18-05 アビスより来たりし飢餓する獣
「サマエルは自分に女をくれた。孤独な怪物だった自分は、サマエルのおかげで今のリザードマンの子らを得た。妻は……言葉を覚えることも出来ぬ、人の形をした不老不死の獣だが……今も当時と変わらず、そのままの姿で生きてくれている……。少なくとも、我らの間に愛はあるはずだ、そう信じている」
アザトの長い昔話を聞きとげた。
そこで俺も1つ気づいたことがある。口にはとても出来なかったがごく最近そのことに覚えがあったのだ。
芸術と快楽の天使、サマエルの愛玩動物。神はそれを竜人と交配可能なヒューマンに変えたのではないか。
「愚かな自分は、後から理解した。我が子らは、ヒューマンに倒されるべくして作り出された、試練に過ぎない。サマエルはヒューマンに俺たちをけしかけると同時に……その頃には既に、身勝手なえこひいきを始めていたのだ……」
ユランがその悪意の化身を天獄に封じた。
なるほど、調停神ハルモニアやグフェンら長老たちがユランに心腹するのもわかる。
「興味深い話だった。俺はこんななりだが物語や伝説が朝夕の食事より好きでな、悪いが、好奇心が刺激された。だからこの昔話を、今回の報酬とさせてもらおう」
「……物好きな男だ。ならばそう甘えさせてくれ、我らが支払えるものなど初めから高々知れているからな」
俺たちは潜伏を止めて行動を再開した。
狂気の発生源、アビスの台所・大陥没を目指してシダ科の林を進む。
どうでもいい余談だが、このシダという植物は太古より存在する種であるという。よってアザトとはよく似合って見えた。
「待て」
アザトの静止はもはや遅かった。
獣のうなり声が進路より響きわたり、慌てて俺たちはまたシダの林に身を潜めることになった。
まずい展開だ。その低いうなり声は俺の知る限りでは野犬や狼に分類出来たのだが……あまりに大きく巨体を連想させるものだったのだ。
「おい、なんだアレは……」
「アウサル、自分らはついていないな、あれはアビスハウンドだ。そして断っておこう、こいつの嗅覚からはまず逃れられん。性根もしつこい、幸いはあまりに凶暴過ぎるのか、群れを作らんところだけだ」
そいつは背丈だけでも俺の頭の辺りまでゆうにあった。
赤黒い毛並みを持った狼で、青白い眼孔がギラギラと人魂のように輝いていた。
鼻を鳴らして獲物の匂いを嗅ぎ取っている。どうやらそれが俺たちで、アビスの大狼はこちらの場所をほぼ特定したようだ。
「こいつはアビスと現世の境界に生息している。アビスより来てアビスへと帰る。よって普段はこちらから手を出さない、子らに無用な被害が出るからな。――来るぞ!」
アザトが茂みより飛び出して迫り来るアビスハウンドを迎撃した。
黒曜石のグラディウスが腰より引き抜かれ、狼を正面に駆け抜ける。
黒い刃は大狼の胸を切り裂き、その痛みが獣を怒り吠え狂わせた。
「アビスの怪物か……。一瞬でもしくじれば死ぬな」
「そういうことだ、気をつけろアウサル!」
どうやら俺の方がアザトより食いやすいと判別したらしい。
アビスハウンドは狙いをアウサルに絞って身構えてきた。
スコップで骨は切れても、肉は刃相応にしか切れない。
だが今の俺にはア・ジールの仲間たちの力がある。獣が嫌うはずの炎のマテリアルをルイゼのスコップに装着した。
「さて……アザト、少し変わったものを見せよう」
その無駄口を隙と見たらしい、アビスハウンドの巨体が俺めがけて突進した。
まずは小手調べだ、目前の大地をスコップで一文字に斬る。
するとそこより炎が立ち上って壁となった。
「異界の冒険物語で言うところの、ファイアーウォールといったところか」
アビスハウンドが驚き止ろうとしたがその巨体だ、炎にあぶられ悲鳴を上げた。
相手がひるんだその隙に、こちらは足下の土を炎のスコップですくい上げて熱し、いつもの調子で投げつける。命中だ、再び狼の喉より叫びと怒りが空気を振動させた。
「魔法……いや魔法のスコップか! アウサルッ気をつけろ行ったぞ!」
アビスハウンドは壁の向こう側に逃げ込んでいた。
しかし怒り狂っていたのだろう、炎の壁を果敢に突き抜けてこちらに突撃してきた。
アザトの警告がある、俺はそれを体勢を低くして転がりつつ回避し、後ろを突かれぬよう目線で敵を追った。
「素早い……うっ、これは、もっと鍛えておけば良かったかっ……」
そうしておいて正解だ、常識では考えられない敏捷性が俺を追う。
