神かNoか
新人神父のジョセフ・メモリアルです。
「神を信じるか」と尋ねたところ、突然ハイキックを食らいました。
見慣れない女性が一人、膝を追って祈りを捧げていた。
ここは石造りの聖堂である。イギリスの中でも観光地として挙げられる、ロンドン市内から一時間と少しで来られる距離の、長閑で荘厳な大聖堂だ。
遠目からでも分かる光沢のあるストレートの黒髪に、黒い革ジャンを着ている。静かに近寄ってみると小脇にはバイクのヘルメットを置いていた。そのほかには荷物はない。
「…………」
バイクを持っているだろうことから観光客でないことは分かる。しかし、地元民にしては見慣れない女性である。何より、彼女が目を閉じている姿があまりに凛と澄んでいて、思わず見とれてしまったのだった。だから、聖職者としてはまだまだ新人である私は、決してやましい気持ちはなく、いかにも聖堂内にふさわしい話題__「あなたは神を信じますか?」と、《今日も雨ですね》が如く気軽な気持ちで声を掛けてみることにしたのだ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
__しかし、これがそうはうまくいかなかった。
「貴方は神を信じますか?」
「_____っ!」
がすっ、或いはごりっ。
なぜか顎から脳天にかけて貫くような衝撃が走った。
視界に映るのは片方の足を高く上げ、拳を胸の前に構えたままこちらを睨む黒髪の女性__美しい。次いで聖堂の天井、荘厳なアーチと沢山のクロス、刻まれた聖人の名前、どれもがぐるぐるとぼやけ、そうして私に気付かせた。
__あぁ、ハイキックされた__と。
そうして私は自分の過ちを知る。
遠のく意識の中で二つ、それらしき過ちを知る。
第一に、膝を折って指を組んでまで祈りを捧げていた人物に向かって「神を信じるか?」などと今更聞くまでもない質問をしてしまったこと__それは快晴の空の下で「今日はいい天気でしょうか?」と尋ねるようなものだ。
第二に、私がうっかり聖職者の証であるキャソックを《着る前》、即ち私服で彼女に話しかけてしまったことだった。
迂闊だった。
そりゃあ、ハイキックもされますね__と仕方なく意識を失おうとしたとき、遠くから私の名を呼ぶ声がした。
「ジョセフさん、ジョセフさん!」と、私の洗礼名を呼ぶのはシスターの誰かか。さすがに天使や神に名を呼ばれていると思うほど、私は我を失ってはいなかった。しかし、ぱたぱたと大理石に響く足音を近くに聞くころには、朦朧としていた意識はいよいよ手元から離れようとしていた。
ぐるぐる、ぐるぐる。
新人神父のジョセフ・メモリアルです。
「神を信じるか」と尋ねたところ、突然ハイキックを食らいました。
◇
「あの、大丈夫ですか?」
「…………」
ぱちりと目を開けると、そこは病院でも自室でも、ましてや天国でもなくて、さっきぶっ倒れた礼拝席の上だった。公園のベンチに寝転がるような体制で気を失っていたらしい身体を起こすと、大きな目に涙をあふれんばかりに湛えている黒髪の女性がいた。
「はっ」
「あぁ、よかった!ご無事だったんですね!あの、私早とちりしてついうっかり蹴ってしまって……」
体感的には数分前、いや、数時間前かもしれない__に自分にハイキックをかました女性にあからさまに警戒心と恐怖心を抱き、後ろに下がると、彼女はもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。
「ごめんなさい、すみません、まさか神父さんだったとは知らず、あの本当に私、そんなつもりじゃなかったんです」
「………どういうつもりだったんですか?」
「こ、」と視線をさまよわせ、迷うそぶりを見せながら彼女はしかし、私をもう一度見た。「殺されてしまうんじゃないかと思って、つい、手が……いえ、足が出てしまいました」
「殺されるんじゃないかと?」
「…………はい」
「貴方は神を信じますかと聞かれて?……いや、あの、今ものすごい自然にカバンに片手を入れましたけれど、なにか自衛グッズとか出さないでください」
