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精霊の湖  作者: 桜木ゆず
第4章 トレイユ城

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第4章23話「望み」

「ホープさん! こちらへ!」


バラバイの声は弾んでいた。

何があったのだろう。私は首をかしげつつも、そっと扉を閉める。


「失礼します」


豪奢な寝台の前に、王とバラバイが並んで立っていた。

私は一礼し、寝台へと歩み寄る。目の前で膝をつくと、王の穏やかな微笑みが見えた。


「我が王の呪いが解けていたのです……!」


バラバイの声は震えていた。私は驚きに息をのむ。

彼の瞳は興奮にきらめき、薄暗い夜でも光を宿しているのが分かる。

その隣では、王が血色を取り戻し、安堵の笑みを浮かべていた。


「眠っていた間に呪いが消えたようだ。……あぁ、身体が嘘のように軽い。そなたがやってくれたのだろう?」


王は嬉しげに両腕を広げる。

私は思わず嗅覚を研ぎ澄ませた。

確かに――もう、呪いの匂いはどこにもない。


「呪いが……解けてる?そ、そういえば、全部の呪いが消えるように、“意思の魔法”を使いましたけど……まさか、本当に……?」


言葉が途中で途切れた。自分のしたことが、まだ実感として追いつかない。

私はただ、王の顔を見つめることしかできなかった。


「経緯などどうでもよい。事実として、私の呪いは消えた。……お告げの通り、雪夜に招かれた客が私の命を救ったのだな」


王の言葉に、バラバイが深くうなずいた。


「本当に……ありがとうございます、ホープさん。――さて、我が王よ、こちらを使ってもよろしいですかな?」


寝台脇の机を指差す。そこには手鏡と、真新しい白布が置かれていた。


「あぁ、構わぬ。この子に渡してやりなさい」


王の許しに、バラバイは嬉しそうに頷く。


「感謝いたします。……さぁ、ホープさん、これをどうぞ」


差し出された手鏡は重かった。

触れた瞬間、銀の光沢が月明かりを返す。

鏡の中に映った自分――目の下には深い隈、頬には鼻血の跡、髪は乱れ放題。

まるで野生動物のようだった。


あわてて白い布で顔を拭う。布が触れた瞬間、忘れていた頬の痛みがじーんと蘇る。だが私は奥歯を噛みしめ、平然を装った。理由などない。

ただ奴隷時代の癖だ。


服も擦り切れ、血の跡がわずかに残っている。

(新しい服を……用意してもらわないとな)

ぼんやりとそんなことを考えながら、髪を手ぐしで整えた。


ようやく人の形に戻った私は、王に一礼した。

王はそれを見届け、小さく頷く。


「今宵の騒ぎの一件は、全てバラバイから聞いた。呪いで身体が弱っていたとは言え、騒ぎがあっても目が覚めなかった自分が恥ずかしい」


王は額に手を当てて、静かに声を落とした。声からは悲壮の色がしていた。


「して、イルマは?」


王はバラバイの方を見ながら言った。もう声色は変わって、そこには凛とした響きがあった。

王と呼ばれるためには、血筋だけではなく、このような切り替える力も必要なのだろう。


「ヌーシャルが見張っております。おそらく地下牢へ連れて行ったかと。あそこは魔法封じの牢がありますからな」


「地下牢⋯⋯」

きっと、イルマは今、暗くて冷たい水の底にいるかのように、孤独なはずだ。

彼女の行いの報いと言えばそれまでだが、彼女が気の毒でならなかった。


「だがまさか、呪いの術者がイルマだったとは。⋯⋯復讐か。我が息子・アルシアとの婚約を認めなかった、その恨みか。私は……恨まれていたのだな」


王の瞳の中に怒りはなかった。ただ深い悲しみだけがあった。

裏切り――それも、身内の。自身が選択した結果の今。それに向き合う王は少し混乱していた。



王の気持ちも分からない訳では無い。

しかし、ただ、悲しげに笑うイルマの顔が脳裏に浮かんだ。


イルマの過去。彼女の悲願。彼女の愛。

そのすべてを王が知ったなら、王の悲しみは少しでも癒えるのだろうか。

そして、こうなった今でもなお、彼女がアルシアを――心の底から愛していたと知ったなら、王は気持ちは変わるだろうか。


王はやや伏せた瞳を上げ、バラバイと私を交互に見たあと、口を開いた。


「そなたらからもっと話を聞きたいが……今夜はもう遅い。続きは明日にしよう。」


王の声は穏やかで、どこか労わる響きを帯びていた。


「それがよろしいでしょう。王も病み上がり、ホープさんもお疲れですからな」


バラバイが眉を下げ、優しく言った。


「バラバイ。ヌーシャルにイルマをよく見張っておくように伝えよ。その後はもう、そなたも休んで良いぞ」


「はっ⋯⋯」

バラバイが胸に手を当てて、王命をしっかりと受け取った。


「ホープよ、下がりなさい。ご苦労であった。」


だが、私は一歩前に出る。

まだ――やるべきことがある。


「……あのっ!下がる前に、一つだけ、よろしいでしょうか?」


「うむ?ああ、申してみよ」


王が首を傾げ、真っ直ぐ私を見る。


「解決したら、望みを何でも叶えてくれると……そう仰いましたよね?」


私も視線を外さず、王の瞳を見返す。

静寂の中、二人の息が交わる。


「あぁ、もちろんだ。何でも褒美をやろう。――一つと言わず、いくつでも。ゆっくり考えてよいぞ」


王は微笑みながら頷く。

私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

そして、静かに目を開け、言葉を紡ぐ。


「実はもう、決まっているんです。……欲しいのは褒美ではなく、私の“望み”を聞いてほしいのです」


「褒美ではなく、望み……?よい、申してみよ。そなたが望むもの、それは何だ?」


王の声が静かに響く。

私は唇を震わせながら、はっきりと告げた。


「――私の望みは……」


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