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      プロローグ


 宝物のありかは、音のなかに隠した。

 みつけられるものなら、みつけてみるがいい。

 ここで果てるのだとしても、おまえたちの好き勝手にはさせない。

 ああ、一人残していく妹には、申し訳ない気持ちでいっぱいだ……。

 せめて、あの子にだけは幸せになってもらいたい……。

 ピアノは、生きるための手段でしかなかった。いま思えば、その技術をみにつけてしまったから、こんな宿命を背負わされたのだ。

 組織よ。妹にだけは手を出すな。

 だれでもいい……あの子の救い主になってはくれまいか。

 それが私の、最後の願いだ。




      1.4日午後2時


 助手の峰岸から、紹介したい女性がいる、と告げられたとき、世良は恋人なのかと勘違いした。

 声には真剣な色が濃かったし、本気の関係なのだと軽く考えた。しかし真剣の意味が異なっていたことを、実際に彼女と会って理解した。

 女性の名は、沢口茜。

 年齢は、二三歳だと聞いている。

 峰岸とは音楽大学の先輩後輩の関係だという。峰岸は音響の専門学科だが、彼女はピアノを専攻していた。演奏家をめざしていたが、その夢はかなわず、いまではピアノ教室の先生として生計をたてているそうだ。

「あの……」

 沢口茜が、遠慮がちに話しかけてきた。

 世良探偵事務所のなかだ。事務所の看板には、『声をさがします』と書かれているはずだ。

 なぜ、「はずだ」なのか……? それは、世良自身がその文字を確認することができないからだ。

「どうしました?」

「眼が……不自由だとお聞きしてるんですけど……」

「そのとおりですよ」

 世良の眼は、物を見ることができない。

 かつて、ある殺し屋に両眼を潰されたのだ。

 だが物は見れなくても、世良にはたぐいまれな音を聴く能力がある。音から色を感じ、暗闇に像を浮かべることができる。

「とても、そんなふうには……」

「これは、義眼です」

 初対面の人には必ずといっていいほどおこなうやりとりなので、世良のほうも慣れたものだった。

「ね、言ったとおりでしょ?」

 峰岸が口をはさんだ。彼が事前になんと伝えていたのか、想像は簡単だ。

「なにか困ったことがあるのですか?」

 彼女が動いた気配があった。峰岸のほうを振り向いたのだろう。

「まだ詳しいことは、なにも話してないよ。王海おうみさんは、なんでも見抜いてしまうから」

 下の名前で呼ぶのは、いまでは峰岸ぐらいのものだった。

 沢口茜の声音から、不安があるのはわかっていた。そのことを悟って世良はようやく、紹介したい女性がいると言った理由が、依頼人という意味だと理解していた。

「あの……気のせいかもしれないんですけど」

 ためらいがちに、沢口茜は相談をはじめた。

「なんだか、見られているような気がするんです……」

「ストーカーということですか?」

「いいえ……」

 どうやら本人も、状況がよくわかっていないようだ。

「おかしいと思ったのは、兄のことからです」

「お兄さん?」

「はい……兄は海外で亡くなりました」

 交通事故死だったという。

 それが三ヵ月前。

「パリに住んでたんですが……」

「お兄さんは、有名なピアニストだったんですよ」

 峰岸が補足を入れた。

 そういえば、そんなニュースを聞いたことがある。峰岸からも、「知り合いの音楽家が交通事故にあった」という話を耳にしていた。

 それらの事象が頭のなかでつながった。その音楽家の妹が、彼女ということらしい。

「それはお気の毒に……」

 こんな言葉が慰めにならないことはわかっていたが、世良はお悔やみを伝えた。

「それで、兄の住んでいた部屋に荷物を引き取りにいったときなんですけど……」

「なにがあったんですか?」

「部屋が荒らされていたんです」

「泥棒ということですか?」

「はい。むこうの警察は、そう言っていました」

「盗られたものは?」

「よくわかりません……現金は見当たりませんでしたけど、そもそも兄が部屋にいくら置いていたとか知らないので」

 別々に暮らしていれば、肉親といえどそんなものだろう。

「兄はピアニストとしては、そこそこ名前は知られていましたけど、まだ若手の一人でした。収入としては、それほどでもありません」

 盗まれるほどの大金も持っておらず、住居にしてもセキュリティのしっかりしたところではなかったという。

 泥棒だとしたら、兄の家だから狙われたのではなく、流しの犯行だろうと、むこうの警察には言われたそうだ。

「でも、なんとなく……」

 そこで彼女は、さらなる迷いを声にのせた。

「腑に落ちないことがあるんですか?」

「はい……」

 世良は声をはさまず、次の言葉を待った。

「部屋の荒らされ方が……なんというか、意思があったというか……」