「あっすみません、つい条件反射で」
条件反射というレベルなら、謝って反省したところでまた同じ目に遭う可能性があるということだろうか。女性はそれでも申し訳なさそうに瞳を震わせる。やはりその姿は美しかったので、私はせめて許してこの場を去ろうと思った。
「いいですよ。お気になさらず。では、私はこれで__」
しかし、袖をぐっと引っ張られ、立ち上がることは叶わなかった。
「神父さん、お願いがあります」
「はい?」
「懺悔させてください。蹴ったことを、そして、私の過去を」
◇
私の名前はメアリー・スルーズベリーと言います、と彼女は話し始めた。
「私には両親はいません。ここではない教会に家族ごと暮らす、小さな家族に引き取られました。
「スルーズベリー家は小さくて、養父と養母、そしてその実子で一つ違いの姉であるクリスティーナの三人と私の四人家族でした。しかし、日曜日には日曜学校があって、近くに住む子供たちが大勢遊びに来たり、歌を歌ったり、とても楽しかったんです。
「でもある日、ジョセフさんならご存知かもしれませんが__強盗が入って、日曜学校の教室に立てこもったんです。ええ、そうです。テレビで中継していましたか……そうですか……そう、ですか……。
「……ご存知のように、私達の小さな教会には強盗が入るほどのお金なんてありません。いるのはただ、子供達だけでした。だからつまり、犯行グループの目的は子供だったんです。それも立てこもりを装った虐殺でした。
「彼らは外に警察がやってきたのを見計らって私達に壁の前に並べと言いました。大きいものから小さいものへ順番に、兄弟や友達と離れたくないのなら隣で手を繋いでいてもいい。彼らはそう言い、私は姉のクリスティーナと手を繋いで壁の前に立ちました。
「彼らはこつこつとブーツを鳴らして……十人位で並んでいた私達の前を行き来しました。手に持っていたのは長くて大きな銃です。何という武器かは分かりません、ライフルとか、そんな感じでしょうか……とにかく怖くて私達は凍ったように、あるいは縫い付けられたように涙を流していました。
「そして彼らのうち一人が端っこの子供の前で停まりました。一番小さな子供です。幼稚園の子供です。そして前触れなく銃を向けると__その子はぐちゃぐちゃになっていました。
「怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。
「……すみません、取り乱しかけました。おかしいですね、もう十五年以上前の話なのに。思い出が美化されるように、恐怖も強まっているのかもしれません。本当は時間には癒してほしいところなのですけれど……いえ、これ以上、事細かに語るのは止めましょう。私は彼らの残虐な犯行を再現したいわけではなく、その時の私の《嘘》を懺悔したいのです。
「はい、《嘘》です。
「……話を戻しますと、その後、あと二人、彼らに殺されました。そうして、私達の番がやってきたのです。私と、姉のクリスティーナです。
「クリスティーナも私も、手を繋いだまま互いに向かい合うように座り込んで、互いの拳を握りこんで必死に神に祈っていました。震えながら祈りました__『助けてください神様』と。
「それを彼らは面白がったのでしょうか。
「__『姉はどっちだ』と言って、クリスティーナを立たせました。
「そして、丁寧に、おそろしく響く声でゆっくりとこう言いました。
「__『君は神を信じるかい?』と。
「その声は優しかった。銃は下ろしていた。もしかしたら心を打たれてこれ以上の殺しを止めてくれるかもしれない、という希望がありました。
「クリスティーナは「大丈夫よ、メアリー」と私にこっそり笑いかけると、私の手を振りほどいて、彼らの前に出て、言いました。
「__『Yes』と、後悔のない声で毅然と言いました。
「私からは彼女の後姿しか見えませんでした。でも、彼らのうち、だれかが大きく笑ったのを覚えています。そして……
