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ツガイはノロイ

作者: 結城

 今でも夢に見る。

 見知らぬ男。突然抱きしめられ、空を飛ぶ。竜人の男。悍ましい笑みで私を捕える。

 抵抗は意味をなさない。恐怖と怯えで暴れる私をいともたやすく抑え込み、自らの国へと連れ去る。

 言葉は通じるのに、話が通じない。

 これは誘拐だ、家へ帰せと当然の要求が理解されない。

 男はただひたすらに繰り返す、「ワガツガイ、ツガイノケイヤクヲ」

 嫌だ。嫌だ。私は家に帰る。お前なんか知らない。番なんか知らない。私は人間だ。お前がやっていることはただの犯罪だ。離せ。触るな。家に帰せ。

 いくら暴れても、いくら言葉を尽くしても、相手はそれを理解しない。妥協もしない。己の欲望だけを押し付けて、私に契約をと繰り返す。たった一つの選択肢だけを与えて、それを選べと強要する。

 私から家族を奪い、仕事を奪い、未来を奪い、何もかもを奪いつくして、そして私の心と体さえも奪おうとする。

 させるものか。

 私は私だけのもの。

 全て奪われて、だけどこれだけは渡さない。

 許さない。

 許さない。

 絶対に許すものかよ。

 竜人が治める獣の国、その城は険しい山の上にある。

 愚かな男は城に私を閉じ込めて逃げられないように囲ったつもり。忌々しい独占欲が幸いして、部屋の中には誰もいない。

 私は選ぶ。押し付けられてたものではない、終わりの選択肢を。

 窓を開ける。その下は底が見えないほどに深い崖。躊躇うことなく身を躍らせる。

 ごうごうと風の音。体の中が持ち上げられるような不快感。きつく目を閉じる。浮かぶのは家族の顔。幼馴染の顔。友人たちの顔。涙が零れて、そして、



「……っがあっ!」

 びくんと体が跳ねて、私はベッドの上で飛び起きた。心臓が痛いほどに跳ね回っている。荒い息を何度も吐いて、嫌な汗を拭う。

 ……またあの夢だ。

 自分がいまどこにいるのかを確認して、私は深い安堵の息を吐く。大丈夫、ここは私の家。私と家族が住む、辺鄙な村の小さな家。あのドクズ野郎の城ではない。大丈夫、大丈夫。

 自分の体を抱きしめて、意識してゆっくりとした呼吸を繰り返す。鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し、体の力が抜けるまで。

 どうにか落ち着いた私は、枕元に置いておいた布で全身の汗を拭った。べたべたするのはしょうがない。舌打ちをしてから乱暴にベッドに横になる。

 何度も何度も繰り返される夢。終わらない悪夢。これは今の私になる前の私の記憶。数百年ほど前の、こういった事件がありふれていた時代の出来事だ。



「ねえ聞いた? 今竜人が来てるんだって!」

「えっ、ホント!? すっごく珍しいじゃない! もしかして……番探しなのかな!?」

 きゃあーと女の子たちが黄色い声を上げるのを聞いていた私は、顔を歪ませて早足にそこから離れた。

 竜人だって? こんな辺鄙なところに? 何しに来やがったんだ。さっさと滅びればいいのに。

 まっすぐに家を目指して乱暴にドアを開ける。

「ただいま」

「お帰り。早かったねえ」

 今の母が穏やかに迎えてくれる。ささくれ立っている気分が少しだけ宥められた気がする。

 私は頼まれていた買い物をテーブルの上に置いた。

「はいこれ、頼まれもの。それと、またしばらく家から出ないから」

 言い捨ててさっさと階段に向かう私に、苦笑した母が問いかけてきた。

「おやおや。今度は誰が来たの?」

「……竜人」

「……わかった。帰ったら教えてあげるからね」

「うん」

 二階の自分の部屋に閉じこもって、しばらくは引きこもり生活だ。間違っても顔を合わせることがないように、獣人がこの村にいる間は私は家から出ないようにしている。

 この世界には大別して2種類の人間がいる。獣の性質を持つ“獣人”と持たないただの“人”だ。獣人はさらにどの獣であるかによって、例えば犬人、猫人、兎人などと呼ばれている。

