主人公は河童じゃない
『通行料』を払い、元いた世界に戻る。
具体的には、絶命してから流されてきた濁流を、今度は流れに逆らって登って行くことになった。赤く光る社を離れ、青く輝く長い階段を降りる。俺はパンダに連れられて、再び暗闇の中を歩いていた。
どれくらい歩いただろうか。俺はふと顔を上げた。前方左手の方に、青白い光がぼんやりと浮かぶ。あっちは最初に俺がここへ来た方……トカゲの兵士と、大量の行列が出来ていた……断崖絶壁の方だろう。パンダはそっちではなく、右手の方へ歩を進めた。
「蜥兵というのは」
前方を歩いていたパンダが声を上げた。あまりにも暗すぎて、目と鼻の先の視界ですら危うい。道中、俺はもう、ほとんど何も見えていないに近かった。ただ微かに蠢く闇の「揺らぎ」と、彼の声を頼りに、俺は必死にパンダについて行った。
「元々は君と同じ、人間だ。もっと残酷な言い方をすれば、今君の世界を荒らし回っている、クラウンたちの犠牲者ということになる」
犠牲者……。
俺は黙って声に耳を傾けた。あの行列は、俺のように首を切られるなどして亡くなった、S市の市民なのだろう。何となく見知った顔が並んでいると思っていた。
「本来なら、亡くなった方々はしかるべき場所で安らかに眠りにつくのが理なんだが……転生者たちは、墓荒らしのように人々の魂を無理やり呼び起こし、彼らの【肉体】や【関係性】を奪い、己に都合の良い兵士として使役している」
パンダは、出来るだけ抑揚を抑えた声でそう告げた。だが五感を閉ざされた闇の中では、むしろはっきりと、彼の言葉に込められた怒気が伝わって来た。俺は背筋が寒くなった。
つまり街を跋扈していたあのトカゲの兵士たちは……自分たちの家族や友人かも知れないということだ。俺はつい数日前(もうとっくに昔のことのように思える)テレビ画面に映された、ペシャンコに潰れたS市の県庁を思い出していた。あの時亡くなった職員たちが今度は逆に、敵の蜥兵となって操られ、守るべき市民を襲っているのだとしたら……。
「助けられるの……?」
いつの間にか、俺の声は震えていた。考えていたのは、父さんのことだ。もしかしたらもう、死んでいるのかもしれない。そしてもしかしたら……最悪の考えが頭を過ぎり、俺は急いで頭を振った。
「誰にしろ、一度払った『通行料』が戻ってくることは、残念ながら二度とない」
「そんな……!」
「仮に犠牲を払って生き返ったとしても、だ。それはその人から何か『大事なもの』が失われた、元の個体とは全く別の生命体だ。同じではない」
そこでパンダは不意に立ち止まった。俺は思わず彼の背中にぶつかった。
「……助けられなかった人々を嘆く時間も確かに必要だけれども。今は、まだ助けられる人々に尽力する方が先だと思うが、どうかね?」
「……はい」
その言葉は、大事な人を失いかけている俺にとっては、とても冷たく、重く感じられた。獣人族の境遇を知らなければ、到底受け入れられなかった言葉だ。だが、無理やりにでも前を向くためには、必要な一言でもあった。
「あの行列を何とかする手立ては、今のところない。魂の行列は、人質を取られたにも等しい。仮に蜥兵を倒しても、あっちの世界から無尽蔵に補填されるからね。つまりクラウンは、何の『通行料』も負わずに、他人の魂をいくらでも転生させられるんだ。何か、あるはずだ……何か。クラウンがそういう『力』を手にするきっかけになった、何か……『道具』のようなものが」
「『道具』……魔法の杖とか、力を秘めた宝石みたいなものですか?」
「そうだ。それを奪えば、あるいは彼を止めることができるかもしれない。今はそれに賭けるしかない」
パンダは唸るように言った。俺は俯いたまま唇を噛んだ。
つまり、一度蜥兵にされると、もう二度と元の人間には戻れないのだ。どうか、どうかあの行列の中に、自分の家族や友人の姿がないことを祈るばかりだ。
「……先を急ごう」
パンダが再び歩き出した。迷っている時間もあまりなさそうだった。こうしている間にも、どんどん市民は選別され、蜥兵が量産されているだろう。クラウンたちの『転生方法』……転生させる道具……を抑えなければ、この負の転生は止められないと言うことらしい。
だが……思い返してみても、彼らが何かしらの『道具』を使っていた様子は、一度もなかった。『チート』にしろ、ただ、手を掲げていただけだ。もしかしたら転生も、彼らにとってはその『チート』の一つに過ぎないのかもしれない。
だとしたら……自分なんかに勝ち目はあるのだろうか?