「__『そうか。なら天国に行けるよ』と。
「その男は引き金を引きました。
「メアリーも撃たれました。神を信じてか、それとも、私を守ったつもりだったのか。そして間を開けることなく私に銃口が向きました。『君はどうだい?』と。しかし私は、私は、死にたくなくて、首を振って、『No』と答えました。
「ずっと育ててくれていた家族は、神様を信じていたのに。私も当たり前に信じていたのに。クリスティーナが殺されたことだって、神様がいてくれないと救われないのに、それを信じないといけないのに、私はただ、クリスティーナが『Yes』と言って殺されたから__ただそれだけの理由で__死にたくない、そんな自分勝手な理由で__『No』と、思ってもいないことを、《嘘》をついてしまった。
「……そうして今、今日まで生きながらえている。
「のうのうと生き残ってしまっている。
「神様を信じたクリスティーナが殺されたのに、信じないと言った私が生きている。
「ジョセフさん、神父さん、私は、それでも神様が本当にいるのかどうか疑ってしまっています。よく言う話ですが、神様がいたら、こんな世界はありえないって本当に思うんです。
「でも、でもね……クリスティーナが死んだのが神様の元へ行くためだったって思えたら、いくらか救われたような気持ちにはなれます。だから……信じたい。
「疑っているけれど、信じきれないけれど、信じたい。
「罪悪感でいっぱいの私が今日を生きていくためには、信じるしかないんです
「ごめんなさい、クリスティーナ
「もしいたら、ごめんなさい、神様
「そして蹴ってしまってごめんなさい、ジョセフさん。
◇
長い長い懺悔を聞き終えて、私は詰まる胸を押えながら
懺悔の終わりを告げる「アーメン」を唱えた。
「はぁーすっきりした!」と、先ほどまでの涙声も嘘のようにメアリー・スルーズベリーはぐっと身体を伸ばしながら跳ねる様に立ち上がった。立ちあがってみるとなかなか身長が高く、より凛とした空気が強くなった。
「それにしても、ジョセフさんが優しい方で助かりました。訴えられてしまったらどうしようかと思いましたから」
凛とした空気感はそのままに、恥ずかしそうにはにかむメアリーだった。
「……いえ、そんな……傷跡すら残りませんでしたし、大したことないですから」
「そう?」
出会いがしらの邪な気持ちを思い出し照れてたじたじになっていると、彼女は腕を組んだまま首を傾げた。
「私の蹴りは結構強いはずなんですけれどね。得意技は遠距離武器を蹴りで遠距離へ吹っ飛ばしたまま顎へKOすること。それに大体は黒ですよ? 私。ジョセフさん、貴方もしかして同業者ですか?」
「ど、同業者、ですか」
黒って何のことだ、と考えつつも私は首を振った。自分はしがない聖職者だ。しかも新人である。しかしメアリーは悪戯っぽく笑うと、革ジャンから何やら手帳のようなものを取り出した。
「はい。私、ここだけの話、こういう者でして」
「……NCA……はぁ」
「はい。鍛えましたから」
鍛えましたからって。
NCA__国家犯罪対策局。
そんなワークアウトレベルの話ではない。
しかし、これでもう隠し事はないとでも言うように、メアリーはにししと笑った。
「私からすれば、神様がいてもいなくても、正義が強ければ世界はやっていけると思うんです」
「せ、正義……」
「はい、正義です。つまり優しさのことですよ」
思わず惚れそうになる。彼女にではなく、その正義感に。
颯爽と背を向け、大理石に彼女のブーツの音が響く。恐怖に震える小さな子供時代の話を聞いた後に、途方もない正義そのもののような姿を見せられてしまっては、思わず《それ》を目指した理由と重ねて考えてしまう。
懺悔と言ったが、まるで反省していないような力強い足取りだ。
「神様がいてもいなくても……ですか」
思わず笑みがこぼれる。そして顎がじんじんと今更ながら痛んだ。
不思議と怒りは沸いてこない。
NCAのメアリー・スルーズベリー。
また会えるかは分からないが、少なくともあの質問はもうしないでおこうと思った。