 どう表現してよいか、困惑している。

「たとえば、特定のなにかを探し出そうとしていたとか、そういうことですか?」

 世良は、助け舟を出した。

「そうです」

 同調した彼女は、少し興奮気味に声をあげた。

「それがなんなのかは、わからないですけど……」

 この様子では、もし目的のものがあったのだとしても、犯人がそれをみつけられたのかどうかもわからないだろう。

「もちろん、その泥棒は関係ないんでしょうけど……日本に帰ってからも、だれかに見られているような……」

 彼女の心に引っかかっていることは、二つ。

 兄の部屋を荒らした泥棒が、ただの泥棒ではないのではないか。

 日本に帰ってから感じる視線が、だれのものか。

「わかりました。フランスのことについては、私ではどうすることもできませんが、沢口さんにつきまとっている人物がいるのかは調べられます」

「え?」

 彼女の声には、戸惑いがあった。

「あ、あの……自分から相談しておいてなんですが……」

 言いたいことは、世良にもわかった。

 彼女は、視線の正体をつきとめてもらうためにここへ来たのではない。おそらく、峰岸にもべつのことを打ち明けているはずだ。

「世良さんにお願いしたいことは……これなんです」

 沢口茜が、なにかを取り出してテーブルの上に置いた。硬さのあるものだが、重くはない。形状は、薄ぺらいものではないだろうか。

「それは?」

「CDです。兄が演奏しています」

 最初、デモCDのようなものだと考えたが、ちゃんと販売されている正規のCDだということだった。

「ヨーロッパの数か国だけで販売されているそうなのですが……」

「これが?」

「兄の遺品の一つなんです」

 わざわざそれを出してくるということは、特別ななにかがあるのだろう。

「部屋にあったものなんですけど……ほかにもCDを出しているはずなんですけど、これだけがあって……」

「日本では販売していないものだからじゃないですか?」

 そう言ったのは峰岸だった。

「茜ちゃんへのお土産のつもりだったんじゃないの?」

「いえ……わたしは事前にもらっていました。それに、日本でも買おうと思えば買えるものです」

 どうやら、輸入CDをあつかっている店では購入可能なようだ。

「どうして、これだけ部屋にあったのか……」

「あなたは、そのCDが原因だと思われているようですね」

 世良は指摘した。

 困っているような間があいた。表情はもちろんのこと見れないが、その予想はまちがっていないだろう。

「聞いてみたのですか?」

「これをですか?」

「はい」

「……これは聞いていません。ですが、以前にもらっていた同じCDなら聞きました」

「一度、それを聞いてみませんか?」

「……そうですね」

 峰岸がテーブルの上のCDを取って、事務所内にあるコンポにセットする音がした。視覚的な楽しみがないぶん、聴覚的な娯楽を充実させている。峰岸自身が選んだ高級機で、音響についても専門家らしくこだわっている。

 しばらくして、音楽が鳴りだした。

 ピアノの独奏だ。

 速く、細かく、厚みのある音が踊りあかしている。技巧だけでなく、表現力もかねそなえた演奏だ。

 素人でもわかるほどの天才ぶりだった。

 曲名はわからない。世良は、音の聞き分けには常人を遥かに超える能力を有いているが、クラシックに詳しいわけではない。

「すごいね……」

 峰岸が、感嘆の声をもらした。

「ラ・カンパネラです。パガニーニのバイオリン曲をフランツ・リストがピアノ曲にアレンジしたものです。多くのピアニストが、この曲を一番難しい曲にあげるほどの超絶技巧曲です」

 どうやら、ただの音楽CDでまちがいないようだ。

「このCDに付加価値はないんですよね?」

 念のために、世良はたずねた。

「付加価値?」

「プレミアがついているとか、貴重な一枚とか……」

「いえ。さっきも言ったように、日本でも買うことはできますし、もし価値があるとすれば、兄本人が所有していたということぐらいしか……」

 天才的なピアニストとはいえ、彼女の話を聞くかぎり、そこまでの巨匠あつかいはされていないようだ。

 このCDを盗む目的だったわけではない。

 一曲目が終わり、二曲目に変わった。

 これも難しそうな曲調だ。

「ピアノ協奏曲第3番の大カデンツァ──セルゲイ・ラフマニノフの作曲です」

 音の飛び方が激しい。ピアノの知識がなくても、鍵盤の端から端を指が動くさまが想像できるほどだ。

「この曲も、すごく難しいです」

 ピアノをやっている経験者の言葉だから、すんなりと難しさが伝わってくる。

「兄は、テクニックを重視する演奏家でした……」

 惜しむような声だった。

 それから数曲が流れたが、いずれも技巧を強調するような曲だった。だがそれでいて、感情にも訴えてくる。世良は、なんと表現していいものか、その称賛の言葉をもっていなかった。

