主人公は気が付かない
中天から西へと徐々に陽が傾いて、影は前へ前へと伸びて行く。風が強くなった。
S市の東側。
元々高速道路が通っていた山々のそばに、その小屋はあった。
かつては鬱陶しいくらいに生い茂っていた
スギ
や
ヒノキ
と言った木々も、今や丸裸に近い状態で根こそぎ剥がされていた。
貧困街、裏通り、浮浪者の溜まり場。
それが『拠点』にやってきた最初の印象だった。
姪浜心や指宿流水と合流を果たした俺は、彼らに連れられその小屋まで案内された。禿げた山の裾野に、ちらほらと『布』を身にまとった人々の姿が目に映る。先ほどの毒々しい色使いの街並みに比べ、酷く殺風景に映った。
「二年前から、お洋服が手に入らなくなっちゃって」
そう言って心は、少し申し訳なさそうに俺にカラカラに乾いた『布』を渡してくれた。
転生者たちが来てから、S市の経済は壊滅状態となったのだと言う。当然店も、工場も動かなくなり、食糧や工芸品の類はすぐに底を尽きた。県外から行き来する人もいなくなった。
人々は『理想郷』と題された天空に浮かぶ宮殿に拉致されるか、
心たちのように武器を取り、
『対抗勢力』
を結成して身を隠しながら転生者たちと戦っているのだと言う。
俺は早速濡れたズボンを脱ぎ捨て、穴の空いたその『布』に手足を通した。
ゴワゴワしているが、生暖かいズボンよりはだいぶマシだ。近くに溜まっていた水たまりで、自分の姿を覗き見た。簡素な襦袢のような、どこぞの民族衣装のような、不思議な出で立ちであった。そこでハッと心を振り返った。
「ちょっと待って……二年前??」
「そうよ」
俺は心をまじまじと見た。
記憶の中にある心は、中学の制服を着ていたが、今は生成色の襦袢に身を包み、背中に弓を抱えた戦士のような姿になっていた。顔つきも、まだあどけなさの残る童顔から、キリッと力強い感じに変わっており、何よりその眼光が鋭くなったような気がした。まるで歴戦の修羅場をくぐり抜けて来たスナイパーのような風貌だ。隣に立ってみると、身長もいつの間にか心の方が高くなっていた。
「二年?」
「そうよ……どうしたの?」
心が不思議そうに小首を傾げた。彼女は切り株の上に胡座をかき、それから弓を磨き始めた。何だか仕草もえらく野性味溢れる感じになっていた。
俺はしばらく口をぽかんと開けたままその場に突っ立っていた。
時間。
そこでようやく気がついた。俺の二回目の通行料は、『時間』だったのだ。元の世界に戻ってみると、二年の月日が経っていた。街は様変わりし、人々は生活を終われ、世界は破滅の危機に扮している。
それまで、二年。
俺が三途の川を渡っている間に、こっちではそれだけの『時間』が流れていたと言う訳だ。
「じゃあ、心は今中学三年生?」
「……まだ学校があったら、今頃受験勉強していたかもね」
心は少し懐かしそうに笑った。
その草臥れた笑い方に、俺はほんのちょっと胸を締め付けられた。
奪われた日常は、過ぎ去ってしまった『時間』はもう二度と戻って来ない。そして自分は一人、『通行料』として時間を払い、二年前に取り残されてしまった。俺は何となしに自分の両手を見つめた。
伸びていた影は、今や上からすっぽりと雲に覆われ、
空は、
夕闇から小夜へとその色を変えようとしていた。
顔を上げた。風が裾野から山頂へと吹き荒んで行った。
小屋の周りが土煙に塗れて行く。たちまち視界が途絶えた。辺りは大体いつもそんな感じで、どうやら身を隠すにはもってこいの場所のようだった。
とにかく、いつまでも塞ぎ込んでいる訳にもいかない。それから俺は、小屋の一角に住まわせてもらうことになった。
□□□
約一週間が過ぎた。『対抗勢力』は、組織や軍隊と呼ぶにはあまりに小規模で、手作りの竹槍や弓を武装した『自警団』に近かった。
「そもそも銃やナイフと言った通常の武器は、転生者たちには効かないからね」
『対抗勢力』の一人、農林課・食糧自給係の林さんは、ある日俺の隣で山菜カレーを口に運びながら、そう言って苦笑いした。地下にある食堂は夕食を取る人々でごった返していた。食堂は軽く体育館くらいにはただっ広く、照明や空調設備も、見た目に反してかなり充実していた。
「トカゲ兵には?」
