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10.火曜日午後9時
拍子抜けもいいところだ。
麻衣は、普通に部屋でくつろいでいた。
「だれかにつけられなかったか?」
われながらムダな質問だと思った。
尾行に気づいていなければ、そもそもそんなことを訊いてもわからないだろうし、気づいていたのなら、彼女のほうから訴えてくるだろう。
「え?」
やはり、想像どおりのリアクションが返ってきた。
「なにかあったんですか?」
「いや……」
「わたしのほうは、べつになにもないですけど……」
きみが尾行されていたかもしれない──そんなことを言えば、恐怖をあたえるだけだ。
「わたしをつけてた人がいるんですか?」
「そうじゃなくて……なにごとも注意しておけってことだ」
「やめてくださいよ、わたしは殺し屋でもスパイでもないんですから」
このアパートの周囲に異変はなかった。それは確認済みだ。もしかしたら、あの女は嘘を言ったのかもしれない。おれが世良の近くにいることを嫌って、遠ざけようと……。
あの女の存在自体が謎だから、いろいろ深読みをしすぎてしまう。
かつて左翼組織のリーダーを暗殺するときに、その場にいた女。おそらく、《おおやけ》。
かといって、当時の世良とは部署も役目もちがうだろう。世良は、公安にしてはまともだった。もっと深く潜入し、けっして活動を表沙汰にできない暗部──女は、そういう存在だ。
「どうしたんですか?」
「あ、いや、なんでもない」
考えれ考えるほど、あの女の術中にはまっているのかもしれない。
「ところで、これからどうするんですか?」
「ん?」
「とりあえず、世良さんの前に姿を見せたんですから、作戦は成功ですよね?」
「そうだな。あの刑事もいたから、警察も知ったことになる」
アメリカで知り合った女の仲介役(おそらくCIAかなにか)の耳にも届くだろう。
そうなると、仲介役の女は世良に接触するかもしれない。
「え!?」
そのことを伝えたら、責めるように睨みつけられた。
「それじゃあ、世良さんが危険じゃないですか!」
「あの男なら大丈夫だ。それに──」
「それに?」
おれは、続きを言わなかった。
一つの可能性がある。
おれが世良を巻き込むことも計算されているかもしれない……。
つまり、すでに世良の近くにいる──ということだ。
おれは、あの声優の女を思い浮かべた。
いや、それはない。声がちがう。だが、あの女は底が知れないところがあるから、声音を変えていたのかもしれない。おれは世良ではないから、そこまで聞き分けられない。
「……とにかく、あの男は大丈夫だ。それよりも念のため、きみも身辺には気をつけてくれ」
「やっぱり、なにかあったんですか?」
疑うような視線が返ってきた。
あれほど危険はないと断言してしまったのだから、非難されるのも当然だ。
「そういうわけじゃない。慎重な人間ほど生き残るんだ」
それらしいことを言ってみた。
「でも気をつけるって、具体的にどうすればいいんですか?」
「まあ、隙をつくるなってことだ」
まったく具体性にかけたアドバイスだったが、むこうがどう出るかわからない以上、なにがあってもおかしくないのだ。
「まさか、なにもせず、ずっと部屋に閉じこもっていろってことですか?」
それが安全ともいえない。やつらがその気になれば、ここを襲撃することもできる。
「とりあえず、いつもどおりの行動をしてもいい」
「じゃあ、明日は大学に行きますよ」
「ああ、そうしてくれ」
それからすぐに就寝した。彼女の布団のとなりで、ブランケットだけかぶって横になったが、彼女はまったく気にしていないよだった。前回はもっと劣悪な環境でいっしょに夜を明かしたこともある。もう免疫ができているのだろう。
おれも眠りについた。
不審なことがおきれば、イヤでも眼を覚ます習慣がついている。
眠ったのは、三十分ぐらいだろうか。
おれが目覚めたということは、なにかがあったということだ。
おれは室内を素早く確認した。といっても、ワンルームだから、となりでは麻衣が安らかな寝息をたてているだけだ。
おれは、外へ出た。
アパートの周囲に不審なところはない。爆弾が仕掛けられているようなこともなかった。
麻衣の存在を知っている人間や組織はかぎられる。世良とその関係者、そして《おおやけ》。
《おおやけ》である可能性が高い。おれは、そのうちの親玉っぽい男と接触している。だから彼女をマークしはじめたのかもしれない。
しかしそんなことをすれば、おれを敵にまわすことになる。あのとき会った男が、そんな判断ミスをおかすだろうか?