 それにしても。きゃあきゃあとはしゃぐ女の子たちを思い出し、私は独り言ちる。

「……番探しに憧れるなんて、時代は変わったもんだ」

 私が前に生きた時代では、それはただの“人”にとっては逃れようのない不幸であり、絶望であり、理不尽であり、憎悪の源だったというのに。

 獣人のほとんどは番という概念を持つ。それは対になる相手であり、誰よりも何よりも惹かれ、焦がれ、愛しいと思う半身であるそうだ。出会ってしまえばまさに狂ったように相手を求めてしまう。

 もちろん、お互いが番の概念を持つ獣人であれば何の問題もない。出会った瞬間に恋に落ち、そのまま無限にいちゃいちゃし始めるだろう。心底どうでもいい。勝手にやってろ。

 問題は、獣人が番と定めた相手がただの人だったとき。獣人は一目見た瞬間から相手を強烈に求めるが、人はそうはならない。人には番の概念が存在しないからだ。いきなり知らない相手に言い寄られ、付きまとわれることになる。それだけならまだしも、出会った瞬間さらわれてしまうこともある。……以前の私がそうであったように。

 このことは当時の“人”の間ではかなり問題視をされていた。一切の同意もなく、男であれ、女であれ、子ども、大人、年寄り、未婚、既婚の一切の区別なく連れ去られてしまう事例が頻発していたからだ。人と獣人の間にはそれほどの能力の差があった。魔術があるにはあるが、誰もかれもが獣人を撃退できるほどの力を持ってはおらず、下手に抵抗すれば逆上した獣人にその場で殺されてしまうこともあった。目をつけられたらその時点で終わりなのだ。ただの誘拐。ただの人殺し。ただの犯罪。番だから、とそれを是とする獣人どもと相容れるわけがない。ごくごくまれに、お互い合意の上で番契約を結んだものもいたにはいたらしいが、あまりにも少数過ぎてほとんど聞いたことがないくらいだった。

 ゆえに当時は獣人の受け入れを拒む国も少なくなかった。あちらが番を求めるあまりにあらゆる犯罪行為をためらわないのだから無理もない。それでも奴らは姿を偽り、侵入しては誘拐を繰り返した。

 奴らは番を愛すと言いながら、相手の感情の一切を無視した。親と離れたくない子どもの思いを、恋人と離れたくない娘の思いを、妻と離れたくない夫の思いを、その一切を無視して自分だけを選ぶよう強制した。さらい、閉じ込め、相手の言葉を聞くことなく、ただ自分への愛だけを乞うた。

 奴らが欲しいのは番という名の人形なのだ。自分一人だけの、自分だけの愛を受け入れる人形。諦めて受け入れた人は大切に大切にされ、やがて考える力をなくし本当に人形のようになっていった。諦められなかった人は大抵命を絶った。私のように。

 獣人は「番は運命」なのだという。私は思う、「番は呪い」なのだと。


 ……ついつい物思いにふけってしまった。ため息を吐いて、私は自室の机の上にあるナイフと小さな木材を手に取る。これを削って小さな人形を作ったり小物入れを作ったりするのが引きこもり中の私の内職だ。手先が器用だからか細かい彫刻ができるのでそれなりに人気なんだそうだ。いつもなら何も考えずに没頭できるのだけど、やはり村に来たのが竜人というのが気になっているみたいだ。あまり気乗りしないが、それでも惰性で手を動かしながらとりとめもなく考えを巡らせる。


 何の因果か記憶を持ったまま数百年後に生まれ変わってしまった私が一番驚いたのは、その番に関する決まりごとがきちんと整備されていたことだった。

 今回産まれる前からの筋金入りの獣人嫌いの私に、獣人と聞くだけで暴れだす私に、それでも両親が根気強く教えてきた“番探しのルール”。すべての人間が知っておかなければならないことだと言って。


 ①獣人は、人の番を見つけた際は最寄りの警備詰め所へその旨を届出なければならない。その際に獣人には監視が付けられる。

 ②人は、既婚あるいは婚約者がいる場合を除き、番を申し出た獣人と三か月間交流しなければならない。

 ③獣人は、人に対して番になるよう強制あるいは脅迫等の行為をしてはならない。

 ④人が既婚あるいは婚約者がいる場合または三か月間の交流を経て人が獣人を受け入れなかった場合、獣人はその人に対する「接触禁止」「記憶操作」等の制約魔術を受け、以降の人への接触を禁止する。

 ⑤人が獣人を受け入れ番契約がなされた場合であっても、人の意志を無視して自らの国へ強制的に連れていくことを禁止する。

 ⑥獣人が届出を行わず人に接触を図ったことが発覚した場合、それがやむを得ない状況だった場合を除き獣人には厳罰が下される。


 例外はいろいろとあるが、大まかにこのようなルールだった。私はとても驚いた。このようなルールが制定されていることに加えて、あの獣人が、人を人とも思わぬ獣人が、残酷極まりない獣人が本当に守るものかと。