「蜥兵にも、効く奴と効かない奴がいる。鱗が厚く赤い奴が隊長格で、そいつらにはまず矢が刺さらない。『理想郷』から失敬した『強化矢』じゃないとね」
『対抗勢力』の武力は、縄文時代かと見間違うほどに貧相なものであった。だが彼らは時々『理想郷』から、『重力反転装置』やら『強化矢』やら、異世界の科学技術設備を盗んで来ていた。おかげで彼らの『拠点』は、側から見ればただの掘っ立て小屋にしか見えないのに、中には見たこともない複雑なコンピュターやモニターがずらりと並んでいる、まさに秘密基地のような作りになっていた。
「でも、戦闘部隊以外も、一応色々な『担当部署』があるんだよ。衛生課、水産課、総務課、他の地域にある『対抗勢力』との通信係……」
「へぇぇ……」
「此処にいる間は、どれかには参加してもらうことになる。何しろ慢性的な人手不足だからね。どこが良いかは、流水くんに相談してみるといいよ」
「あいつは……」
俺はスプーンを口に運びながら、キョロキョロと辺りを窺った。『拠点』に来てから、初日に挨拶をして以来、指宿流水と姪浜心の姿を見ていない。
「流水くんは、斥候班の班長だよ」
「彼はすごい、素晴らしいよ」
「竹刀だけじゃなく、弓の使い方もすぐ覚えたし、転生者たちの技術を理解して扱えるのもほどんど彼のおかげなんだ。あの若さで班長に昇格したのも納得……」
それから林さんは嬉しそうに、数十分に渡って流水の素晴らしさを熱弁し始めた。
彼のおかげで路頭に迷っていた市民が一つにまとまったこと。
為す術もなかった自分たちに、戦う意思を取り戻してくれたこと。
一方的に蹂躙されるだけだったのが、次第に戦えるようになって言ったこと。
林さんの家族も、クラウンたちに勧誘されていたところを彼に助けられたのだと言う。あいにく俺は、山菜カレーのジャガイモの数を数えることの方に夢中だったので、全くこれっぽっちも聞いちゃいなかった。とにかく流水が、この『対抗勢力』で頼られているのだけは分かった。そして姪浜心も、流水と行動を共にしているのだと言う。話が終わると、俺は慌ててジャガイモを飲み込んだ。
「斥候って、どんな仕事ですか? どうやったら入れますか?」
「おや。斥候班に興味があるのかい? アレは危険な仕事だよ……」
あまりオススメしない、と呟いて、林さんは暗い顔をした。しかし俺としては、これ以上流水に差を開けられ続ける訳には行かない。仮に世界を救って、それで心と流水がくっついたのでは、何のために犠牲を払ってまで生き返ったのか分からない。そうじゃないか?
「斥候班は、遊撃部隊だ。要するに偵察や敵兵の位置の把握などが主な任務になる。たまに『理想郷』に侵入して、相手の武器を調達したり……」
「侵入って、できるんですか?」
俺は目を丸くした。『理想郷』と言うのは、先ほど見た空飛ぶ宮殿だ。遥か彼方に浮かんでいる敵の拠点に、どうやって侵入しているのだろう。
「色々とやり方はあるんだ。養人を装ってわざと蜥兵に捕まるとか……」
「ヨウジンって?」
「文字通り、養分さ。『理想郷』以外に住む人間は、転生者たちに奴隷として死ぬまで扱き使われるか、悪けりゃ食料として皿の上に並ぶ」
「え……」
俺は思わずスプーンを取り落とした。先ほどの、『培養器』の中にいた母娘の会話が思い出される。あの毒幼虫は、まさに奴隷たちの牢屋……いや家畜の飼育小屋だったのだ。ジャガイモが喉から逆流しそうになって、俺は思わず口を抑えた。
「そんな……なんでみんな逃げ出さないんですか!?」
「そこが一番恐ろしいところでね。転生者たちは……」
「オイ、『中継』が始まったぞ」
急に食堂の端が賑やかになって来た。俺たちの隣に座っていた中年男性が徐に立ち上がり、壁にかけられたモニターの方に駆け寄っていく。モニターの周りはあっという間に人だかりが出来上がった。俺と林さんは顔を見合わせ、それに続いた。
「今週は、何事もなければいいがな……」
人だかりの中で、誰かがボソリと、苦々しげに呟いた。一体何が始まるのだろう、と俺が思っていると、突然モニターから大音量の音楽と、ケバケバしい色合いの映像が流れ始めた。
【理想郷にお住いのみなさ〜ん! こんばんは〜!】
「クラウン……!」