では、ちがうとすれば、いったいどのような勢力がそんなまねをしているのか……。
「ん?」
おれを眼を凝らした。
路地の途中に、人がジッと立っていた。
こういう光景には見覚えがある。
おれは、その人物に近づいた。
「あんたは……」
「また会ったな」
一見すると枯れた老人だ。が、油断はできない手練れだ。おれのように、周囲に擬態する特殊能力をもっている。
左の頬に、ダイヤ型の痣がある。
《かかし》という名前だ。
「なぜ、あんたがここに?」
「知れたことを。依頼をうけたのよ」
「おれを消すことか?」
「まえにも言ったが、わしは物騒な役目はやらん」
その言葉がどこまで本当なのか、いまだにはかれない。
そうそう。おれの素顔を知っている人物に、もう一人、この男を追加しなければならないことを忘れていた。
「だれから、なんの依頼をうけた?」
「それを口にしないのが、この世界の掟」
そんなことは、よくわかっている。わかっていても訊くしかないのだ。この男が敵にまわるとなると、事態はさらに難しくなっていく。
「だが、まあ、依頼主も文句は言うまい」
「なんだと?」
「わしは前回、おまえさんと知り合った件で、もう一人の怪物とも出会っている」
「まさか……」
「その方には、当時の依頼主であった御前からの依頼料を受け取ってもらわなければならんのでな」
おそらくいま話している御前とは、日本のフィクサーと呼ばれていた浅田光次郎のことだろう。その息子・浅田光二の暴走が、すべての元凶だった。
「もう一人の怪物か……」
世良のことだ。どうやら世良と《かかし》は、連絡をとりあえるような仲になっていたらしい。
「で、そいつから、どんな依頼を?」
「あの子を守れと」
この《かかし》も、利根麻衣のことは知っている。
「おまえさんが、あの子を巻き込んでいると依頼主は見破ったようだ」
あの「殺し屋参上」の紙でわかったのだろう。
「じゃあ、さっき彼女をつけていたのは、あんたか?」
「さっき?」
「七時から八時ぐらいだ」
「いや、わしは来たばかりだ」
世良が依頼主ならば、たしかにあのときにはまだ、この男を動かすことはできなかっただろう。
「なら、ここは安全だな」
「安全といえば安全だ。おまえさんが、敵にまわるというのなら、もっとも危険な場所になる」
禅問答のようになってきた。
「それにしても、わしがほんの少し北海道へ行っているあいだに、ここは物騒になったもんだ」
「北海道? 物騒?」
「ある依頼でな。まあ、それはいい。おもしろい男にも出会えたしな」
「あんたがおもしろがるとは、どんな変人なんだ」
「言いおるわ」
《かかし》は笑った。
「もう一人の怪物だよ」
もう一人が何人いるんだ?
「三人目の怪物ってことか?」
「左様」
信じられなかった。
そう何人も、おれや世良のようなバケモノがいてたまるか。
「まだまだこの世は広いということだよ」
《かかし》は、一人で納得していた。
「……ここが物騒というのは?」
北海道にくらべれば、東京はいつでも危険な場所だろう。が、そういう意味ではないなずだ。
「いろいろと蠢いておる」
「なにがだ? なにがおこってる?」
「それは、わしでもわからん」
不穏な空気が流れていることだけを感じとっているようだ。長く裏の世界で生きている経験からくる察知能力なのだろう。
「まあ、おまえさんのことだから、うまく生き残れるさ」
なんのアドバイスにも、励ましにもならない言葉だった。
「あんたは、どう動く?」
「さあな。風の吹くまま、というやつだ」
いまのところ、蠢いているという騒動には関心がないようだ。世良からの依頼をうけた以上、あからさまな敵にはならないはずだ。
「そうか。もし彼女を狙う人間があらわれたら、知らせてくれ」
「それを知らせるのは、依頼主だけよ」
おれは、顔をしかめてしまった。
だが、麻衣の危険を世良が知れば、それなりの行動をとるはずだ。だから、それでもよかった。
おれは、《かかし》に背を向けた。
すぐに思い出して、向き直った。
「……」
やはり、《かかし》は襲いかかろうとしていた。
「ふふふ、冗談だ」
「ったく」
前回も、こういうことがあった。そのときは、いまよりも敵に近い関係性だったが。
おれは、《かかし》を視界に入れながら、後ずさりした。冗談で殺されてはたまらない。