 説明を受けてなお懐疑的な私に、両親は実例を見せてきた。うちの村には今どき珍しく獣人がいないのだが、番になって村を出た女性がいたのだ。年に一回、番の獣人を連れて里帰りする彼女は子にも恵まれ、信じられないことにとても幸せそうに見えた。

 こうしたルールを制定したのは何百年か前の竜人の王なのだそうだ。そいつは人に自らの番を見出したが、同意を得ずに強引に連れ去ったために番に死なれ、数十年の嘆きののちにこうした悲劇を繰り返さないために整えたのだという。

 ……なんだか聞き覚えがあるような気がする経緯だが、私には関係ない。ないったらない。ドクズ野郎が殿下と呼ばれていたような気がしなくもないけど知ったこっちゃない。もし万が一関係していたとしても、あのドクズ野郎が私の全てを奪って死を選ばせた事実には違いないので。

 それはともかく竜人は獣人の中でも特に強い力を持っているので、彼らに本気を出して取り締まられたら従わないわけにはいかなかったらしい。徐々に周知され、守られていくことで人と獣人の確執も少なくなり、幸せな番が増えたのだとか。

 もちろんどこまでいっても愚かな奴はいる。ルールに従わず、無理矢理番を囲い込もうとする馬鹿者だ。けれどそれも取り締まりがきつくなっており、まず隠しきることはできない。

 ……いい時代になった、のだろう。思春期の女の子たちがいつかかっこいい獣人の迎えが来ることを夢見るような、男の子たちが可愛らしい獣人の娘に抱き着かれることを夢見るような、そんな時代になったのだから。

 実はこう、番は異性とは限らなかったりするのだが、まあそこはそれ。私には関係のない話だし。

 とにかくそんな話をとくとくと聞かされ、現在の獣人たちが理不尽を控えているというのは分かった。けどそれと前の私が死んだことには関係ないし、その記憶をばっちりと持ってしまっている今の私が獣人を嫌うのは仕方のないことなのだ。

 だって、もう会えない。前の私の両親はもうどこにもいない。幼馴染も友人も、すべてが時の彼方に消えてしまった。突然さらわれて、二度と会えないままに。

 産まれてからほとんど獣人との接触がないにもかかわらずこれほどの嫌悪感を示す私に、両親は優しくどうして? と問いかけてくれた。私は散々迷った。信じてもらえないかもしれない、頭がおかしいと思われるかもしれない。けれども現状すでに頭がおかしいと思われている可能性に気付いて開き直った私は過去の記憶を洗いざらいぶちまけたのだ。

 恐怖、憤怒、憎悪、絶望。あのドクズ野郎から与えられたものはすべてが負の感情だった。今もそれは私の中で燻り、夢の中で私を焼き焦がす。

 両親が本当に信じてくれたのかどうかはわからない。けれど私を抱きしめて撫でてくれて、無理してかかわる必要がないと言ってくれた。それから村に時折獣人が訪れるときは決して顔を合わせないよう家に閉じこもるのがお決まりとなった。おかげさまで12歳にして引きこもりである。

 私は削っていた手を止めた。できたのは野良猫の人形だ。前に道の端で丸くなって眠っていた姿を作ってみたが、なかなかよくできていると思う。

 細かい仕上げはあとにすることにして、削りかすを片付けてベッドに寝転がる。なんだか今日は妙に疲れていた。夢見が悪いのはいつものことだが、竜人が近くにいると聞いたから余計になのかもしれない。

 窓の外は日が暮れかかって赤みを帯びている。それを見ながら私は少し仮眠をとることにした。



 遠くから母の鋭い声が聞こえてきた気がして目が覚めた。

 すでに日は落ちきり、明かりをつけていなかったため月明かりのみの室内は暗かった。

 ぼんやりしたまま目をこすりベッドを降りる。おなかすいたなあ。いつもならご飯ができたら呼びに来てくれるのに、いったいどうしたのだろう?

