3-5 水郷が生まれた日
「起きろ。起きろアウサル……。せっかくこうして会えたのに、我が輩と話しもせずに帰る気か?」
どこかで聞き覚えのある声がした。
死のように深い眠りより淡い意識が浮上して、あったはずの眠気と夢が急激に途絶えてゆく。
身を起こすとそこに赤き邪竜ユランがいた。
「アンタか……。となるとここは……ああ、なるほど……」
あの楽園だ。
大きな湖と艶やかな草木が真夏日の陽射しにギラギラと輝いている。
俺は立ち上がらずに今の草地にへたり込んだまま、疲れもあってユランをぼんやりと見上げた。
「ぐったりしてるようだな」
「そりゃな……。ちょっとやり過ぎたようだ……」
「フ……我が輩も見ていたよ。よくやったな」
何となく嬉しくなった。
元々はこの竜を喜ばせてやろうと始めたことだ。
お褒めの言葉についニヤリと笑ってしまう。
「素晴らしい大泥棒だったぞ」
「……そっちかよ」
「ポコイなんとかといったか。ヤツの宝物庫にあった財宝には商品も混じっていたようだ。それが消えたことで商売に支障をきたし、侯爵と呼ばれる男に金を借りる姿が見えた。……ぼんやりとだがな」
それはまた何て便利な千里眼だろう。
しかしそれはそれで朗報だ、悪人の商売を立ち行かぬ寸前までぶち壊しに出来たのだから。
「良いぞ良いぞアウサルよ、よくやってくれた。それでこそ我が輩の使徒だ、見ていて実に小気味良い」
「そうか。もう1つの計画も路線こそ変わったがあと1歩だ。水を盗むのではなく、山の向こうから引くことになったがな」
ユランはご満悦だ。
……やはりどこか素直で無邪気なところがある。
指摘すると無駄な虚勢を張るのが見えているので言及はしない。
「そうだったな、それもうっすらと夢見心地で見ていた。まさかあれだけ大規模な地下水路を造ってしまうとは……やれやれ想像を絶する力だ……。アウサル、貴殿を選んで正解だった、我が輩の目に狂いは無かったということだ、フフフ……」
最初は軽く落ち込んでいたくせに調子の良い邪神様だ。
よっぽど気分を良くしたのか、ユランが尾を揺すって湖水を波打たせた。
……うん。なんかかわいいな、こういうところが。
「まだ完成していない。喜ぶなら後にしておけ」
「フ、フフフッ……アウサル、あまりエルフたちの力を侮るな。よしならば起きてみると良い、そこに、素晴らしき楽園が広がっていることだろう」
得意げに、まるで見て来たようにユランが語った。
それから俺に横になるよううながして、もう眠れとだけつぶやいた。
たったそれだけで意識が遠ざかってゆく。こんな勝手な……また眠い……。
「アウサル、彼らを救ってやってくれ……。虐げられし種族を貴殿の手で……今や貴殿は彼らの希望なのだ……頼む」
そういえばユランに聞きたいことがあったんだった。
砦の地下にあったあの壁画についてだ。
どうしてヒューマンがお前と共闘していたのか、そもそもアレは何だったのか……興味を抱いて止まない。
……だがそういうものなのだ。
ふとした疑問なんてものは日常の中でいくらでも薄れてゆく。
もし俺がまだ覚えていたら次こそは問いかけてみよう。
アンタは過去に何をしでかしたのだと。
……そう聞こうと決めた。
・
「あっおはようございますっ! もうあれから丸1日眠りっぱなしだったんですよ……! さすがにボク心配で……ああ良かった……。あ、それで体調の方はどうですか?」
目覚めればニブルヘルの客室のベッドにいた。
すぐにルイゼ嬢が駆け寄って、心配と興奮を入り交じらせながら俺の顔色を確認する。
「悪くない。……だが、腹が減ったな……」
「じゃあ! じゃあ今から見に行きませんかっ?!」
やはり興奮している。
腹が減ったと答えたのに、彼女はその胸に秘めた自分の欲求の方を優先させていた。
「……何をだ?」
「それはっ、アウサル様が作った水路に決まってますよ! すごいんですよっ、ため池いっぱいに綺麗なあの水が広がって、里の皆さんみんなが笑顔を浮かべていて……。それにあのグフェン様まで一緒になって……」
思ったより体調が良い。
ベッドから身を起こしてルイゼの前に立つ。
「ため池の近くを開拓してるんですっ、見に行きましょうよっアウサル様! そしたらみんな喜びますっ!」
「……わかった。その前にパンか何かを手配してくれ、食いながら行く」
