という女性は、峰岸君の後輩なんだろ? なんの連絡もなかったのか?」
「はい……」
意気消沈したように、峰岸は答えた。相談もなしに引っ越してしまったことに落胆している。
「意外そうな顔じゃないな?」
ふと桐野に話をふられた。
「そんなことはない……なにか、書き置きのようなものは?」
「なんにもない」
「あ!」
峰岸が、なにかをみつけたようだ。
「これ」
本当にあったらしい。
「なにもない部屋の中央に、ポツンと置かれていた」
桐野が状況を説明してくれた。いつもは峰岸の役目なのだが、文面に眼を通しているのか、それどころではないようだ。
「なんて書いてある?」
桐野が、せかすようにたずねた。
「そのままです……引っ越します、と」
「その紙を貸してくれないか?」
きっと二人は、不思議な顔をしているだろう。
「どうぞ」
数瞬後、手渡された。ハガキぐらいのサイズだった。
「ありがとう」
世良は、すぐにそれを返した。
「これから、どうするんだ? もともと、沢口茜さんから依頼を受けたことが発端なんだろ? まさか、これも陰謀で、沢口さんが拉致されたなんてことはないよな?」
「それはないと思う。秘密は、もうバラしたんだ」
「じゃあ、これはただの引っ越しか?」
世良は、ゆっくりとうなずいた。
「もどろう」
「いいのか?」
「むこうから連絡があるかもしれない」
釈然としていない桐野と峰岸の背中を押すように、アパートから出た。事務所へもどると、夕方までなにもせずにすごした。
「峰岸君、今日はもういいよ」
「はい……お疲れ様です」
彼らしくない元気のない返事をして、帰っていった。沢口茜に恋心のようなものがあるはずだ。
「おまえは、まだいるのか?」
結局、警視庁へ出勤することもなく、桐野も事務所にとどまっていた。
「おまえのほうこそ、いつまでいる気だ?」
「なに言ってんだ。まだ事件は終わってないんだろ?」
やはり桐野は勘づいていた。
「あの書き置きに、なにか仕込まれてたな?」
「ああ」
世良は認めた。
「そういうことだと思った……峰岸君に気をつかったんだな?」
「……」
それには返事をしなかった。
「で、どんな仕掛けがあった?」
「いまから言う場所に連れてってくれ」
まだ陽は暮れていないはずだ。
世良の姿は、新宿駅のホームにあった。あの置手紙には、点字が仕込まれていた。指定されていたのは、ここだ。
山手線のホームにいるが、細かいことまでは刻まれていなかった。だから適当に立っていれば、むこうのほうから近づいてくるだろう。
桐野には、構内の喫茶店で待機してもらっている。当然、反対されたが、一人でなければ、むこうは姿をあらわさない。
この時間、新宿駅は混雑していた。といっても、帰宅ラッシュはまだはじまっていないから、それでもマシなほうだ。そもそもこの駅に、混雑してない時間などないのだろうが。
いくつも重なり合う靴音のなかで、こちらに近づいてくるものがあった。か細くて、軽い。
「来ましたか」
世良のほうから声をかけた。
「はい」
女性の声が応じた。
「答え合わせは、あなたがしてくれるんですか?」
「世良さんの求めている答えなのかわかりませんけど……」
沢口茜は、つぶやくような小さい声量で続けた。この雑踏のなかでも、世良になら聞こえる。
「なにから話してくれるのかな?」
「兄のことを……」
彼女は、そのままの声量で語りはじめた。
「兄は音楽活動のために、副業をしていました……」
その副業がまともな仕事でなかったのだということが、いまならばわかる。
「ヨーロッパ各地を移動することが多かったですから、それを利用して荷物を運んでいたようです」
世良はなんの言葉もはさまずに、続きを待った。
「もうおわかりですよね? 兄は、とある国の諜報機関に協力していました。日本人は疑われませんから……」
中国。
「そんな兄に、警告をした組織がありました。どこだかわかりますか?」
「……」
すくなくとも、みなに周知されているような組織ではないだろう。たとえば、中国と敵対する国の諜報組織ならば、警告などという親切はしない。逆に利用するか、黙って暗殺するかだ。
「《黙示録》というそうです」
「黙示録?」
やはり知らない名称だった。
「《黙示録》は、兄が殺害されたと、わたしに言いました」
「それを信じたんですか?」