 そっとドアを開けて階段へ向かう。やっぱり下から母の声がする。誰か来ているのだろうか。半ば寝ぼけていた私はそのまま階段を下りてしまった。

「お引き取りください!」

 びんっと母の硬い声が響き渡る。私は驚いて動きを止めた。居間には父と母、そして兄と私以外の家族が全員そろっていた。兄はテーブルの近くに所在なく立っている。父と母はドアの前を塞ぐように立っていて、そして、

「――我が番」

 私の悪夢がそこにいた。



 気が付くと私は知らない部屋にいた。いや嘘だ、私はこの部屋を知っている。知りたくもないのに知っている。ここは城だ。あのドクズ野郎の城だ。どうして。私はここから逃げたはずなのに。自分が何をしていたのかはっきりしない。どうしてここにいるのかもわからない。わからないけどこんなところにはいられない。ドアノブを回す。鍵がかかっている。何度ひねってみてもガチャガチャとうるさい音がするだけ。あの時と変わらない。ここから逃げることはできない。ならば前と同じ窓から飛び降りるしかない。窓へ向かう。開かない。どうして。何度動かしてみても開かない。開かない。外に出られない。逃げられない。どうして。また繰り返すのか。もうこんなことは起こらないとお母さんは言っていたのに。嘘つき。窓を叩く。割れてしまえと叩く。分厚いガラスはびくともしない。叩く、叩く、叩く。皮膚が切れて血まみれになっても叩く。息が上がる。体が震える。早く、早く逃げなくちゃ。あいつが来る。私を閉じ込めた悪夢が来る。嫌。嫌。嫌。手ではどうしようもない。あたりを見回す。椅子がある。掴んで、振り上げて、窓に振り下ろす、椅子が壊れて破片があたりに飛び散って、私に、



「――起きて。起きなさい!」

 強く揺さぶられた。ぺちぺちと頬を叩かれている。あたりは暗い。ここはどこ。

「息をしなさい。吸うのよ!」

 息? 息って、どうやってするんだっけ? 背中をどんと叩かれてひゅうっと始まる。私は体を丸めて咳き込んだ。

 温かい腕が私を抱きしめる。びくりと震えて逃げようとした私の名前を何度も呼ぶ声がする。

「大丈夫。大丈夫よ。ここはあなたの部屋。お母さんがそばにいるでしょう?」

 温かい腕が私の背中を何度も撫でる。優しい声が私を呼ぶ。何度も、何度も、繰り返し。

「お、かあ、さん?」

「そうよ。心配することはないわ。あなたはどこにも連れ去られてなんかいないんだから」

 ほとんど見えていなかった私の目に、ようやくあたりの様子が見え始めた。

 そうだ、ここは私の部屋だ。いつも作業している小さな机。その上には今日作ったばかりの猫の人形が丸まっていて、だから確かに私の部屋で……

「おかあさん……」

 ここは城じゃない。私の悪夢じゃない。ようやくそれが呑み込めて、安堵すると同時に涙があふれだす。

「おかあさん、おかあさん……!」

 よかった。私はさらわれてないんだ。ちゃんと家にいるんだ。よかった。よかったよぅ……

 散々泣いて、涙も枯れ果てたころには声もがらがらになっていた。疲れてぼうっとする私にお母さんが水を飲ませてベッドに寝かせる。

「夜明けまではまだあるからね、もう少し寝てなさい」

「……いや。ねたくないの……」

 眠るとまたきっと怖い夢を見るから。あの恐ろしい部屋に閉じ込められてしまうから。眠るのは怖い。

 ぐずぐずとぐずる私を見たお母さんは、仕方ないわねと笑って隣に潜ってきた。一緒にお布団かぶって、ぎゅって抱きしめてくれる。優しい手が私の頭をゆっくりと撫でた。

「一緒にいてあげるからね、少しでも休みなさい。朝になったら話をしなくてはいけないから……」

 話? 話って何だろう。少しだけ疑問に思ったけど、お母さんがあったかくて、体が疲れてて、すぐに眠くなってしまった。

「おかあさん、ずっといてね、いなくならないでね……」

「もちろん。おやすみなさい」

 ふつりと意識が途切れる。



 久しぶりに夢も見ないほどぐっすりと眠った。起きたら母はもう起きていて、おはようと笑って私のおでこにキスしてくれた。私は小さな子どもみたいに散々甘えたのがちょっと恥ずかしくて、小さくおはようと返した。

「朝はお父さんが作ってくれてるから、着替えてから下りてきてね」

 言われたとおりに身支度して下に下りると、すでに家族みんなが揃っていた。心配そうな顔の父に、困惑した様子の兄。あえて無視していつものように食事をしてから改めて座り直し、そして話が始まった。

