19
19.7日午後5時半
もう隠れるのはやめた。
世良は、《かかし》に麻衣のことを頼むと、桐野たちと合流した。
「いろいろあったようだな」
表情からそれを察したのか、桐野が言った。車内だ。桐野の声は助手席からだから、運転は峰岸がしているのだろう。事務所で所有しているワゴン車だった。
「結局、あの数字は、なんだったんだ?」
「場所をしめしてる」
「どこだった?」
「ブリュッセル」
「ドイツでしたっけ、それともオランダ?」
峰岸の言葉に、世良は思わず吹き出してしまった。
「どうしました、王海さん?」
「ブリュッセルは、ベルギーの首都だよ。麻衣さんと同じまちがいをしてる」
二ヵ国とも合致していた。
「そうなんですか?」
少し気分を害したように、峰岸は声をあげた。
「で、ワクチンのデータがブリュッセルにあるってことなのか?」
桐野が話を進めた。
「そういうことだろう」
もしくは、そこにあるのも現物につながるヒントなのかもしれない。しかし、それをいま論じていても意味はない。
「どうするつもりだ? まさか行くわけにもいかないだろう」
「ああ」
同じような問答を《かかし》と麻衣ともしているから、省略することにした。
「この情報は、とりあえず無視しておくことにする」
「どういう意味だ? ワクチンをだれかがつくらなきゃ、世界がヤバいことになるんだぞ」
「おれがなにもしないことで滅びるような世界なら、もうとっくにどうにかなってるさ」
その大胆な意見に、桐野と峰岸は言葉を失ってしまったようだ。
「今回の件で亡くなっている人間がいるんだ。その真相をつきとめることのほうが重要だ」
「……そういう発想をするから、おまえは恐ろしいんだ」
しみじみと桐野が言った。
「どこに向かう? まさか、中国大使館とか言い出さないだろうな?」
「こちらから出向かなくても、むこうのほうからやって来るさ」
世良は、事務所へもどるように峰岸に伝えた。
「わかりました」
その声と重なるように、携帯が音をたてた
「もしもし?」
この携帯に連絡してくる人間はかぎられている。この車に同乗している二人と、さゆりぐらいのものだ。前回の事件で知り合っている長山や《かかし》もふくまれるが、一番可能性が高いのは、さゆりになるだろう。
「もしもし?」
相手からの応答がなかったので、世良は繰り返した。
『例のものは、どうした?』
「!」
世良は、緊張感に身体を支配された。
「どうしてこの番号を知っている?」
『そんなことは、どうでもいい』
《U》の声だった。
『いいか、まともには考えるな』
「なにが言いたい?」
『謎の女が、おまえのほうにもかかわってるだろう?』
おそらく、国家安全部の女のことだ。
『その女のやり口は、《店員》仕込みだ。必ず、裏がある』
「……」
『おまえのことだから、安易にブツを渡したりしないだろうが、気をつけろ』
「なにがあるというんだ?」
『おまえも感じてるだろ? とにかくイヤな予感だ』
ヤツにも具体的なものまでは、わかっていないのだ。
『いいな、忠告はしたぞ』
そこで一方的に切られた。
「だれからだ?」
携帯を耳から離すと、桐野が問いかけた。
「《U》だ」
会話の内容から予想はしていたのか、驚きの反応はなかった。
「なんと言ってきた?」
「ワクチンのデータには裏があると」
「どういう意味だ?」
「そこまではわからないようだ。第六感のようなものなのだろう」
しかし、ああいう人間の野生の勘ほど鋭いものはない。
「それから、《店員》が関係していると……」
「それって……このあいだの」
「そうだ」
あの誘拐事件の黒幕とも呼べる人物だ。権力者親子を天秤にかけ、さらに世良と《U》さえも同じ手法で篭絡しようとした。
元公安で、CIAの意向で動いていた。本人はNSAとの関係をほのめかしていたが、真の所属先はいまだに謎だ。もしかしたら、本人にすらわからないのかもしれない。どこにもつかず、陰謀をめぐらせることだけのために生きる……。
そんな男の結末に、幸運はおとずれない。