「すぐに信じたわけではありません。ですが、いろいろとお話を聞きました。わたしのような小さな人間では考えもつかないような内容でした……」
最終的には、それを信じた。
「それで、その《黙示録》に協力を?」
「……協力というか、わたしも入ったんです」
衝撃の告白のはずなのに、彼女はさらりと言ってのけた。
「わたしのような、なんの力もない素人がって思いますよね? わたしも思いました」
「……」
「でも、能力ではない……意志が重要なんだって教えられました」
「《黙示録》の……いえ、あなたたちの目的は、なんなのですか?」
世良は、茜の意志を尊重した。こうして《黙示録》として動いている以上、強い覚悟があってのことだ。
もちろん、洗脳されている可能性もあるだろう。しかしその場合でも、彼女をただの素人としてあつかうことはできない。そして、茜をここに来させた張本人は、世良がそうするだろうことも計算している。
「世界のバランスをとることです。安定と調和……右にも左にも行き過ぎない舵取り……」
そう教えられたということだろう。
新崎が語ったバチカンの話と似ている。つまり新崎は、理念だけは本当のことを語っていたのだ。
そして、もう一人……同じようなことを語っていた人物を知っている。
「話をもどしましょうか……兄を利用していた組織は、兄に危険な任務をあたえました」
それが、ワクチンのデータに関することなのだろう。
「奪ったものではありません。奪ったようにしむけたんです」
今回のことは、壮大なシミュレーションだ、と彼女は言った。
未知のウイルスが蔓延し、そのワクチンを手に入れるために、各国がどう動くのか……。
「ウイルスもワクチンも、嘘?」
「それは、わたしにはわかりません。本当なのかもしれない……でもウイルスが広まっていたとしても、その国にとってはどうでもいいことなんです」
たしかに独裁体制の国家にとっては、世界で大勢が死のうが、そんなことよりも国益のほうが大切だ。もっといえば、独裁を維持するための力が。
「そして《黙示録》が動きました」
一瞬の沈黙があった。
「どういうふうに?」
世良のほうから、その間をうめた。
「兄は、ワクチンのデータをおおやけにしようとしていました。その国にとっては、むしろ都合のいいことです」
シミュレーションなのだから、そのとおりなのだろう。
「兄は、その時点では、まだからくりを知らなかったんです。そこで《黙示録》が、すべてを教えたんです」
「それを教えられても、お兄さんは、すべてを仕組んだ国の思惑どおりに動くことにした?」
「そうですね……」
「《黙示録》も、それを望んでいたんじゃないですか?」
「そうなのかもしれない……」
「でもそれだと、お兄さんが死亡した原因を《黙示録》がつくったともいえる」
「……」
茜は、そのことの言及はしなかった。
「兄は、ワクチンデータを隠しました。《黙示録》にも秘密にして……結局、兄はだれも信用していなかったんだとおもいます」
それが正解だ。
世良は、心のなかだけでそうつぶやいた。
「答えは、世良さんがつきとめてくれたんでしょう?」
「本当の答えだったのか……それはわからない」
「世良さんが導き出したのなら、きっと正しい答えだと思いますよ」
「あっているか、まちがっているか……それが重要なことではないと知っているんじゃないですか?」
「わたしは聞かされていません……ですけど、そうなんだろうなって」
彼女がどれほどの関係者と会っているのかにもよるが、すくなくとも彼女を直接指導しているような立場の人間が、そう匂わせていたのだろう。
「どうしてあなたのお兄さんが、音楽のなかに情報を隠したと思いますか?」
世良は、問いかけた。
首を振ったような気がする。たぶん、横に。
そのつもりで続きを話した。
「あなたを守るためです」
「……どうして、そう思うんですか?」
「中国にしろ、《黙示録》にしろ、あなたを利用するのも計画のうちだった……お兄さんがどちらにも従って、最後にはどちらにも抵抗したのは、あなたの命を盾にされたからだ」
「……」
「中国は、妹に危害をくわえると脅し、《黙示録》は、妹に危険がおよぶかもしれないと警戒感をあたえた」
「……想像ですよね?」
「そうだよ」
世良は、ごまかさずに想像なのを認めた。
「きみたち兄妹が選ばれたのも、もしかしたら──」