「昨日のことだけどね」

 びくりと体が震えた。たぶん顔が青ざめているんだろう、兄が心配そうな顔をしている。

「……大丈夫、おびえることはないわ。“番探しのルール”はあの方にとっても有効だもの。昨日だって、あの後すぐに帰ったから」

 ……そう、そうだ。あのドクズ野郎であれば私一人をさらうことなんて簡単にできる。それをしなかったのはルールを守るつもりがあるからだろう。

 ほんの少しだけ安心した。小さく息をつくと、兄がおずおずと手を上げた。

「あのさ、おれ、昨日初めて聞いてさ、まだよくわかってないんだけど、……昨日来た竜人って本当に昔お前の番だった人なのか……?」

「……うん、間違いないよ」

 あの恐怖は間違いない。年を取ってはいたようだが……たぶん。一瞬見てそのあとの記憶がないから定かではないけども。

「……ってことは、“番探しのルール”を作った張本人で、お前がそのきっかけになった番……?」

 兄は頭がパンクしたのか目をぐるぐるさせて揺れ始めたので、ひとまず放っておくことにした。気を取り直した母が尋ねてくる。

「昨日のことはどれくらい覚えてる?」

「……あのドクズ野郎を見た後の記憶はないよ」

「そう。……あなたはあの後すさまじい悲鳴を上げてあたりにあるものを手あたり次第あの方に投げつけた。投げるものがなくなるとへたり込んで、いやだ、あの部屋に戻りたくないって何度も繰り返し泣き叫んでた。それを聞いたあの方はあなたに昔の記憶があることに気づいていたようだったわね」

 ……んげぇ……一番知られたくない相手に一番知られたくないことを知られてしまった……

「それで、今は話し合いも何もできる状況ではないからひとまずお引き取りいただいたというわけね。……まったくもう、こっちは必死にあなたが寝てるから出直してきてくれって説得してたのに、のんきに下りてきちゃうんだもの……」

 それは私のせいじゃないし……

「とにかく、あの方は今日の午後もう一度お見えになる。その時にはあなたも話をしなきゃならない」

 ひゅっと息が詰まった。……またあれが来る。あの悪夢がやってくる。嫌だ、会いたくない。うつむいてぶんぶんと首を横に振ったけど、母は許してくれなかった。

「……あなたにはつらい思いをさせてしまうけれど、あちらがルールを守る以上、こちらがそれを破るわけにいはいかないのよ」

 どういうことかと視線を上げると、不機嫌な表情で父が言葉をつないだ。

「向こうはうちに来る前に、すでに番発見の届け出を済ませ、監視役を連れていたんだ。その時点でお前にはあちらとの三か月間の交流が義務付けられた」

 もうね、意識が遠くなった。いっそこのまま気絶してしまえればと思ったけど、人生なかなかそううまくはいってくれなかった。

 ……三か月間の交流? あの悪夢と? 嘘だと言ってほしい。もういっそ死んだほうがましじゃない? これ。

 私も目をぐるぐるさせて揺れ始めたので母がそれを止めた。

「もちろんあなた一人では会わせない。あちらが来るときには必ず家族を付き添わせるわ。それでも交流を止めることはできないの。それがルールだから」

 ……くそう、さすがドクズ野郎だ。人を守ると見せかけて、いや守るものではあるんだけど、ちゃっかり自分たちにも有利な条件を組み込みやがって。

 今度は怒りに肩を震わせる私に、母は言う。

「でもね、これは決してあなたにとっても悪いことではないのよ」

「どこが?」

 すでに私は死にそうなんですけど。

「だって三か月耐えて番契約を拒否すれば、もうあの方はあなたに近づけないのよ」

 はっと気づいた。確かに母の言うとおりだ。拒否すれば制約魔術がかけられ、二度と接触が許されない。

「そうしたらあなたの悪い夢も見なくなるかもしれないし、何よりあなたが過去から解放される。獣人におびえ、逃げ隠れする生活を送らなくて済むの」

 ……そう。獣人が来るたびに隠れていたのは、単純に獣人が嫌いということに加えていつかまた番として選ばれてしまうかもしれないという恐怖のため。いくらルールがあると言われても、そんなの守るも破るもそいつ次第ではないか。またいつか、あの日のように、何もかもを奪われることが怖い。

