第1章 11話 「平穏」
部屋に一人取り残されたが特にすることもなく、そしてそこから動く気力もなく、独りベッドの上で膝を抱える。
まさに迷子になった子どもである。でも迎えに来てくれる人は誰もいない迷い子……。そう、もう一人なのだ。
朝の眩しい光の中で目を覚ましたとき、優しく笑いかけてくれる老人も、まるで小さな子どものように扱い、からかってくる姉のようなスウナという女性も、少し乱暴だが狭い檻の中でスウナという女性を想っていたガレという若者も、ごく最近やって来たラガーナという新顔で無口な男も、誰一人いない…。そう、もうその誰もいないのだ。
おじいが生きていたらきっと、朝の目覚めが美しいものだっただろう。スウナが側に居てくれただけできっと、笑って過ごせただろう。スウナを想っていたであろうガレを見ていればきっと、優しい気持ちになれただろう。クールだったガレという男もきっと、もっと共に過ごせば彼の穏やかな笑顔も見れたのだろう……。
その素晴らしい世界の可能性は煙のように消え去り、これから一体どう生きていけばいいのか分からない……
『生きて幸せになりなさい…』
最期の言葉が未だ鮮明に耳に残っていた。彼は最後の時まで血も繋がっていない、何も持っていないこのちっぽけな少女を想っていてくれたのだ。
「でも何も返せなかった……。私何もしてあげられなかった……」
無情なこの世界に絶望を感じる。無力な自分に怒りを感じる。
「もう幸せになんてなれないよ…。おじいがいないのに、みんながいないのに幸せになんてなれないよ……。私どうすればいいの?教えてよ……」
もう応えてくれないと分かっている。分かっているはずなのにでもすがりたいと願ってしまうのだ。瞳から一滴の涙がハラリと落ち、思わず下を向く。
『コンコンッ……』
その時突然ドアが叩かれた。その音は鋭く、しかし軽かった。ルーフェンという男が帰るには明らかに早い。
「だれっ…!?」
私は驚いてそのドアノブを見つめながら言う。だがそれが回されることはなく、代わりに返事が返ってきたのだった。
「朝ご飯だよ、ドアの外に置いておくから食べな」
扉を隔てて聴こえてきたそれは柔らかな声だった。
「あ、ありがとうございます…」
未だにドアノブを凝視しながら小さくお礼を言った。
するとすぐに扉から離れるような気配がしたかと思うと、やがてその気配もなくなった。
ベッドから起きあがりドアの方にそろそろと歩く。疲れていて足にあまり力が入らず、すぐそこにあるはずのドアがすごく遠くに思えた。
ゆっくりとドアを開けるとそこにはやはり誰もいなかった。外は廊下でずうっと奥まで続いており、他にもたくさん部屋があるようだ。
良い香りに自然と目が向く。そうして視線を床の方に落とすと、部屋のすぐ側に温かそうな朝食が置いてあった。
「なんておいしいんだろう…」
そうボソッと独り言を呟く。私はベッドから起き上がり、硬い木の椅子に座って朝食をとっていた。
パンは甘くてふっくらしており、スープは温かく野菜がたくさん入っていた。量もちょうど良いくらいで、きっとお腹はいっぱいになるだろう。空腹が満たされるなんて、とても贅沢な朝食だ。
噛み締めるようにゆっくり、ゆっくりと食べ残さず平らげる。体の疲れや痛みも和らぎ、なんだか元気になったように感じて、水差しからコップに水をたくさん入れる。
『コンコン…』
(っ!)