その続きは、言わなかった。さすがに確証がなさすぎるからだ。
彼女が峰岸の後輩だから、選ばれた……。
いや、彼女の兄が危険なアルバイトをはじめたのは、だいぶまえになるだろうから、やはり飛躍した推理かもしれない。
しかし、諜報の世界では深読みしすぎることはない。世良と《U》のことを以前から注目していたと、二重スパイの女と新崎も口にしていた。
「でも……きっと、そのとおりなんでしょうね。世良さんの眼は、すべてを見通せる……そんな気がします」
「行ってしまうのかい?」
足音はまだ聞こえていなかったが、世良にはそう思えた。
もし世良の考えどおりだったとしたら、この兄妹を危険な世界にいざなったのは、世良自身ということになる。止めることはできなかった。
「はい……」
「峰岸君には?」
「世良さんの口から、うまく言っておいてください」
足音が遠ざかっていく。しだいに雑多な周囲の喧騒にまじっていった。
かわりに、近づいてくる足音があった。
「どうかね? われわれのルーキーは?」
聞き覚えのある声だった。
予想していた結末だ。さして驚くことはなかった。
バランス、舵取り……すべてこの男の口から耳にしていたことだ。
「《店員》だな?」
ふふ、と余裕の笑いがもれていた。
「それと、国家安全部……いや、二重スパイ、それもちがうか」
「あら、ではなんだというの?」
女の声が、嬉々として弾んだ。
「新崎が教えてくれた。コードネームは《サン》。数字の三という意味らしいな」
「で?」
「あなたは、三重スパイだ」
さらに愉快そうな笑みが聞こえた。
「もう一人メンバーがこの国に来ているのだが、なにせ目立つ外見をしているから、ここには呼べなくてね」
目立つ? では、新崎のことではないのだろう。それに新崎は、普段から日本で活動していたはずだ。
「われわれが《黙示録》だよ」
「あなたは、完全なる自由を得たということか?」
答えはわかっていたが、《店員》にそのことを確かめた。
「真の自由とはなにか、その定義によるがね」
「アメリカの後ろ盾を失っていないということか?」
「もっと大きなものだよ」
《黙示録》とは、どれほどの集団なのか……。
「世良王海、あなたの怒りの矛先はわかっている。その配慮はさせてもらったよ」
「なんのことだ?」
「フフフ、これでもかなり譲歩したのよ」
三重スパイ──サンが、相槌のように言葉をはさんだ。
「ルーキーと入れ替わってもらったのさ」
《店員》の言う意味がわからなかった。
そのとき、携帯が音をたてた。
「どうぞ、出てくれてかまわないよ」
一瞬ためらったが、携帯を手に取った。
『世良、奇妙なことになった』
いきなり桐野の声が飛び込んできた。いまは喫茶店にいるはずだ。
「どうした?」
『新崎が出頭してきたらしい』
「出頭?」
『ああ。何食わぬ顔で本庁にもどってきたって。後輩からの連絡だ。いま殺人容疑での取り調べがはじめるところだ』
「わかった。おれのことは心配するな。職場にもどれ」
『峰岸君にむかえにきてもらえるよう、おれのほうから連絡しておく』
通話を終えた。
「意味を理解してくれたかね?」
つまり、沢口茜がメンバーに加わったかわりに、新崎がはぶかれた──そういうことだ。
「素直に従ったのか?」
訊かずにはいられなかった。あの新崎が進んで出頭するとは思えない。これまでのすべてが演技だったとしたら、そのかぎりではないが。
「われわれの決定は、絶対なのだよ」
「……《黙示録》のトップはだれだ? あんたか?」
「私は、歯車の一つだよ」
「いつからだ?」
「さて」
《店員》は、とぼけるように言った。浅田親子の件から《黙示録》の意向で動いていたのだろうか?
「だれの指示で動いているんだ?」
「われわれの仲間になるのなら教えよう。メンバーになる条件は、ただ一つだ。われわれとともに行く意志があること──」
そんな誘いをうけるわけがない。
世良の首は、縦にも横にも動かなかった。
「残念だよ」
二人の足音が遠ざかっていく。
呼び止めても、これ以上はなにも語らないだろう。
やるせない思いだけが、あとに残った。
沢口茜を救えなかった……。
《黙示録》は、この世界をどのような形に変えたいのだろう。
預言者でもない世良には、考えもおよばなかった。ただし、混乱と殺戮を生むつもりならば、そのままにはしておけない。
茜を救い出すのは、そのときだ。