 けれど制約魔術がかけられるのであれば。確実な枷がはめられるのだとすれば。

 ……過去を忘れることはできない。獣人は嫌いだし、番は呪いだ。私の傷は消えることはないだろうし、恐らく悪夢を見なくなる日は訪れないだろう。

 だけど。

 だけど、もし、今よりも少しだけでも楽になれるとしたら。心に巣食う恐怖が、ほんの少しでも和らぐとしたら。ドクズ野郎に煩わされない人生が訪れるのならば。……いやまさか、まだ生きてたとは思ってなかったけど。

 三か月だ。あのドクズ野郎と、三か月。はっきり言って気が遠くなりそうなほど嫌だ。考えるだけで血の気が引いて体が震えだす。どっちにしろルール上私にそれを拒むことはできないのだが。逃げるとしたら、また命を絶つ以外の方法はたぶんない。こちらがルールを破った瞬間、あちらがどういう手段に出るかまったくわからないのだから。

 私は震えながら、家族の顔を見た。みんな心配そうに私を見ている。愛しい私の家族たち。

 こんなに早く家族と死に離れたくない。

 ぎゅうっとこぶしを握り締めて、私は覚悟を決めた。

「……わかった。午後、だよね。とりあえず、会う」

「これから三か月よ。頑張りましょうね」

 はきそう。



 間もなく時間であります。

 昼は何も食べられなかった。かなりひどい顔色だったらしく、少し休めと言われてベッドに横になっていたけど眠れるわけもなく吐き気がおさまるわけもなく。もしかしたらこの三か月の間にストレスで死ぬかもしんないと本気で思った。

 時間が迫るとともに体が震えだして止まらなくなった。もうすぐここにドクズ野郎が現れるのだ、同じ空間に来るのだと思うとそれだけで恐怖で泣き出しそうになった。とても居間には下りられず、階段に兄を座らせてそれを盾にすることでかろうじて会話ができるだろう距離を確保した。

 ドアが叩かれた瞬間、冗談抜きで心臓が止まったかと思った。息が止まりかけた私の背中を兄が必死にさすってくれている。父と母が視線を遮るようにドアの前に立ち、そして、開いた。

 私はそっちを見れなかった。がくがくと震える体を抑えるので精いっぱいだったからだ。両親が悪夢とあいさつを交わしている。忌まわしい声が聞こえる。

「……入っても、いいだろうか?」

「ええ。ですが、ここから先へは近づかないでください」

 ドアの近くへ移動させたテーブルまでしか近づかないように母が頼んでいる。複数人の足音がして、そして、

 ――見られている。

 ぞわりと全身が総毛立つ。ぎゅうっと体を縮めてできるだけ兄の陰に隠れているけれど、完全に隠れきれるわけもない。怖い。怖い。怖い。

「……わがつぐっ!」

 …………ん? 今なんか、変な声が……?

 恐る恐る兄の向こうを覗き見る。両親がぽかんとしている。兄もぽかんとしている。テーブルの前には男が三人。向かって右はおそらく虎人で、たぶん監視役の人。この人は驚きに目を見開いてドン引きしている。向かって左は竜人で、きらきらしい容姿の私は見たことがない若い男だ。そして真ん中にいる竜人。今はなぜかわき腹を押さえてかがんでいるそれが、顔も見えないそれが、私の悪夢。の、はず、なんだけど……?

「……お兄ちゃん、何が起こったの?」

 小声で尋ねると、兄は大層困惑した様子で答えた。

「いや……なんか、あの左側にいる人が肘打ちを……」

 なんで?

 妙な雰囲気の中、それをまったく気にかけずに左側の竜人がにっこりと笑った。

「失礼しました。伯父が口を滑らすところでしたので」

 伯父? ということはこの竜人はあれの甥っ子なのか。どうしたらいいのかわからない私たちの前でしばらく悶絶した後、あれがゆっくりと体を起こした。そして仕切りなおすように言う。

「……失礼した。その、お嬢さん」

 お嬢さん!? 誰のこと!? 私!?

 状況に全くついていけずにぽかんとしていた私は、うっかりあれと目を合わせてしまった。

 ……昔とまったく変わることのない深い蒼。しかし変わっていないのは瞳の色だけだった。竜人は総じて優れた容姿を持つ。昔のあれは、今の女の子たちが見たら黄色い悲鳴を上げて場合によっては倒れてしまうくらい美しい(あくまで客観的な評価としてだが)男だったのだが……今も美しくないとは言えないだろうが、なんというか、そういうのを置いといて、一目見たときの印象として……くたびれたおっさん、というのが一番的確と思われた。数百年もたっているのに青年から中年にしかなっていないのも驚きだったが、あの傲慢かつ横暴で常に人を見下し自信に満ち溢れていたドクズ野郎がすっかりしょぼくれている。さっきからわけのわからない状況が続いているのと相まって、私の恐怖は少し薄れたようだった。目が合っても震えるだけで、走って逃げずに済んだのだから。

「先に一つ、聞きたいことがあるのだがいいだろうか?」

 あの悪夢が質問する前にお伺いを立てた!? 私の言葉を何一つ聞こうとしなかったドクズ野郎が!? え、なにこれは新手の悪夢なの?

