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現代詩の見失っているものとは瑞々しき言葉の文脈である

本来性を見失った現代詩は当分彷徨うだろう。

 詩はもっとも言語を反映する。つまり翻訳詩は翻訳者の詩である。だから、日本語の詩とは日本語を解する人たちにしか理解されえない。それはつまり、詩が軽んじられている現在、日本語が軽んじられていることを示す。言語とは文化に応じ、そして文化は風土に培う。ならば、現在風土が重じられているか。肉体とは風土より発する。肉体を全ての人間は有するように、風土を全ての人間が有する。つまり、日本という風土を全ての詩が有する。これが軽んじられている。そして、詩が軽んじられていることはつまり、我ら自身が軽んじられているということ示す。誰に。それは、文化にである。そして日本そのものに。我らが我らを軽んじている。父母を、祖先を軽んじている。これが現代詩の病の源である。

 原点に回帰せよ。言葉の源に回帰せよ。我らの源に回帰せよ。それは水である。雲であり、山の緑である。風の涼やかさであり、雨の憂鬱である。照りの渇きであり、挨拶を交わす気安さである。揮発してもなお水蒸気として留まり、やがて降る雫への信頼である。これが日本語の源である。失われない循環する湿潤の辞。絶たぬ言葉尻。言い切らぬ余韻。情緒こそが水の余韻。そして人体のほとんどは水で出来ているのだ。身体が情緒を欲している。瑞々しき言葉の文脈。これこそが自然なる日本語の流れである。

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