最悪、公安によって闇に葬られているのではないかと考えていたが……。
「それは、その男がまだ健在だってことなのか?」
「それはわからない。過去に《店員》から教えをうけたというだけかもしれない」
「……さらに厄介さが増したな」
ため息のように、桐野が吐き出した。
「ワクチンのデータを手に入れて、研究機関に送ったほうがよくないですか?」
峰岸の提案がとてもまっすぐなものだったので、逆に世良には奇妙に聞こえた。
「本当に有効なワクチンなのかを調べたほうがいいと思うんですよね」
たしかにそのとおりだ。しかし、それには遠いベルギーまで足を運ばなければならない。しかも、そこにデータがあるとはかぎらない。
「たとえば、信用のおける人に頼むとか」
峰岸もそこの懸念はわきまえているらしく、そう続けた。
だがそれだと、結局は同じことだ。だれに頼むかで状況が左右される。それこそ、桐野のような絶対的に信用のおける人間でないかぎり、まかせるわけにはいかない。
「あの人はどうですか? WHОの」
新崎のことを言っているらしい。
「それは考えてるよ」
世良は、曖昧に答えた。《かかし》の忠告が耳に残っている。
WHОの研究員というのが本当だとしたら、データを託すのは彼が適任だろう。しかしバチカンの諜報員という側面は、やはり信用できない。
「つきました」
世良と桐野が降りて、峰岸は駐車場へもどしにいった。
「周囲に不審な人間はいない」
桐野が先導して、事務所への階段を上がっていく。
「そういえば、同じようなシチュエーションだったな」
愚痴をつぶやくように、桐野は言った。
「また、ヤツが待ち構えてるってことはないだろうな?」
「ヤツじゃない」
世良は、短く答えた。
「……おい、だれかはいるってことか?」
うなずいた。そういうことだ。
しかし、忍んでいるわけではない。ヤツのように、わざと気配を知らせているわけでもない。
ただ自然体で、そこにいる。
「おれがさきに行くぞ」
桐野の申し出を、そのまま認めた。
ヤツでない以上、桐野のほうが対処はしやすい。
シュッと、音がした。特殊警棒を抜いたのだ。
桐野が扉を開けて、なかに入った。鍵はかかっていたはずだ。
「あんたは……」
どうやら、知っている人物だったようだ。
遅れて、世良もなかに入った。
「例の、WHОだ」
知らせるように桐野が伝えた。
「どうも。おじゃましてますよ」
鍵をどうやって開けたのか、という疑問はするだけムダだ。バチカンの真偽は不明だが、諜報機関に属していることはまちがいないのだろうから。
不法侵入を非難するのも、的外れだ。いま巻き込まれている案件からすれば、微小な出来事なのだ。
「今日は、どういった用件で?」
つとめて冷静に、世良は問いかけた。
「そろそろかと思いまして」
「なにがですか?」
「正体を明かしたのですから、そういうさぐりあうような会話は不要でしょう」
「あなたの素性が本物だと信じたわけではありませんよ」
世良は隠すことなく、そのことを伝えた。
「元公安なのですから、それは当然でしょう。この世界、信じられるのは自分だけだ」
この会話も充分、さぐりあいだった。
「もう手に入れているころでしょう?」
「手には入れていません」
「ですが、ヒントは得ているはずだ」
「……」
世良は、わざと沈黙をつくった。
「それを渡してもらいたい。いや、教えてもらいたい、というべきかな」
ワクチンのデータそのものではなく、それがある場所の暗号だということはわかっているようだ。
「一つ質問をしたい」
「なんですか?」
「ワクチンには興味がなかったはずですよね?」
「興味がないわけではありません。どこが手に入れてもかまわない、という思いをもっているのは本当です」
「では、おれから情報を知って、それをどうしますか?」
「……」
それまで饒舌だった新崎が、言葉をさがしている。
「うちで研究します。WHО本部に提出することになるかもしれない。どちらにしろ、ワクチンは完成されるでしょう」
新崎がWHОの研究機関に勤めているのは本当のようだ。桐野のルートで調べてもらったから、まちがいはない。