 驚きに呆然としている私を急かすこともせず、あれは大人しく待っている。私の盾になっている兄がそっと私をつついてくる。

「おい、答えてやれよ」

 私はあわててこくりとうなずいて見せた。

「ありがとう」

 会話が!? 会話が成り立っている!? 私しゃべってないけど、意思の疎通ができてる!? 本当に本物なの!? 実は偽物なんじゃないの!?

 私の中で偽物説が濃厚になってきたところで、あれはゆっくりと口を開いた。

「昨日は突然訪れてすまなかった。昼間この家の近くを通りがかったときにつが……あなたの気配に気づいたのだ。私があなたに会うには届け出が必要だったので、すぐに詰所のある街へ戻り手続きをして戻ってきたらあの時間になってしまっていた」

 やっぱり偽物かもしんない。いや、偽物に違いない。もう意味わかんない。

「日を改めればよかったのだが……信じられなかった。気が逸って……あなたにまたつらい思いをさせてしまった」

 半ば現実逃避をしていた私は、あれの声色が変わったのに気づき体を強張らせた。私が泣き叫んだことを言っているのだろう。そしたら、あれの聞きたいことというのは。

「聞かせてほしい……あなたは、あの時のことを覚えているのだな? 昔のことを……数百年前、私があなたにしたことを」

 ひっ、と息が詰まった。忌まわしい声が、忌まわしい瞳が、忌まわしい過去を引きずり出す。血の気が引いて、再びがくがくと震えだした私を兄が必死になだめてくる。

 口にせずとも、それが答えだった。

「そうか……」

 あれが小さくつぶやいたが、そんなのには構っていられない。兄にしがみつき、とにかく視界からあれを追い出す。今一瞬紛れていた恐怖が息を吹き返して私に襲ってきていた。

 しばらく私の荒い呼吸音だけが響いていた。それを破ったのは、あれの甥だった。

「伯父上!?」

 ほかのみんなも息を呑む音がした。兄が固まってしまったので、何事かとそっと視線を上げた私は、何度目かもわからない驚愕にぶん殴られた。

 あのドクズ野郎が、床に両膝をつき、私に向かって頭を下げている。それは本来貴人に向かってなされるべき最上の礼。受けたことは数多あれど、向けたことは数えるほどであろうそれを、私に向かってしているのだ、あの男が。

「な……にを……」

「すまなかった」

 言われた言葉に息を呑む。

「どれほどの言葉を尽くしても、私があなたにしたことが許されることはないだろう。それでも言わせてほしい。すまなかった」

 私の唇がわななく。何かを言おうとしたのか、自分でもわからない。

「人には番が分からないと知っていたのに理解していなかった。王子である自分が望んだのだから喜んで受け入れるべきだとの傲慢もあった。あなたがあれほど拒絶し、家に帰ることを望んでいたのにまったく取り合わなかった。あなたが言葉を尽くしていたのにそれを聞かなかった。どうせ駆け引きだろうと思い込んだまま、あなたの心をないがしろにし続けた……」

 何をしても逃げられなかった。何を言っても伝わらなかった。私という人格を認めてもらえなかった。あの時私は竜人のお人形にされようとしていた。

「……あなたが亡くなって、私は狂った。契約をする前に番を失った獣人はそのほとんどが発狂し、後を追うように命を絶つ。当時私たちの国でも問題視されつつあったそのことを知っていたのに、私は自らにそれが降りかかるとは考えもしなかったのだ。だが私は死ねなかった。拘束され、城の奥へと隠された。そこで私は長い嘆きの時を過ごした……ああ、そんなことはどうでもいい。

 数十年ほどが経過して、私は突然正気を取り戻した。いまだになぜかはわからない。番のいない世界は絶望しかないと知っていたのに。久しぶりの世界は、しかし狂を発する前と何ら変わることはなかった。人は連れ去られ、獣人は拒まれた。なぜ拒まれるかもわからぬまま」

