第4章24話「灰の鳥」
胸の鼓動が速く脈打っている。
確かめたい――その思いと、もし期待を裏切られたらという恐怖とがせめぎ合い、足がすくんだ。
喉は乾き、唇がわずかに震える。
心臓の鼓動が、静まり返った廊下にまで響きそうだった。
それでも、意を決して古びた扉の取っ手を握る。
冷たい金属の感触が手のひらに刺さるように伝わる。
ギィ、と小さく軋む音。
空気がわずかに動き、室内の匂いが外へ漏れた。
(……呪いのニオイは、ない!)
胸の奥で、弾けるように息が漏れた。
部屋の奥では、ルーフェンが穏やかな寝息を立てていた。
明け方に近いせいか、窓の外はまだ群青色の闇に包まれている。
その闇が薄く滲むように、カーテンの隙間から灰白の光が差し込み、部屋の輪郭を曖昧に浮かび上がらせていた。
足音を立てぬように、けれど焦るような速さで進む。
床板がわずかに軋むたび、胸の奥の鼓動が跳ねた。
そっとベッドの傍らに膝をつき、彼の顔をのぞき込む。
その頬にはかすかな血色が戻り、まつげが震えている。
人差し指を持ち上げ、心の中で小さな火を灯す魔法を唱える。
瞬間、指先にろうそくのような炎がふっと生まれ、ゆらゆらと温かな光が滲んだ。
炎がルーフェンの顔を照らす。
穏やかな寝顔。
苦痛の影は消え、まるで長い悪夢から解き放たれたように、静かな息が胸の奥で上下している。
(……よかった。本当に……よかった)
やはり呪いが解けたのは、王だけではなかった。
ルーフェンもまた、救われたのだ。
張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、私は小さく息をつく。
指先の火を吹き消すと、部屋は再び闇に包まれた。
その闇の中で、安堵が波のように押し寄せてくる。
床に背を預けると、木の冷たさが伝わり、意識がふっと遠のきそうになる。
だがそのとき――
わずかな気配に、ルーフェンが反応した。
寝返りの音。
闇の中で、彼が身を起こす気配。
掠れた声が静寂を破った。
「……イリーナ?」
その声は、いつもの調子ではなかった。
まるで夢の中で誰かを呼ぶように、柔らかく、優しい響きを帯びていた。
「えっと……ルーフェンさん、私です」
私は指先に再び火を灯す。
炎が柔らかく二人の顔を包み、彼の瞳に光が宿る。
「……お前、ホープか。ここは……部屋? 俺はどうして……。あの時、視界が急に暗くなって……今、何時だ? 一体、何があったんだ?」
ルーフェンは混乱した様子で、矢継ぎ早に問いを重ねる。
その声に生気が戻っているのが、たまらなく嬉しかった。
「ルーフェンさんは、私をおぶってる最中に倒れたんですよ。でも、もう大丈夫みたいですね」
私の吐息に合わせて、小さな炎が揺らめく。
その光は、まるで息づく生命のように二人の間を照らしていた。
「そうか……。すまない、心配をかけたな」
ルーフェンは首をかしげ、少し照れくさそうに笑う。
「いいえ」
私は小さく首を振る。
短い沈黙のあと、彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「……お前、何か異変はないか?」
「えっ? なぜです?」
一瞬、空気が止まった。
ルーフェンは何かを思い出すように、目を細める。
「……変な夢を見ていたんだ。赤いツタが全身に巻きついて、動けなくなってな。そこに灰の鳥がやってきて、俺の心臓に飛び込んだ。するとツタが燃え尽きて、全部消えたんだ。――そんな夢だ」
「えっと、それは私に何の関係が?」
「いや、なに。その灰の鳥の瞳が紫だったんだ。だからお前だと直感的に思ってさ」
「私が鳥に……? ふふっ、変ですね。私が変身するなら、鳥じゃなくて狼ですよ」
「ふはっ、確かにな」
ルーフェンの笑みが炎に照らされる。
その笑みを見ただけで、胸がじんと熱くなった。
「ん、ホープ? 頬が腫れてないか?」
言われて、思わず頬を押さえる。
そこには確かに熱があり、指先がじんと痛む。――竜の尻尾で打たれた跡だ。
「ああ、これですか。そうだ、この腫れのこと、聞いてくれますか?……今夜、実はちょっと冒険をしてきたんです」
ルーフェンはきょとんと目を見開いた。
私は小さく笑い、“雪夜に招かれた客”の顛末を、静かに語りはじめた。