「どうでしたか?」

 すべて聞き終わり、沢口茜がそう問いかけた。

 CDに、なにか特別なことがあったか?

 そう解釈すべきところなのだろうが、世良には、演奏はどうでしたか?──そう質問しているようにも思えてしまった。

「素晴らしい演奏でした」

 後者の意味で、世良は答えた。最低限の礼儀のような気がしたからだ。

「ありがとうございます」

 沢口茜は、まるで自分のことのように喜びの念を言葉にのせていた。

「それで、あの……」

「とくにおかしなところはないと思いますよ。ただ私は、音楽の専門家ではないので」

 彼女が世良に期待していたのは、このCDになにか異変がないかを聞き分けてもらいたかったのだ。

「ですよね……」

 彼女の耳にも、おかしなところは感じられなかったようだ。

「もし奇妙なところがあるとすれば、ところどころ、感情の起伏がおさえられていることでしょうか」

 世良は言った。

「は、はあ……」

 沢口茜の、意味を解せないような戸惑いの声がもれた。それもそうだ。あくまでも世良の主観であり、とても不確かな感想だ。

「うーん、なんていうか……感情が豊かなはずだったのに、本当ならピークになるところを、結局はそうならずに、平坦になって次の節に変わっていってしまう……ような?」

 世良は自分で口にしておいて、伝わりにくいな、と反省してしまう。だが、ほかに言葉を知らない。自分の語彙では、これが限界だ。

「いまのは、忘れてください」

 一同に沈黙がおとずれた。峰岸がCDを取り出している音が、次の会話への橋渡しとなった。

「では、あとは、あなたにつきまとっているかもしれない人物を特定しましょう」

「お願いできるのなら、ありがたいですけど……」

 やはり眼の見えない人間に、そんなことができるのかと疑心を抱いている。

「まあ、王海さんにまかせてみなよ。絶対に満足できる結果を導き出してくれるから」

 峰岸が、軽い口調ですすめた。

「料金も、ぼくの知り合いってことで、安くしてくれるって。ね、王海さん」

 そんな話はしていないが、成り行き上、そういうことになるようだ。

 世良は、うなずいた。

「では、お願いします」

 こうして、沢口茜の依頼をうけることになった。

 その後、彼女の住んでいる周辺の状況や部屋の間取りなどを質問した。視覚的なことは世良では理解できないので、そこは峰岸が把握してくれるだろう。

「あ、それと、さきほどのCDですが、もう少し聞いてみたいので、貸しておいてもらえませんか?」

「もちろん、いいですけど……なにかありましたか?」

「いえ、ただもっと聴いてみたいだけです。素晴らしい演奏でしたから」

「よかったら、差し上げますけど」

「でもこれは、お兄さんの形見になるでしょう? 聴いたら、ちゃんとお返します」

「わかりました」

 そしてあらためて依頼の解決を約束して、彼女を事務所の外まで見送った。ただし見送っているのは峰岸で、世良の場合、聞送りをしているのだが。

 事務所は秋葉原のはずれにある雑居ビルだ。彼女の足音が、人通りの多いほうへと吸い寄せられている。もう少しすれば、大量の音にかき消され、さすがの世良でも捕捉は不可能になる。

「峰岸君、こっちにだれか立っているか?」

 指をさして、世良は訊いた。

「はい、います」

 それは、沢口茜が進む方向とはズレている。

 だが同時に、監視するにはちょうどいい距離を保っていることになる。

「どんな人物?」

「パーカーのようなものを着ています。キャップをかぶってる」

「性別は?」

「だぶん、男だと思います」

 その人物は、周囲の人の流れを堰き止めていた。足音が角度を変えるのが世良にはわかる。

 もしや事務所の外で何者かが見張っているのではないと考えたが、その予想は当たっていたようだ。

「どうしますか?」

「彼女を家まで送ってくれ」

「王海さんは?」

「あの人物と話をつける」


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