主人公は普通じゃない
暗闇の中を、船が進む。
波は思ったほど荒れてはいなかった。ただ、視界がすこぶる悪い。進むほどに、自分の手元さえ見えなくなり、次第に方向感覚が狂わされて行く。しばらくしないうちに、俺は一体前に進んでいるのか、後ろに戻っているのか、全く分からなくなってしまった。
「オイ! 本当に道分かってるんだろうなお前!?」
ゆらゆらと揺れる船底は、決して気持ちのいい乗り心地ではなかった。必死に船の端にしがみつきながら、俺は蕃茄に叫んだ。
「わーってるって……ここには何回も来てンだ」
前方から河童の間延びした笑い声が届く。
「安心しろ。二、三回くらいしか、ヤラかしたこタァ無ぇよ」
「何ヤラかしたんだよ!?」
返事は聞けなかった。次の瞬間、岩か何かに乗り上げたのか、船がバラバラになるんじゃないかってほど大きく揺れた。
「うわあぁあッ!?」
「ぎゃああぁああっ!?」
「あぁ……こりゃあ……」
洗濯機の中に放り込まれたみたいに、船がぐるぐると回転する。蕃茄が小さく舌打ちした。急に勢いを増した波にさらわれ、前後左右が激しく入れ替わる。河童の声が、今度は上の方から声が聞こえてきた。
「……ヤラかしちまった方かなア」
「オイッ!?」
だから俺は嫌だと言ったのに!
ロケットみたいに船から発射されそうになり、俺は叫び声を上げた。
揺れは進むたびに激しくなって行った。船底を岩が打つたび、隣にいたアルクは痛そうに尻を抑え飛び上がった(「尻尾がないから直に響くんだよ!」)。痛いのは俺も同じだ。何より、寒い。黄色い灯火が一つ、船の先で揺らめいてはいるが、それだけではとても暖を取るには足りなかった。俺は風呂上がりの自分を恨んだ。果たしてどれくらい時間が経ったのか、今自分たちがどの辺りにいるのかさえ分からなくなる。縦軸と横軸を奪われ、視覚も聴覚も、全てが闇の中に溶けて混ざり合って行く。いつ終わるとも知れない航路の果てに……
「……なんだ!?」
……やがて遠くの方に、ぼんやりと光がちらつき始めた。赤い光だ。真っ黒の中に浮かぶ一点の赤い光は、遠目にも良く目立つ。あの社の太陽に似た雰囲気があり、一瞬、俺はパンダの元に戻って来てしまったのかと思った。
だけどよくよく見ると、それは社とは全く別のものだった。
川のそばに、赤い光が煌々と輝いている。上へ上へと立ち上るそれは、焚き火にも似ていた。眩しさに吸い込まれるように目を凝らしていると、次に聴覚が戻って来た。聞こえてくる音は、決して心地良い耳触りではなく……それは、誰かの悲鳴だった。
気がついた瞬間、俺はぎょっと体を強張らせた。悲鳴はだんだん大きくなって行った。誰かが川岸で、地獄の業火に燃やされている。
視界の先で、磔にされた人々が業火の赤い舌に撫で回され、断末魔をあげていた。一人、二人……いやよく見ると何十人、何百人と叫んでいる。俺は耳を塞いだ。船から見えていた赤い一点は、地獄の拷問場所だったのだ。
俺は呆気に取られつつ、初めて目の当たりにしたその地獄から目が離せなかった。
蝋燭のように地面に突き立てられた杭に、素っ裸の人々が突き刺さっている。
ちょうど囲炉裏で焼く魚のように、口から杭を通され、腹の近くを貫通して宙ぶらりんにされていた。
男も女も、老いも若きも関係ない。
ほとんどが焦げて、炭のようになっていた。
皮膚も骨も焼けただれ、もはや原型を留めていない者も少なくない。
焦げた肉の匂いが鼻の奥にツンと突き刺さり、俺は顔をしかめた。
慟哭、黒煙、絶叫……。
彼らの足元には、容赦なく火が放たれ、赤く見えていたのはその炎だった。
死後の世界に死の概念はない。
彼らは死ぬことも許されず、夜通し焼かれ続けているのだろうか。
さらにその周りで、黒いコートを身にまとった骸骨たちがたむろしていた。