 静かに、静かに懺悔が続けられる。

「ゆえに私は王になった。これ以上の悲劇を引き起こさぬために。番を失った愚かな竜人として。

 あなたが言っていた言葉を必死に思い出し、それをもとにルールを定めた。人には番が分からない。そのことを知らしめ、理解させ、徹底させた。定着するには時間がかかったが、もとより寿命の長い私には時間だけはあったのでな。ようやく守られるようになって、私は王を退いた。

 それからは世界の各地を巡り、ルールが守られているかを監視する役目を請け負った。ここへ来たのはまったくの偶然だったが……再び、あなたに巡り合う奇跡に恵まれた。あなたにとっては不幸なことだろう。本当にすまなかった」

 ああ、やっとだ。やっと言葉が通じた。私の思いが通じたのだ。あれほど拒絶しても、言葉を尽くしても何も伝わらなかった。私の死を経て、やっとだ。

 “番探しのルール”。人を守るための枷。私は死んだけれど、私の言葉が生かされている。

 けれど。

「……るさない」

 私は勇気を振り絞って言葉を発した。かすれてしまったけれど、聞こえているはずだ。頭を垂れたままの男は黙って聞いている。

「ゆるさない。私は、あんたを、絶対にゆるさない。いくら謝られても、私の前の家族は戻ってこない。奪われた時間は戻ってこない。未来に希望をもたらしたとしても、過去の絶望はなかったことになんかならない」

 奇跡が起こらない限り、私の傷がなかったことになどならない。そして奇跡は起こらない。

「私はあんたを信じない。あんたの言葉が本心かどうか、信じることなんかできない。私をだましてまたあの部屋に閉じ込めようとしているかもしれないし、契約を交わした後に豹変するのかもしれないじゃない。私はあんたを信じないし、許さない」

「ああ……それでいい」

 懺悔を終えた男の声は、どこか安堵がにじんでいて私ははらわたが煮えくり返るようだった。

 やはりドクズはドクズのままだった。前だけでなく今も私の前に現れて。勝手に自分の事情を語って勝手に楽になりやがった。

 私が強い目で睨みつけても男は礼をとったまま動かない。困り果てた甥っ子が助けを求めるように両親を見て、母が私のほうへ、父があの男のほうへと向かった。

「……今日は、ここまでにしましょう? 長く話していたし、宿に戻ってもらいましょう」

「……うん」

「娘もこう言っています。どうか立ち上がってください」

 父に促されて男は立ち上がった。甥っ子がほっとしたように笑うのがまたいらいらする。勝手な奴らだよ、本当に。

 睨みつけるままの私と視線を合わせ、くたびれたおっさんはうっすらと笑ってさえ見せた。

「……お嬢さん。あなたにはまた辛い思いをさせてしまう。けれど、これが最後だ。最後の思い出を作らせてほしい」

 引く気はやはり無いようだ。次は二日後と定めて、三人は帰って行った。ドアが閉められて少し経つと私はくたくたと倒れてしまった。

「大丈夫!?」

「だいじょぶ……力抜けた……」

 とてもとても緊張した。もしかしたらまたあいつに家族を奪われてしまうのではないかと気が気ではなかったのだ。

 両親が優しく抱きしめてくれる。兄がそっと頭をなでてくれた。安心できる居場所で、自然と涙がこぼれだす。

「頑張ったね。本当に、よく頑張ったね」

「ああ、さすが俺たちの娘だ」

「おれの妹でもあるからな」

 優しい家族。今の私の大切なもの。奪われてなるものか。奪わせてなるものか。

 三か月。あとそれだけ耐えれば、あの男と縁を切ることができる。話をするまでは無理かと思っていたが、この様子ならどうにか耐えられそうな気がする。だって私は一人じゃない。

「お父さん、お母さん、お兄ちゃん。大好きだよ」

 そうして、私が解放されるための戦いが始まった。

ジャンル分けに悩みます……

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― 新着の感想 ―
こんなに拒否されてるのに最後の思い出〜とか言って3ヶ月交流を持とうとするところが嫌われるんだよな…
[良い点] 結末を読者に委ねた良い短編。 続きがあれば、ほだされて番になっても(娘の内心はどうあれ)断った結果先王が今度こそ自殺しても、 現王(甥)がちょっかいかけてもかけなくても感想欄荒れたでしょう…
[一言] なんか最終的に絆される個人的にはバッドエンドな作品が多いから頑なな主人公には頑張ってもらいたい
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