第1章 3話「愛しき森で」
『まずい…!』
文字通り、スーっと顔から血の気が引いていく。
暗闇にも目が慣れ、かなり見えるようになっていた私は、サッと後ろを振り返る。そこには少し離れた床に花瓶が飛び散っていた。
豪華で彩飾の限りを尽くされた芸術品は、今や見るも無惨である。陶器の割れる音が鋭く響いていた。割れたその音もまさしく一級品だ。
今の今まで泥棒のように足音を忍ばせてきたが、それが水の泡になって消えた。
(さっきの風で倒れたんだ…!!ど、どうしよう……っっ!)
まずい、まずい…と頭がぐるぐるして冷静に考えられない。他の皆も同じようにオロオロしている。
すると、大きな声で鋭く、
「走れ!行け!走れっ!!」
ラガーナだった。
その瞬間、みんな走り出した…。
「ハァッ!ハァッ!ハァッ…!」
パニックになっていた。呼吸がめちゃくちゃで、そんなに走っていないのに、息が苦しい…。
息を整えないと!すぐにバテてしまう!
憎たらしい花瓶で、やはり異変に気づいたようだ。屋敷にあかりが灯っていく。それは振り返らずとも分かった。走り抜ける夜の雪の地面に、その漏れた灯りが映っていたからだった。
(使用人達が起きた…!奴隷が逃げたことが分かれば、屋敷の騎士がきっとすぐに追ってくる!)
皆は遠くの方を走っていた。どうやらオロオロはしていたけど、きちんと計画通り決められたそれぞれの方角へ走っている。
ガレ、スウナ、ラガーナはどんどん遠くに離れていった。彼らは私たちとは別のルートから行くから…。
そして私とおじいは森に入らなければならない。遠くの方に暗い漆黒の森が見える。――あぁ、あの森だ。
私とおじいは川を渡るため橋のある方へ走る。橋はうっそうと繁ったあの森のなかにあるらしい。
これで良かったのか?自分達は本当に間違っていないのか?
大きな恐怖に私の小さな心が掻き乱され、世界にたった一人で自分だけが取り残されたように感じた。
足の悪いおじいは、だんだん私と距離が離れていく…。
私は少しペースを落とし、彼の手を取る。そして離れないよう、ぎゅっと強く握った。
(絶対二人で生き抜くっ!必ず二人でっっ!!)
その手をおじいは強く握り返してくれた。小さくとも心を強く持とうとした。
2、3分ほど一度も止まることなく走ったところで、うっそうとした森に入った。
「おじい!森だっ!着いたよっ!この森の中に川があるんだよねっ!?」
そこで初めて立ち止まる。少しホッとしたところで、寒さで手と足が痛いことに初めて気づいた。一方で彼は早く荒い息を下を向いて整えていた。
「ハァハァ…、大丈夫?まだ動けそう?」
私も息を整えて出来るだけゆっくりと言った。しかし彼の反応はない。
どれ程走ったのか確認しようと、後ろを振り返る。走ってきた足跡は点々と続いていた。いくら吹雪といっても足跡はそうすぐには消えないのか……
「とにかくゆっくりでもいいからっ。歩こう!少しでも進もう!」
その呼び掛けに、下を向きながらだが、彼は大きくうなずいた。
半ば無理やりにおじいの手を引っ張っていく。そして、はや歩きで森の中を進んでいく。
おじいの辛そうな荒い呼吸は聞こえなくなった。ようやく息が整ったようだ。
先ほどは漆黒の森を見て恐ろしくて不安になったが、実際森の中に入るとなんだか木に見守られているようで少し安心した。
注意してはいるが馬の足音は聞こえない。吹雪の音でかきけされているのか?夜の森では吹雪以外の音は聴こえない。ある意味静かだ。
「ねぇおじい。追っ手……騎士たち、来ないよね?」
半ば願いのように尋ねる。返ってくる答えは良いものを期待して……
「なぁホープ。逃げきれたらわしの故郷に一緒に来ないか?」
しかし返ってきた言葉は全く別のものだった。不意にそう言われて、びっくりする。
「え…。」
目が点になる。今はそんな時ではないだろう、逃げなくては…。
しかし彼の続く言葉を待つ自分がいた。その自分とは理性に勝り、感情に支配された自分だ。
「前にも一度言ったと思うが、故郷はギギラという西のほうにある国なんだ。わしはそこのターシという小さな町に住んでいたんだよ。海の見える美しく場所だ。そこならきっとおまえは伸び伸び暮らせると思うんだ。それにわしはお前を本当の…」
何か考えているのか、少し間があったあと、
「………いや、なんでもない」
何て言おうとしたんだろう…?
いや、そんなことより、本当に彼の故郷に行ってもいいのだろうか?
本当に??こんな私を…?
「いいの?私なんかでいいの?だって私は性格も悪いし、きっと可愛いげもないし、それに私は親に……、家族に……」
「ホープ、わしはお前の気持ちを聞いてるんだ。お前がどういう子かはわしが一番良く知っている……。お前の気持ちを教えてくれ」
「私は……迷惑じゃないなら…。おじいがいいなら私……。一緒に行ってもいい?家族になってもいい?」
嬉しい気持ちを抑え、控えめにそう言いながら顔色を見る。
「そうか!あたりまえだ。いい場所がたくさんあるんだ。きっとホープも気に入る」
二カッと笑ってくれた…。
それだけで安心できた。
それから彼のペースに合わせ、ゆっくりと歩いていると川が見えてきた。
(川だ!!えっと……私たちは橋を渡って川向こうから川上に登る…。あれ?橋はどこだろ)
もう少し上流のほうにあるのだろうか。
彼に声をかけようと息を吸ったとき、ハッと気づいた。
馬の蹄の音がした。