主人公は躊躇わない
陽は落ちていた。
細く長く伸びた電柱の影が、塀の影に飲み込まれて、やがてそれよりも大きな夜の影にすっぽりと包まれて、闇の中へと消えて行った。ポツポツと、申し訳なさそうに灯った古びた電灯が、橙色の光を俺の足元に零していた。
思い出せない……一体何を?
……ダメだ。考えれば考えるほど、頭がぼぅっとなって、何も思い浮かばない。俺は諦めて肩をすくめた。無理だ。何かきっかけがなくちゃ。何か、強烈なインパクトのある出来事とか、記憶の引っかかりになるものが……。
強烈な、何か。
ふと視線を感じて立ち止まった。電柱の影に、何かいる。野良ラマだった。途方に暮れた俺を、白い野良ラマが、物珍しそうにじーっとこっちを見ていた。
野良のラマ……別に珍しくもない、日本じゃ何処でも見られる『普通』の光景だ。夜になると、野良蜥蜴なんかも暴れ出すと聞く。とにかく急いで帰って、早く休んだ方が良さそうだ。
風が鳴った。
急に背筋に寒気を感じて、俺は急いでその場を走り去った。角を曲がるまで、白い野良ラマは俺をじぃっと見つめたままだった。
家に帰るなり、俺は飯もろくに食わずにベッドに突っ伏した。中は真っ暗だったが、電気をつけようとも思わなかった。部屋は静かで、がらんとしていた。家族はいない。蜥蜴たちに殺されたのだ。
そう、だから俺は蜥蜴を憎んでいる。
それだけははっきり思い出せる。
もうそれで十分なんじゃないか? それだけでいい。俺は蜥蜴が憎い。蜥蜴が憎い。憎い、憎い……
『大抵の者は、この『橋』ではなく『黄泉の国』だとか、元いた世界で信じられる死後の世界へと送られる。しかし彼は強大な力で人々の運命を捻じ曲げ……』
……ふと声がした。暗がりの中で、テレビ画面が光っていた。いつの間に点いたんだろうか? テレビから、犬の格好をしたアニメのキャラクターが、何やら熱のこもった調子で視聴者に喋っている。
『つまり、こういう話さ。取引をしないか。我々が橋渡しをするから、君は元いた世界へと戻り、世界を救ってもらえないだろうか?』
俺はフッと口元に乾いた笑みを浮かべ、寝返りを打った。”世界を救う”だとか、随分と大げさな話だ。こっちは毎日生きているだけでも大変なのに……テレビを消した。犬のキャラはまだ何か言いたそうだったが、画面はたちまち真っ暗になった。俺は再び寝っ転がって、静かに、湧いてきた憎しみの種を育て続けた。
「おはよう」
「おはよ」
それから一週間後。
例の赤い蜥蜴・『アルク』を狩る日がやってきた。対象は近隣の公園や裏山を拠点にしているらしい。地の利を考え、人気のない公園に追い詰めることにした。武器は
流水と道星が刀、
俺が弓、
そして心は、今日は医療キットと大きな盾を持って来ていた。四人パーティだ。
裏山は住んでいる地区から北の方へ、車で三十分、かかるかかからないかくらいの所にあった。みんなでバスに乗り込んだ。弁当や水筒も持参だ。流水と心がお揃いの迷彩服を着ていたので、俺の殺気はさらに高まった。何かを駆除するにはとても良い精神状態だ。空は晴れ渡り、白い雲が気持ちよさそうに水色のキャンバスを泳いでいる。絶好の駆除日和だった。
俺は家から持って来た弓を眺めた。全長が七尺くらいある、黒い、大きな弓だった。道星や心から、いつも使っていた愛用の武器……と言われても、全く実感がなかった。流水は刃こぼれのない綺麗な日本刀を担いでいた。
刀……とは言え、素人がやたらめったら振り回しても、中々ダメージは入らない。ましてや硬い鱗に覆われた蜥蜴ならなおさらだ。
例えば、心臓。