爪による薙払いを熱を放つスコップで受け止めた。
火傷により大狼は叫ぶ。されど止まらない、大きなあごが開かれ、獰猛な牙が俺を丸飲みにしようとした。
迎撃方を迷ったら食われる。無意識に身体が動き、やつの口の中へと灼熱に燃えるスコップを押し込んでいた。
内部から上アゴを突き上げ、攻撃そのもの軌道を横へそらす。
「退けッアウサル!!」
アザトの叫びに俺は身を落として横へとまた飛んだ。
すると猛獣より低く短い叫びが鳴る。
待避行動を取り終え、アビスハウンドを再び視界へと収めるとそこには……。
黒曜石のグラディウスにより眉間を貫かれた大狼がいた。
アザトが投擲したものだ。黒い竜人が己の得物に飛びつき、トドメを刺すべく深く押し込む。
「ここはリザードマンの領地だ! 滅びろ地獄の餓狼め!」
メキメキと骨の砕ける音が鳴りだす。
アビスハウンドは暴れ抵抗したがアザトに張り付かれ、やがてすぐに力を失い地に崩れた。
脳をやられたというのにまだ死なない。恐るべき生命力だった。
「アザト、こんなときだが悪い報告だ。……後ろを見ろ」
「っ……。さっきの子らが戻って来てしまったか……」
ここは狂気の谷、1匹大物を片付けたところで終わらない。
狂ったリザードマン7体がこちらの死闘を嗅ぎつけて、まるでハイエナのように俺たちを取り囲みだした。
ああハイエナというのは異界に生息する動物だ。
きっと誇張された伝説なのだろうが、雌は生まれてすぐに姉妹を食い殺すそうだ。まあ嘘に決まっている。
「こうなっては仕方ない、一度我が家に退くか……」
「ここまで来てみすみす手ぶらでか?」
トドメを諦めてアザトはアビスハウンドの頭よりグラディウスを抜き離れた。
狂えるリザードマンはジリジリと包囲を狭め、こちらの動きをうかがっている。
狂っているとはいえ生物、弱った獲物を譲れば撤退の材料にはなるだろう。
「戻ろうアウサル、こうなっては騒ぎが騒ぎを呼び、死ぬまで戦い続けることになる」
「そうか。だが撤退は反対だ、少し乱暴だがどうにかしよう」
しかし俺は提案を断り、炎の壁を半円状に生み出した。
まだ背後は突かれていない。
次はウィンドマテリアルに宝石を換装し、力いっぱいそれを敵に向けて薙ぎ振った。
「ギッ、ギェッ、ギェェッ!!」
炎の壁は嵐となってリザードマンらに吹きすさび、その熱風がやつらを後退させた。
痛覚が無いらしいが、炎や熱に対する恐怖は本能的なものだ。
いずれ戻ってくるかもしれないが時間は稼げるだろう。
「見事。ずいぶんと便利な力だな……子らを焼かずに追い払ってくれたことにも感謝する」
「こけ威しの火加減を間違えただけだ。それに便利だが金がかかる力でな、俺1人では維持出来ない。言うなればこれは、ア・ジールが俺に託してくれた力だ。掘ることにしか能がないからな俺は」
これはエルフ、ダークエルフ、ヒューマンが力を合わせて生み出した力だ。
いわばこの技そのものが全ての民が共存する世界の象徴だ。
いや、わかりやすく言い換えれば俺は理想郷ア・ジールを感情のままに自慢した。
「……それと、先に帰っていてくれ、今からあの陥落の底を探ってこよう」
「何を言い出す、今はまずいぞ、この騒ぎを聞きつけて、アビスの影響を受けたありとあらゆる怪物が駆けつけてくる。現実的ではない」
「そうか。ならば今こそチャンスだ」
俺はモグラのアウサル、戦いではなく穴を掘るのが本業だ。
つまりアザトを前にして足下を掘り始めた。この芸は語るより直接見せた方が早い。
「なっ……」
「アンタ、どうやって俺がここまで来たのか、まだ信じてくれていないな。俺はこうやって白き死の広野の底を越えて来た。俺は邪神ユランの使徒だ」
すぐにアザトが驚愕に後ずさる事態となった。
魔法のように固い土が掘り返され、地下道が作られてゆくのだから。
「よってこの程度の距離など造作もない。さ、わかったらさっさと撤退してくれ。事態を解決出来るかはわからん。だがせめて原因だけでも突き止めて、可能なら一撃食らわせてきてやる」
全ての筋道をぶち壊しにして、俺は目的地への最短にして安全なルートを築き上げていった。
こちらの方がやはり落ち着く。地味で泥臭く華が無いが、誰かのために道を切り開くというこの仕事、やはり悪くないものなのだ。
俺はリザードマンを味方にし、この西にいるという有角種たちもア・ジールへと導く。