どう見ても死神にしか見えないその骸骨の看守たちは、手に長い槍や鎌を構え、嬉しそうに嗤っていた。その周囲を、闇に紛れて小さな黒い影が蠢いている。どうやら屍肉を狙った鴉や野犬のようだった。獣たちは杭の周りを走り回り、焼けた人々を貪り喰っていた。意識を保ったまま体を噛み千切られ、獣の胃の中に収まっているのは、どんな気分なんだろう。俺はゾッと背筋を凍らせた。
「う……!」
俺は思わず顔を逸らした。子供の頃絵本に載っていたような『地獄絵図』が、その本物が、今自分の目の前にあった。
「ねえ……」
燃え盛る炎に目を細め、隣でアルクが囁いた。皮膚を突き刺すような熱さに、目を開けていられない。阿鼻叫喚を前に、さすがにアルクも気味が悪そうにしていた。
「あの人たち、悪いことしたの? だからあんな目に遭ってるの?」
「悪いこと?」
船の先で、蕃茄が鼻先を擦り、せせら笑った。
「何言ってんだ。アイツら別に何にも悪いことなんかしてネェよ」
「じゃあなんで……」
「お前ラの世界じゃ、理由がないと人を燃やしちゃいけないのか?」
蕃茄は不思議そうに首を傾げた。当たり前じゃないか。ここは地獄だぞ。理由なんていらない。面白半分に人を炎上させて何が悪い。これが地獄の平常運転、と言った河童の顔がそう語っていた。その目はゾッとするほど暗かった。地獄の一端を垣間見た気がして、俺は思わず目を逸らした。
身を焼かれる苦痛よりも、そのためらいの無さに、俺は心底寒気を覚えた。
しばらく言葉を失っていると、隣からチロチロと、地獄の業火がその舌先を船の上まで伸ばして来た。これ以上ここにいたら、一緒に燃やされてしまう。丸焦げの河童巻きになってはかなわないと、蕃茄は慌てて船を漕ぎ出した。
静まり返った船の上に、骸骨看守の嗤い声が、後ろ髪を引くように縋って来る。俺は怖くて、振り返れなかった。小刻みに震える手で、必死に船の端を握りしめていた。
船が先へと進み出す。
ケタケタと響く嗤い声も、人々の悲鳴も、再びその口を開いた底知れない闇の腹の中に飲まれていき、次第に聞こえなくなっていった。
それからどれくらい経っただろうか。
次に見えて来たのは、黄色い光だった。
近づくと、大勢の人々が集まり、取っ組み合っているのが見えた。
人だけでなく、獣も、家具も……どう見ても家具としか思えない。付喪神的な存在なのだろうか? ……それぞれの世界から集まった、多種多様な人種が、各々武器を取り攻撃し合っていた。ただし、聞こえて来たのは悲鳴ではなく、歓声だった。処刑場の次に現れたのは、闘技場のような場所だった。
地鳴りがした。四、五メートルはあろうかと言う一つ目の巨人が、背丈と同じくらいの金棒を振り回し、足元に集まった人々をなぎ倒していく。上空からは怪鳥が舞い降り、逃げ惑う人々を巨大な嘴の中に放り込んでいく。恐竜、エイリアン、はたまた巨大戦艦まで……圧巻だった。見上げているだけで、首が痛くなって来る。巨大生物が、意思を持った建造物が……ありとあらゆる種族が、闘技場の中で嬉々として大暴れしていた。
「アイツらは、正しいことをしてるのサ」
「正しいこと?」
道中、黄色い闘技場のそばを通り抜ける間、蕃茄が解説した。
「そうサ。自分が絶対に正しいと……お互いそう思ってる。間違ってるのは相手の方だから、ああやっていつまでも争ってんだ」
「…………」
俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。あの世の闘技場……彼らはここで死ぬこともなく、未来永劫戦い続けているようだ。黄色く見えたのは、彼らを取り囲む照明の光だと知った。四角く仕切られた光の中で、人々が争っている。
「ケッ、正義感の強いお方だこって。元いた世界じゃ勇者だか英雄だか知らねェが、地獄じゃ真っ先に嫌われるタイプだぜ」
「俺を見て言うなよ」
「何だかみんな、嬉しそう……」
アルクがポツリと呟いた。