俺は息を飲んだ。画面に出て来たのは、クラウンに間違いなかった。画面の右端には、『生中継』の文字が強調され輝いている。あの空飛ぶ宮殿で観た映像と同じようなノリで、突然転生者たちによる中継番組が始まったのだった。
【え〜、今週もこの時間がやって参りました。私は今、S市にあるとある工場に来ていま〜す!】
クラウンが間延びした声を出した。画面の向こうに映るその顔はとても楽しそうで、食堂にいる面々の苦渋に満ちた表情とはかなり対照的だった。
【実はこの工場は、大気汚染や土壌汚染の悪因として、学界ではかなり有名だったみたいなんですね〜!】
「ヨシさんトコの工場だ……」
誰かが、また呟いた。消え入りそうなその声は、クラウンの溌剌とした大声に掻き消されて行った。
【この工場のせいで、どれほどの野生生物たちが死んでいったことでしょう?】
【一体今まで何匹の動物たちが、鳥や魚たちが犠牲になったことでしょう?】
【さらには従業員たちは、中で長時間労働やパワハラに苦しんでいた、という情報も入っています!】
「勝手なこと言いやがって……」
誰かが憤った。
「その工場を建てるために、親父がいくら借金したと思ってる! 親父が若い頃に苦労して建てた、家族の次に大事な宝物だって……」
【こんなものは、新時代の理想郷にふさわしくない。この私が許しません! 悪は徹底的に叩きのめし、一片も残さず滅ぼさねば。時代はゆるふわスローライフですよ】
クラウンはこちらの反応など御構い無しに、ニッコリと笑みを作った。そして片手をスッと自分の顔の前にかざし……。
途端に画面が激しく揺れた。
俺は二年前の、父さんの勤めていた市役所がぺしゃんこになった映像を思い出して、思わず目を背けた。
【……ジャ〜ン!!】
さっきまでそこにあった巨大な工場は、今や跡形もなく瓦礫の山と化していた。クラウンが両手を広げ、自分の口で効果音を出した。その余りにも幼稚で、滑稽な喋り方に、お茶の間の空気は冷え冷えと下がり続けるばかりであった。
【ご覧ください! 今、皆さんを苦しめていた工場は跡形もなく消え去りました! 悪は去ったのです!!】
クラウンは満足げに叫んだ。
画面端では、工場に勤めていたと思しき人々が、旗を振ってクラウンに万歳をする姿が映し出されていた。中には涙を流して喜んでいる人も見える。
【重労働に喘いでいた皆さん! 今日から貴方達は解放されました。悩みや苦しみはもういらない! 僕らとともに、ただただ楽しく、理想郷のために暮らしましょう!!】
「僕が、転生者達が何より恐ろしいと思うのはね……」
林さんが、俺の隣で小さく声を震わせた。
「彼らの力に恐れをなしてしまうのか、あるいは理想郷の快適さに丸め込まれてしまうのか……人々はああやって、次第に抵抗する意志さえ奪われていってしまう」
「じゃあ、逃げ出さないんじゃなくって……」
『培養器』の中の住人たちは、逃げ出そうとも思っていない。むしろ喜んで奴隷に、彼らの食事になりたがっていると言うことだろうか。俺はゾッとした。
【番組ではまだまだ皆さんにとっての悪を大募集!】
【採用された悪は、僕らが徹底的に排除していきますので、ドシドシご応募ください!】
【それでは皆さん、さようなら! また来週〜!!】
林さんは力なく首を振り、俺にこんな話をした。
遥か昔、とある国では王朝が変わるたびに、通貨を一新したり土地の名称を変えたりして、前王の名残を極力消し去ったのだと言う。
統治するのには、前のやり方と比べられては何かと厄介だし、それが最善策なのかもしれない。
全てを自分たちの都合の良いように塗り替える。きっと奪う側にとっては、そう言うのは当たり前のことなのだろう。だけど、奪われる側にしてみれば……。
「何より僕が恐ろしいのは……転生者が、自分たちは正しい行いをしていると、これっぽっちも疑っていないことなんだよ」
それから中継番組は壮大な音楽とともに、『ハッピーエンド!!』と大文字が映し出されて終わった。現実に残された俺たちは黒くなった画面を見つめながら、その場に突っ立って、しばらく誰も言葉を発さなかった。やがて重たい空気を引きずって、部屋に戻り頭から毛布を被ってはみたものの、結局その晩、俺は眠れなかった。朝はまだ遠かった。弟は今頃何をしているだろう、とハンモックに揺られながら、ふと思った。