心臓を刺そうと思ったら、真っ直ぐ刃物を突き出しても意味がない。肋骨や、肺が守っているからだ。刃物は骨に当たって中々心臓には届かない。正面ではなく、みぞおちの辺りから、刃物を上に向けて、突き上げるようにして心臓をえぐる。
刺し傷一つ取って見ても、プロの犯行は、それだけではっきり違うものだ。
「へえ、そんなこと良く知ってるね」
移動しながら、俺の話に、流水が目を丸くした。
「ああ、パンダがな、いつだったか教えてくれたんだよ……」
「パンダ??」
その言葉に、今度は心が目を見開いた。
「パンダって?」
「え?」
俺は戸惑った。パンダ? パンダってなんだ? 自分の口をついて出てきた言葉だったのに、自分でも意味が分からなかった。
「さぁ……なんだろう?」
「動物の?」
「多分……」
「何よ。石動くんが言い出したんじゃない。変なの」
心が笑った。俺は無理やり笑おうとして、奇妙な形に顔を歪めた。
また、だ。
また思い出せない。ぼんやりと頭の中が霞みがかったような、記憶に蓋をされているような、とにかく無性にもどかしかった。
「オイ」
その時、道星が俺の顔を覗き込んで、トン、と額を小突いた。
「降りようぜ」
道星が白い歯を見せた。顔が近い。思わずその瞳に視線が吸い込まれた。何故か、急に耳鳴りが酷くなる。気がつくと、バスが停まっていた。
「あ……うん」
……何を考えていたんだっけ? とにかく、目的地に着いたようだ。俺は慌てて席を立ち、みんなの後を追った。
裏山は一時間もあれば頂上に着く小さな山だった。頂上には展望台……と言っても、ベンチが数基、申し訳程度に並べてあるだけだったが……があり、S市南に広がっている、S海を一望できる。山の近くには神社もあった。
『ボランティア』は裏山の頂上から、徐々に網を狭めて、最終的には麓にある公園に追い込む予定だった。陽が昇り切ると、こちらの消耗も激しくなる。出来れば午前中までに、少なくとも蜥蜴発見までは至りたかった。頂上まではハイキングを楽しんで、それから俺たちは二手に分かれ、裏山を探し回った。流水と心、それから俺と道星のコンビだ。良い組み分けだ。おかげで俺の殺気は最高潮に達した。やはり『ボランティア』に欠かせないのは、殺気だ。
「頑張ろうぜ。神のご加護がありますように」
「あぁ、うん」
道星が握り拳を突き出してきたので、俺は少し乱暴にグータッチした。それからはお互い沈黙し、草木が生い茂る山の斜面に掛かりっきりになった。
どれくらい時間が過ぎただろうか。軽く三時間くらい経ったかと思ったが、時計を見ると、まだ一時間も経っていなかった。太陽は中天付近に腰を据えていた。俺はサーモグラフィーを睨みつつ、額に滲む汗をぬぐった。蜥蜴は変温動物だから、中々見分けが付きにくい。山はそこそこ涼しかったが、フル装備で捜索するのは、ちょっと歩くだけでも大仕事だった。
「俺、あっちの方見てくる」
「あぁ」
「勇者様」
道星がニッと白い歯を見せた。
「何かあったらすぐ呼べよ、俺たち仲間なんだからな」
「うん」
俺は苦笑した。全く、神のご加護だとか勇者だとか、こいつも随分と大げさな奴だ。蜥蜴の駆除なんて、毎日の宿題と同じくらい『普通』のことなのに。だけどその暑っ苦しさが、俺は昔から嫌いではなかった。
道星が岩場の向こうに姿を消した、その時だった。
「……ちゃん」
鼓膜が何かを捉えた。不意に林の向こうにかすかに声がして、俺は動きを止めた。
「……いちゃん」
ガサガサ……と草むらが揺れる。一気に緊張感が高まった。俺は生唾を飲み込んで、ゆっくりと音のする方向へ弓を構えた。
「お兄ちゃん! 僕だよ、アルクだよ!」
出た……!
