第1章 8話 「過去の自分へ」
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
おじいのことを考えていた。
こんなことを教えてくれたとか、そういえば、あの時は…。なんて……。
そのどんな思い出の中でも、彼は笑っている。どうしようもなく寂しい…
それからぼうっと、1時間くらい座っていたのだろうか?
もしかしたら、もっと長かったのかもしれない。
時間の感覚もなくて、心の感覚もなかった。
ただ心には大きな大きな、埋まることのない穴が空いていた。
このままずっとここにいようか…。ここにいれば私も…。私もおじいのように…。
あぁ、でもかまわない…
もう私には何もない。それにすごく疲れた……。
もう何もかも……終わりにしたい。
動く力もなく、ぐったりと私はおじいの側で仰向けになる。
いつの間にか吹雪は止み、静かな雪に変わっていた。その雪は優しく優しく降り積もっていく。空っぽの心に積もっていくようだ。でもそれが満たされることはない。
吐く息は白く、体はすごく冷えている。……あぁ、なんだかすごく眠くなってきた…。
もう眠ってしまおう……。私は目を閉じた。
『ガサッ…』
(……?)
すぐ近くで何かの気配がした。もしかして追っ手の騎士だろうか?
(もう……。別にかまわない。もういい…。)
目を開ける気力もない。するとすぐに再び闇へ吸い寄せられ、そろそろ自らの終わりが近いのを感じた。
『ザッ………ザッ…』
今度のそれは確実に歩くような音だった。しかし、どうやら馬や人のような気配ではないようだ。
(なんだろう…。)
その謎の音が気にかかり、仕方なく目を開ける。
(あれは……)
それは木の影に隠れていた。毛は灰色で、その瞳は美しく光る紫だった。
「オオカミだ…」
そう私が小さくつぶやくと、オオカミはどんどん近づいてくる。その瞳は私を捉えていた。
そし
て、私の3、4メートル側まで来て止まった。
「大きい……」
紫の瞳のオオカミは、大人が一人乗れそうなくらい大きく、がっしりしている。
もしかして私を食べる気だろうか?…でも不思議と恐怖は感じなかった。その狼の眼差しは優しく温かなような気がしたからだった。
紫の瞳でじっと見つめられる。私もそれを同じように、じっと見つめ返す。
やがて止まっていた狼は再び歩きだし、ついに私が手を伸ばせば届く位置までやって来た。その鼻をヒクヒクさせて。
「私を…食べるの…?」
小さくそう言うと私の顔に鼻を近づけた。そして…
『ペロッ…』
私の顔を舐めた。涙や血の付いた顔を。
「えっ…」
私は困惑した。オオカミは獲物を舐めたりするのだろうか?
しかし顔を舐めた後、私の身体にぴたっとくっついて、臥せった。不思議と獣くささはない。
「あたたかい……」
自分の血液が循環していくのが分かった。するとじわじわと涙が溢れ、滴が落ちていく。
右を向けば、もう動かなくなった大切な人がいる。冷たくて動かしにくくなった右手でその顔を優しく触る。彼はまるで眠ってるみたいだ。優しい微笑みを浮かべている。
そして、顔を左に向ければ狼がいる。左手でその頭を優しく撫でた。すると狼はそのまぶたをゆっくりと閉じる。
空はいつの間にか白みかけていた。
(あぁ、鐘が鳴るな…。でももう、働かなくていいんだ)
それなのに全然嬉しくない。こんなに求めた自由が目の前にあるのに……。
楽しくもないのに、ハハッ…と小さく笑った。
何故なのか?それはとても簡単だ。
……自由を求めたことで、自由よりも大切なものを失ってしまったからだ。それならば自由など求めなければ良かったのだ……
ハァ…と白い息を吐くと同時に、カァーン、カァーン…と鐘が鳴り響いた。
(……よし、じゃあ計画通り、二手に別れるぞ。川上にあるトムライ村の側の湖に、朝の鐘が鳴り終わるまでに集まるんだ。
それまでに来なかった者は……。待たないし待つな。)
昨日の夜におじいの言った言葉が頭に響いた。数時間前なのに、ずいぶん昔に感じられる。
(そうだ、約束の時間…)
でももう間に合わない。それにおじいは…。
「スウナさん、ラガーナさん、ガレさん、………なさい。ごめん……なさい…」
彼女達は、無事にその湖にたどり着いただろうか?……彼女たちだけは無事であってほしいと心から願う。
「…私、死ぬのかな…?……でももう疲れたよ…。……もう休んでも…いいよね………?」
それは私を護って亡くなったおじいに言ったのか、それとも、今でもなお私を生かそうとしてくれた隣のオオカミに言ったのか、自分でも分からなかった。
―――もしかするとその両者とも違うかもしれない
「あぁ、どうして……?どうして私には…こんな道しか……」
私はゆっくりと目を閉じた。そしてそのまま闇の中に落ちていった……