しかし、それでも信用してはいけない。
「なにを迷われてるんですか? あなたのもとには、いろいろな勢力から声がかかっているでしょう? しかし、その方たちが信用できるとも思えない」
それはそのとおりだ。国家安全部やCIAに渡すよりは、まだ適正に利用してくれそうではある。
世良は、ここで勝負に出ることにした。
もうその時期にきているのだ。
「新崎さん、あなたはバチカンの諜報員ではないですよね?」
「突拍子もないことなので、信じられないのもムリはありませんが……そこは、信じてもらうしかない……」
「諜報員というのは、嘘ではないんでしょう」
「では、どこの人間だというんですか?」
「国家安全部」
世良は、躊躇することなく断言した。
「……バカな。中国ならべつの人間が接触しているんでしたよね?」
「まさしく、べつの人間なんですよ。右と左で意思がちがう」
「あなたは現役から退いて、だいぶ経っている。だから、わからないのも仕方がない。それに国内担当だったはずですから、外事には詳しくないんでしょう。中国は、ほかの組織とはちがう。内部で分裂などしない」
「共産国だからですか? それこそ、その国の人間の建前論でしかない」
幹部のほぼすべてが汚職している中国では、足の引っ張り合いや謀略が横行していることは、外事の素人でも容易に想像がつくことだ。
「では私は、なんのために動いているというんですか?」
「そこまではわかりません。しかし、邪魔な人間を消去しようと考えている」
「なにを言うんですか!」
新崎は、オーバーに驚いてみせた。
「すくなくても、一人は消しているでしょう?」
臆することなく、世良は迫った。
「どういうことだ、世良?」
この推理は、まだだれにも披露していないものだ。桐野が驚くのも無理はない。
「田所雅史を殺害したのは、あなただ」
断言した。自信がある、ない、は関係ない。世良の本能がその答えを導き出しているのだ。
「なんのことですか?」
「田所雅史も、国家安全部の人間だ」
「待て、世良……田所は、生粋の日本人だ。両親も祖父母にも中国とのつながりはない」
「だから、正規の人員じゃない」
「おまえたちの言う、下請けってやつか」
世良は、桐野にうなずいた。
おそらく詳しく捜査すれば、田所の背後に左翼勢力が浮かび上がってくるはずだ。もしくは本人ではなく、両親がかつて闘士だったかもしれない。
いずれにしろ、反体制思想と結びつく。いまでもそっち側にいる人間は、偏屈で粘着質だ。本当にこの国を思って革命を夢見ている者も残っているかもしれないが、大半はちがう。
一般的な大衆が気にくわないのだ。多数決の論理に腹が立っているのだ。民主主義、資本主義──この国ではあたりまえになっていることが許せないのだ。
中国や北朝鮮にすれば、もっとも利用しやすいのがそういう人種だ。日本の国益に反するおこないに抵抗感がない。関係を疑われてもすぐに切れるし、利用されているほうにしても、その他大多数にひと泡吹かせてやる、という優越感を得られる。ある意味、ウィンウィンの関係だ。
「なんで田所は殺された? 田所が下請けなら、仲間ってことになる」
「だからおれは、それが聞きたい」
世良は、新崎に向き直った。少し位置を移動したのは気配でわかっている。
「なんのことだかわからないが……きっと、その答えは簡単だよ」
「なんだというんだ?」
桐野が詰問した。
「最初から仲間ではなかったということだよ」
至極あたりまえの論理だ。
田所は日本人であり、利用した駒にすぎない。仲間でないのは、そのとおりだろう。しかし、殺人はリスクが高すぎる。まだ外交官特権をもっている身分なら理解できる。が、新崎は日本人として活動している。権力で守られているわけではない。
「……そうか」
世良はつぶやいた。すぐに答えは導き出されていた。
「あなたも《S》なんだ」
「どういうことだ? Sっていうのは、協力者のことだろ?」
スパイをそのまま「S」と呼ぶこともあるが、多くはそのスパイの協力者のことをいう。