何だかとんでもない無謀な戦いに挑んでいる気がして、俺は途方に暮れた。
「着いたぞ。ここだ」
それから、どれくらい歩いたのか分からない。気がつくと俺の耳に、ごうごうと水の流れのような音が聞こえてきた。相変わらず視界は悪かったが、目の前に微かにぼんやりと、今度は黄色い灯りがあった。俺の身長の二倍はあろうかと言う大きな灯篭の中で、黄色い灯りがゆらゆらと揺らめいている。その下に、一隻の船が闇の中に浮かんで見えた。黄色い灯篭と、船のそばに”誰か”が突っ立っていた。
俺は目を細めた。背丈だけなら、子供のようだ。だが明らかに人間ではない。また獣人族の誰かだろうかと思った。手に木製の長い櫂を握りしめている。背の低い、腰の曲がった、何だか奇妙な生き物だった。
「この子を渡してもらいたい」
「旦那……毎度あり。へへ……」
パンダがそう言うと、その奇怪な生物は俺をちらりと見て、下卑た笑い声を上げた。そばまで近づいて、俺はその生き物をまじまじと見つめた。口には黄色いくちばしがあり、全身を不気味なピンクの鱗が覆っている。俺は昔『妖怪大辞典』で見た、『河童』の挿絵を思い出していた。
よく見ると船は、濁流の上に浮かんでいた。俺をここまで運んできた、例の濁流だ。
どうやらこの船で元いた世界へ戻るらしい。死後の世界で大河を渡るだなんて、何だか『三途の川』みたいな話だ。この桃色の河童は言うなれば、船頭と言ったところだろうか。パンダが俺を振り返った。
「私はここまでだ。後はこの蕃茄が君を渡してくれる」
俺は頷いた。パンダに背中を押され、恐る恐る船の上に足を踏み入れる。船は木製で、所々かなり痛んでいた。濁流の上はかなり揺れが激しく、俺は慌ててへりにしがみついた。
「蕃茄」
「へい」
「落とすなよ」
「ゲッヘッヘへェ……!!」
どうやらパンダとこの河童は、顔なじみのようだ。蕃茄と呼ばれた河童は、イエスともノーとも答えず、嗄れた笑い声を上げた。俺は急に不安に駆られた。そこはたとえリップ・サービスでも、イエスと言うべきだろう。こっちは身を切って『通行料』を払っているのに、元いた世界に辿り着けないなんてこともあるのだろうか。
「お客さん」
「……!?」
蕃茄は灯篭から黄色い灯を取り出し、それを皿ごと船の先頭に置いた。それから俺の方を振り返り、ニヤッと笑った。
「地球から来たってなァ」
「え? あぁ……」
地球から来たってのもおかしな言葉だ。
「地球のどこだい?」
「S市……日本だよ」
「アレまぁ、日本かい。だったらアレだろ。『三途の川』。知ってますかい? 『三途の川』ってなァ……」
蕃茄が船を漕ぎ出した。元々二、三人しか乗れないような、小さな船だ。俺は身を縮こまらせて、道中延々と蕃茄の話を聞くしかなかった。激しい流れに逆らい、船はゆっくりと進んで行った。
「川幅が、四〇〇キロはあるんだってサァ。途中で落っこちたりしたら、大変だネェ。ゲッヘッヘェ……!!」
……何ともお喋りな河童だった。それから俺は、川の底には毒蛇がうじゃうじゃいるだの、落ちたら岸に辿り着くまで泳ぎ続けなければならないだの、散々三途の川について脅されながら進んだ。