見ているうちに、どこかで爆弾が破裂した。大気の震えが船の上まで伝わって来る。たちまち爆風の近くにいた人々が木っ端微塵になり、それを見た観衆から歓声が上がる。そこら中で血が飛び交い、犠牲者の『山』が積み重なって行く。闘技場は凄惨たる様子だった。犠牲者を助けようと、元勇者たちが我先にと群がって、さらに大きな『土砂崩れ』が起こっている。先ほどの赤い地獄とは違い、武器を取る人々に苦痛や恐怖の表情は見られない。むしろ戦場には笑い声が絶えなかった。
俺はふと、パンダから聞かされていた話を思い出していた。
……『戦う』ことには一種の興奮や愉しみが伴う。ただ、その一面に囚われ過ぎると君は延々と獲物を探し続けることになるぞ……戦いが終わったら、また次の戦い、そしてまた次の戦いへと。仮に敵が全滅しても、君はまた新たな仮想敵を勝手に捻り出し、そして戦場に身を投じるだろう……。
……もしかしたらパンダが言っていたのは、この黄色い地獄のことなのかも知れない。そう思った時、爆風で船が横に流された。見ている間に、手足が吹き飛んだ机がよろよろと起き上がったかと思うと、もう一度人々の輪の中に飛び込んで行く。ここにいる人は、みんな同じだった。どれだけ傷つこうが、戦いをやめない。戦うことが好きなのだ。自分たちの正義を、疑いもしない……。
「自由のために!」
「祖国のために!」
「正義のために!」
そこら中で叫び声が聞こえる。全員が、何かのために必死に戦っていた。
「みんな言ってる事は正しいよ。あの連中は、誰だって正しいことのために戦ってンのサ。だけどな……」
蕃茄が吐き捨てた。
「だけど理想ッてのは、ああやって誰かの顔を踏み潰しながら謳うもんじゃねェだろうによォ」
「…………」
また何処かで叫び声がして、そしてまた、何処かで骨の砕ける音がした。
「行くぞ」
蕃茄が船を漕ぎ出した。後ろの方で爆発音がして、大きな歓声が上がった。人々の笑い声も、眩いばかりの閃光の束も、やがて目の前の闇が何もかも覆い尽くした。
三番目に現れたのは、青い光だった。
青い光に、俺は見覚えがあった。ディンゴを突き落としたあの溶岩だ。青い光は泉のように、地面から湧き出て川のそばに溜まっていた。
「気をつけろ。アレに触れると、転生するぞ」
「あぁ……知ってる」
蕃茄が船を漕ぎながら、青い泉を横目で流し見た。先ほどの赤や黄色と違い、青い泉の側は異様なほど静まり返っていた。周りに屍肉を狙う獣や、人々の姿もない。泉の周りには、マングローブのような、複雑に絡み合った木々が茂っていた。暗闇の中に浮かぶ仄かな青色は幻想的で、俺は思わず見とれた。
「知ってる? あぁ……そういや最近、アレを悪用してる奴がいるんだってナ」
蕃茄が納得したように頷いた。
「ソイツらと戦ってんのか? 死んだ後でまで戦うなんて、お前ラもよっぽどだナ」
「ねえ、ここは人いないね?」
アルクが船から顔を出し、キョロキョロと辺りを伺った。
「泉にはどんな人が来るの? 悪い人? 正しい人?」
「善い人サ」
「善い人?」
「あぁ。善いことだから、余計にタチが悪いよナ……『普通』が一番怖いンだよ」
「ふぅん……?」
分かったような分からないような顔をして、アルクが再び小首を傾げた。俺はじっと青い溶岩を見つめた。地獄では、悪いことをしている方が持て囃され、尊敬されるのだという。では地獄で善いことをしている人が向かう泉とは、一体どんな場所なのだろうか?
「しばらく、寝ろ。これからもうちょっとかかるから」
蕃茄はそれ以上言葉を濁し、逃げるように船を漕ぎ出した。寝ろ、と言われたって眠れるような環境でもない。アルクと身を寄せ合って横になる。起きたら船がひっくり返って川底なんじゃないか、という恐怖も相まって、中々寝付けなかった。
青い光が後ろに遠ざかっていく。
静まり返った船底から俺は蕃茄をこっそり盗み見た。蕃茄は何処か急いだ様子で櫂を漕いでいた。蕃茄が一番嫌そうにしていたのが、赤い炎でも黄色い光でもなく、この青い泉だった。
普通が一番怖い……。
その言葉の意味を知るのは、まだまだ先の話だった。
船はさらに闇の深い方へと進んで行き、俺はしばらく浅い夢の中をフラフラと漂った。