ほんの数メートル先の木々の間。飛び出してきたのは、駆除目標の赤い蜥蜴だった。まだ幼体で、俺の胸の辺りまでしか上背がない。俺は大声で叫んだ。
「勇気! こっちだ! 出た!」
「待って! 誰も呼ばないで、僕の話を聞いて……」
「勇気……流水と心にも連絡しろ! 『アルク』だ!」
「そう、僕だよ! お兄ちゃん……どうしたの?」
俺は問答無用で矢を放った。矢は唸りを上げて飛んで行ったが、すんでのところで躱された。素早い動きだ。俺は唇を噛んだ。蜥蜴のほほに、赤い直線が滲んでいる。アルクが驚いたように目を見開いた。
「やめて! やめてよ! どうして僕を撃つの!?」
「こっちだ! 勇気、早くきてくれ!」
俺は大声で仲間を呼び続けた。素早く狙いを修正し、二の矢、三の矢を放つ。今度は命中。手の付け根、足の付け根に刺さった矢で、幼体がよろめいた。思わぬ邂逅に、心臓が早鐘を打つ。足場も視界も悪い山の中で戦うのは、危険も大きい。だがどうした訳か、相手は反撃もせず、ただ突っ立って戸惑っていた。好機だ。この調子なら、一気にカタが付きそうだった。赤い蜥蜴が、目に涙を浮かべて訴えてきた。
「何で……お兄ちゃん、僕ら」
「どうした!?」
その時だった。道星が岩場の向こうから戻ってきた。アルクの姿を見るなり、道星は全てを承知したように息を飲み、そのまま刀を抜いて蜥蜴の子に斬りかかった。
「お兄ちゃん、僕ら、仲間だったよね……!?」
「勇者様!」
「おう!」
斬りかかりながら、道星が叫んだ。アルクは避けなかった。蜥蜴の右肩口に、その赤く硬い鱗に、刃が弾かれて跳ねる。小さく火花が散った。アルクがよろめく。仲間のアシスト。その一瞬の隙を付いて、俺は矢を握りしめ、無防備に曝け出された白い腹めがけて突進した。
「うおおおオォォォォおおおッ!!」
「お、お兄ちゃん……」
馬乗りになった。赤い蜥蜴の子が、涙目になって俺を見上げていた。目が泳いでいる。予想に反して、蜥蜴からの抵抗はあまりなかった。不安。恐れ。驚き……まだ事態を把握できていない。どうしてこんな状況になったのか、さっぱり分からない。そんな表情だった。その喉元に、俺はゆっくりと矢の先端を押し当てた。勝負ありだ。お互い息が荒い。玉のようになった汗が、ダラダラと俺の頬を伝った。アルクが声を震わせた。
「や、やめて……殺さないで」
「殺せ!」
隣で、道星が素早く叫んだ。近くで野鳥が飛び立つ、けたたましい羽音が聞こえた。
「今すぐ殺せ! そいつは敵だ!」
「あぁ、うん」
俺は頷いた。そうだ。蜥蜴の子は、敵だ。
「仕留めろ、勇者様! やったな、お前の手柄だ!」
「あぁ、うん」
「殺さないで……お兄ちゃん、お願い……」
「殺せ! 殺せよ! どうせ転生するだけなんだからよ!」
「あぁ、うん……」
そうだ。どうせ殺しても、転生するだけだ。俺は矢を振り被った。赤い鱗が恐怖に戦慄く。俺は顔をしかめた。
「どうした!? 何戸惑ってる!?」
道星が苛立ったように唸った。
「お前は蜥蜴が憎いんだろう!? 家族を殺されたんだぞ! 復讐して何が悪い!? 自分の家族を殺されたんだから、お前だって、腹いせに蜥蜴の子を殺したっていいんだ!」
「あぁ、うん……」
そうだ。殺してもいい……敵は、殺してもいい。違ったっけ? いや、それが『普通』のはずだ。それが『正解』なんだ。でも……でも、どうしてだろう? 手が震える。また、だ。またこの、違和感。俺は、俺は何か大切なものを忘れているような……。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「あぁ……」
太陽の光が、雲で隠れる。今度は俺の目が泳ぐ番だった。転生。赤い鱗。蜥蜴の子……ダメだ。俺は頭を振った。やっぱり、思い出せない。記憶は霞んだままだった。道星の叫び声が、わんわんと頭の中で木霊する。殺そう。そう思った。何か、強烈なインパクトのあるものでもなければ、記憶の蓋は……。
「どうした!? 殺せって! 神のご加護を失ってもいいのか!?」
「髪を失う……!?」
その瞬間。
俺の脳裏に、裏切り者の赤い河童・蕃茄の姿がありありと思い出された。