それから硬いパンをガツガツとかじりながら砦を出た。
するとすぐにおかしなこの状況に気づく。
これは夢か……? 砦内外と練兵所がほぼ無人になっている。
「こっちこっちっ、こっちですアウサル様っ♪ 早くいきましょうよっ!」
「おい、ルイゼ、アンタ、そんな明るい性格だったか? いやさすがにはしゃぎ過ぎだと思うぞ……」
それから練兵所を抜けて耕作地に案内された。
ルイゼとは思えない積極性だ。
彼女のやわらかい手が俺の呪われた白い手を引いて、用水路が輝く世界に導く。
「おお……水かさがあるな。ここって、元は魚も住めないほど浅かったよな?」
「はい! ため池の水をここに引いたんですよっ、みんなで!」
「……そうか。今日のルイゼは本当に明るいな」
水路をたどってゆくと西の高台に滝が出来ていた。
その滝が下の大地に降り注ぎ、水路を経由してみずみずしく青い麦畑を育んでいる。
「こっちこっち!」
「おい……」
また再びやわらかい手に引かれて高台を目指すことになった。
急場ごしらえの登り道を進んで、俺たちはついに目的地にやってくる。
……すると、砦より消えた人影がそこに集まっていた。
あるものは水路の整備を、ある者は硬い樹木を斧で叩き鳴らす。
またある者は乾いていたはずのその土地を忙しそうに拓く。
つまり邪魔な根を掘り、岩や小石をせっせとどかしていた。
さらには地下水路の出口に無かったはずのため池が出来上がっていて、その周囲にクワを振るう者の姿もあったのだ。……あるいは種を蒔く者も。
「ねっ凄いでしょアウサル様っ!」
「ああ……驚いたな。こんな光景、俺は初めて見たよ」
ダークエルフの民はときおりため池とそこにある地下水路に目を向けては、幸せな笑顔を浮かべて新天地の開拓に没頭している。
よく見れば……本当にルイゼが言うとおりあのグフェンまでもが一緒にクワを大地へと振り下ろしていた。
アンタ、レジスタンスのリーダーだろうに……。
「アウサル殿」
眺めていたらそれに気づかれた。
一応年寄りらしいのだが、巨躯の青肌ダークエルフが駆け足でこちらに飛んで来る。
「起きたかっ」
「ああ。アンタは……何か、似合うんだか似合わないんだかわからんことをしているな……」
身体がデカいので似合ってるっちゃ似合ってる。
穏やかな笑顔に活力が満ちていて、何というか若返った印象さえ覚えてしまった。
「ありがとうアウサル殿、貴殿は我々に希望をくれたっ。見てくれ、ここ一帯が実りを結べば、全てではないが町のエルフたちをかくまうことが出来る」
「そりゃ、想像するだけで胸が熱くなるな。俺も楽しみだ」
その男が今日まで背負ってきた責任と重圧を考えれば、これを喜ばないわけがなかった。
彼が諦めた夢を俺たちが叶えたのだ、感謝されないわけがない。誇らしい。
「こうして力を溜めていけばいつかはサウスを――いや、ここフィンブル王国を取り戻す日もきっと遠くない! アウサル殿、ダークエルフは今日この日のことを絶対に忘れないだろう……末代まで貴殿を語り継ごう……」
「グフェン、アンタまで大げさだって……。それにソレってあれだぜ、完全に……ラジールあたりのノリだからな?」
もしかして若い頃はああいうキャラだったとかするのか?
するとグフェンが本当にラジールみたいな豪快な笑顔で笑う。
「ニブルヘルはこれから変わる! 貴殿のおかげだ!」
……どうしたものかと何となしに地下水路に目を向ける。
何度見ても崖にでかい大穴が開いていた。
そこから清流が低い滝となってキラキラと流れ落ち、音を立てながらため池を満たしてゆく。
それをユランが気に入るのも無理もない。
これをもっともっと発展させていけば、あの素直じゃない邪竜も相当喜ぶに違いない。
ユランと出会わなければ俺はこんな情景を見ることもなかった。
白い死の荒野で一生を終えていたに違いない。
「歳なんだからあまり無理するなよグフェン」
「フフッ、その体たらくのアウサル殿には言われたくないなっ。大丈夫だ、日が落ちれば俺は眠くなって動けなくなる」
何よりこうして気を許した誰かと、軽口を叩き合うことも無かったに違いない。
俺は心よりこのニブルヘルを助けたいと思うようになっていた。
同情や哀れみではなく、その行く末を見届けてみたいという好奇心もまたそこにあった。