部屋にもどると、麻衣は眠ったままだった。とりあえず《かかし》がいれば、当面の危険はないだろう。
朝をむかえ、麻衣が眼を覚ました。
「おはようございます」
のん気な様子だった。
彼女には《かかし》のことは言わないつもりだ。味方であったとしても、監視されているという事実は気持ちのいいものではない。
てきぱきと支度をして、麻衣は大学に出かけていった。当初は、こっそりと彼女の護衛をしようかとも考えていたが、《かかし》がつくのならその必要ない。
おれはおれで、動き出すことにした。
世良の事務所に向かった。
蠢いている──《かかし》の言葉が的を射ているのなら、やはりおれを導ている謎の勢力は、すでに世良をマークしていた可能性がある。
おれと世良のことを知っていて、すべてを仕組んでいるのかもしれない。
考えすぎなのはわかっている。わかっているが、それぐらい深く考えても、まだまだたりないという予感もある。
世良の事務所の周囲は、うじゃじゃと監視の眼がわいていた。
おれの登場を《おおやけ》が知って、慌てて人員を配置したのだろう。
前回の決着で、《おおやけ》との闘争も終結したと思っていたのだが、それはおれの勝手な思い込みらしい。粘着質の人間の集まりが《おおやけ》だから、一度敵対してしまえば、永遠に和解することはないようだ。
張り込みをしているのは、全員が「歩」だ。
なぜ突然、将棋の例えをしたかというと、そういえばアメリカかメキシコで、将棋に例えたことを急に思い出したからだ。何度も言うが、将棋のルールはよくわからない。だが、歩が一歩しか前に進めないことは知っている。
まさしく彼らだ。
なぜ世良の事務所を見張っているのか、歩である彼らは教えられていないだろう。上からの命令を機械のように守っているだけなのだ。
もう一つ、「歩」について知っていることがある。裏返ると強くなる、ということだ。
それを「成る」というんだっけ? とにかく金と同じ動きができるようになる。「と金」になれば、一歩前にしか進めない雑魚ではなくるんだ。きっと将棋が詳しい人間がおれの発言を知れば、「歩」を制したものが勝負を制するとでも言うんだろう。
が、いまはそんな話はいい。
歩の一人に裏返ってもらうことにした。
おれは監視チームの一人に近づいた。路地の曲がり角から世良の事務所をうかがっていた人物だ。
年齢は二十代で、まさしく「歩」のような存在そのものだ。
「動くな」
もちろん、声音は変えている。世良のようなバケモノでなければ、声からおれをたどることはできない。
監視者はビクついて振り返ろうとした。
「動くなと言ったろ」
顎に手をまわして、それを阻止した。
「動いたら、殺す」
「な、何者だ!?」
「声も出すな」
「……」
監視者は黙った。
「おれが現れるのを待ってたんじゃないのか?」
わずかに首が横に振られた。なんのことをいっているのか理解できていない。
「どんな命令をうけてる?」
「……」
「しゃべってもいい」
「なんのことだ……」
「おまえが《おおやけ》なのはわかってる」
「おおやけ?」
「おまえ、公安だろ?」
「な、なんの話だ……」
「隠さなくていい」
「ちがう……そんなんじゃない」
「ん?」
その様子が、とぼけていたり、演技をしているようではなかった。そしてなによりも、言葉の端々にヘンなイントネーションが混じっている。
「おまえ、日本人じゃないな?」
「……」
監視者は、なんと答えればよいのかをさぐっているようだった。
「どこの機関だ?」
「……」
監視者は黙秘を貫くことにきめたようだ。
見た目で判断するのなら、東アジアの諜報機関。そうなると、自然に中国が浮かんでくる。
「国家安全部か?」
「……」
おれは男の首筋に手をあてているから、心拍数が上がったことがわかった。尋問に耐えるような特別な訓練はうけていない。
やはり「歩」だ。
中国の《おおやけ》が、なにをしている?
当然のことながら、悪い予感しかしない。
「答えたくないのなら、もうなにも答えなくていい」
おれは、監視者の延髄に打撃をあたえた。
こいつを「と金」にする。
気絶した男が路地に転がった。
おれに接触して生き残ったという勲章をくれてやる。ただし顔は見ていないから、それほどのものではないが。こいつでは、声も覚えられない。
世良のように、本当の「金」にはなれない。
だが、いろいろと状況を混乱させる駒としては充分だろう。