「つまり、新崎さんも《S》だし、田所も《S》。同じ下請けなんだ」
ただし、《S》にされていることにも気づかずに協力している場合もあるし、弱みを握られて仕方なく従うケースもある。そういうときには「下請け」とは呼ばない。
下請けとは、報酬をもらい納得して協力している場合にもちいる言葉だ。
本来、レッドチームの国家は「下請け」を使えない。自国の人間でさえ愛国心があるのかわらないのだ。外国人など信用できるわけがない。使うにしても、使い捨てられるような荒仕事だけだ。
そもそも、この発想は中国人のものではない。
「あなたは、この国の権力をもっている」
新崎が笑ったような気がした。
「どういう意味なんだ? この国の権力? それって……」
「ああ、《おおやけ》なんだ」
世良は、あえてそういう表現をもちいた。
「日本のってことか?」
桐野の疑問にうなずいた。
「あの《店員》みたいな裏切者か?」
「ちがう。この男は、命令どおりに動いているだけだ。おそらく、現役」
「どういうことだ? 公安が中国の思惑で動いているっていうのか?」
「日本の思惑で中国が動いているのかもしれない」
世良は、迷いを振り切るように言った。
事情があまりにも込み入っている。この件に、どの勢力がどのようにかかわっているのか、当事者たちも理解していないのではないだろうか。
「さすがは、世良王海……」
感嘆したような声が響いた。新崎の心情に嘘はないだろう。
「仮に、田所という男を私が排除したとしよう」
殺害ではなく、「排除」と表現するところが、いかにも公安臭い。
「きっと、その事件は解決しないだろう」
「そんなことはさせない」
桐野が挑戦的に言い放った。刑事部に圧力をかけて迷宮入りにする、という脅しだと桐野は解釈したのだ。
「もう猶予はないのだ。なんとしても、データのありかを教えてもらいたい」
口調は穏やかだが、厳とした強さを根底にひそませていた。
「いやだと言ったら?」
「そんなことは考えたくもない」
布の擦れる音。
桐野が緊張したように息を吐いた。
懐から拳銃を抜いたのだろう。
「本気か? おれは、一課の人間だぞ」
「そんなことより、国益のほうが重要なのだ。いや……国益というよりは、世界にとっての利益だ」
新崎の言葉に迷いはなかった。自身のおこないに一点の疑いももっていない。
「さあ、教えてもらおう」
「世良、言うなよ!」
狙いはどちらにつけられているのだろう。すぐに予想をたてた。眼の見えない世良では、威嚇にならない。桐野に照準を合わせている。
「……わかった。教える」
世良は言った。
「世良!」
桐野の反論に、世良は右手をあげて、その言葉を抑制した。
「解いた暗号は、数字だった」
「あなたなら、その意味も解読しているでしょう?」
「ブリュッセルだ」
間を置かずに、伝えた。
桐野の息をのむ音が聞こえた。
「そうですか。ベルギーに……」
「おそらくですが、もしその隠し場所が国内なら……すぐに手の届く場所ならば、おれたちを殺そうとしましたね?」
新崎は、答えない。
「ブリュッセルでは、どうすることもできない。もうおれたちは必要ないでしょう?」
「……どこにもその情報をもらさないなら、私たちがこれ以上、なにかすることはありません。まあ、われわれがそれを確保するまで口を閉じていてくれればいいのです」
「だったら、その拳銃をしまえよ」
桐野が怒りを吐き捨てるように言った。
しかし銃をしまう気配はなく、すり足で移動をはじめた。
「うちの出口は建付けが悪い。気をつけてください」
わざと大きめに声を出した。
その直後、勢いよく扉が開いた。
桐野が一瞬にして飛びかかったのが、物音でわかった。
新崎は、もう一人の存在を忘れていたのだ。駐車場からもどってきた峰岸だ。
峰岸が、だいぶまえから扉の前で待機していたのを察知していた。峰岸のほうも、世良が気づいていることを承知していた。
予想外の出来事で、新崎は混乱したはずだ。その隙を桐野が逃さなかったのだ。
「形勢逆転だな」
その声で、新崎を見事に組み伏せたことを確信した。