またドアが叩かれた。驚いて水差しの水を少しテーブルの上にこぼす。
「俺だ、起きてるかホープ?」
低きてよく通る声。声の主はルーフェンだ。
「悪いんだがドアを開けてくれないか?荷物が多くてな」
「あ、はい。いま開けますね」
声の方に近づき、おそるおそるそのドアを開く。ドアを開け目の前に飛び込んできたのは、両手に一杯の荷物を提げたルーフェンだ。
「こ、こんなに?」
「あぁ、色々必要だと思ってな。部屋に入れるのを手伝ってくれないか」
床やテーブルの上には荷物が散乱し、ぐちゃぐちゃになっていた。しかしルーフェンは特に気にした様子はない。
そしてたった今運んできたたくさんの荷物の中から、ごそごそと服とズボンを取り出した。
「色々買ってはきたが……。まあ、まずはその服を着替えろ。そんな血だらけの服は嫌だろう」
彼は手にした衣類をひろげる。そして難しそうな顔をしながら私の頭からつま先まで見たかと思うと、次に手に持った衣類にパッと視線を変える。
すると、何かに納得したのかひとりでに頷き、それを押し付けるように私に手渡した。
「ほら、着替えるといい」
「えと、ありがとうごさいます…」
渡された服をしげしげと見つめながら、私は感心していた。
ルーフェンとはついさきほど会ったばかりの他人なのに、見た感じ彼が選んだ服の大きさは私にぴったりだったからだ。
ルーフェンは疲れたのか、いつの間にか椅子に座って水を飲んでいる。
私はそんなルーフェンの横顔を見つめながら、ある問題にぶち当たっていることに気がついた。
(ど、どうしよう)
「ん、なんだ?」
私の視線に気がついたようで、彼は不思議そうに訊ねる。
「いっ、いえっ。なにも……」
ルーフェンの問い掛けに、私は少し歯切れの悪い言い方をする。
「どうしたんだ、着替えないのか?……気に入らなかったか?」
今度は真面目な顔でこちらを見ながら言った。
「いいえ!とんでもないです」
「……そうか?ならいいんだが…」
彼は不思議そうに首をかしげている。
ルーフェンは部屋にいる。彼は全く動く気配はない。むしろひと仕事終えて本を読み出しそうな雰囲気さえある。
出来るだけ平静を装いながらも、内心はとても焦っていた。
ここで着替えれば私が女であるとバレてしまうからだ……。
うまく立ち回る方法はないかと、小さな頭をフル回転させる。
「ああ、そうだ。朝食は食べたか?うまかっただろう?」
「えっと、そうですね、はい」
考えすぎて彼の言葉も頭に入ってこず、素っ気ない返事になってしまう。
この返事にルーフェンは少し驚いた表情をしていた。しかしすぐにいつも通りの真面目な顔に戻り、眉をひそめながら口を開いた。
「……何か他にももらってきたほうがいいか?」
私があまり食事に満足しなかった、あるいは量が足りなかったのかもしれないと思ったのだろう。
彼は難しい表情で尋ねてきたのだった。
するとその瞬間まるでバチッと閃光が飛び散ったように、これはチャンスだと閃いた。
「はい。ええっと……、何か温かい飲み物をお願いしてもいいですか?」
「あぁ、分かった。もらってこよう」
そう言うと彼はすぐさまドアから出ていった。
その瞬間私は服を脱ぎ捨て、貰った服に素早く全力で着替えていった。
「どうだ大きさは?小さくないか?」
ルーフェンは湯気のたつミルクを持ってきてくれた。私はそれを飲みながら答える。
「服も靴もぴったりです」
全身真っ黒な服装になった。
「そうか。あとはこれだけだな」
そう言うとフードのついた、またこれも真っ黒なコートを取り出した。
「外に出るときは着るといい。ここにかけておく。…ホープ少し眠れ、疲れた顔をしている」
「えぇ。そうさせてもらいます…」
時間はもうお昼前だと思うが、眠らせてもらうことにした。
ミルクを飲み干し、ベッドに入る。そして壁の方を向き、目を閉じた。するとすぐに闇に落ちていった……
夢を見た。
金と銀に光る何かに追いかけられている夢だ。怖くて一生懸命逃げる。でも何をそんなに怖がっているのか?
(どうして……。どうして私が…っ!………私は…っ!)
夢の中で必死に何かを叫ぶ。だがその声は誰にも届かない。
でも不思議なことに、それは当然だと妙に納得している自分がいる。誰にも私の声が届くはずはないと。だって私がいるのは……
「………………プ!ホープ!」
遠いところで誰かが呼んでいる。一体誰なのだろうか…?まさか私の声が届いたっていうの?
ありえない。自分の声が誰かに届くなんて…。だってここは……この場所は……
暗く冷たい水の底なのだから。
「ホープ!起きろ!」
そこで目が覚める。
「追っ手が来た」




