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魔術師の遺産・後編

 ガチガチと歯を鳴らして硬直するカサバルの前で、魔物はさきほど男を1人圧殺したばかりの枝を振り上げていた。

 その幹には、シャモーの手下たちのものらしき数本の剣が突き刺さっている。傷口から流れる黄色い体液が、一面にかかった犠牲者の赤い血と混ざり茶色く染まっていた。

「あ、あぁ」

 カサバルは、無意識のうちにふところからサルマの本を取り出して、盾にするように両手で掲げた。無意味だということは分かっている。もうすぐ、踏まれた芋虫のようにみじめに死んでしまうだろう。

 自分の死を前にして、頭によぎるのはただ1人の家族のことだった。

「ああ、兄ちゃんはもうダメだ……。せめて、花嫁姿を見てやりたかったよ」

 観念して、ここにはいない妹に謝る。


 しかし、覚悟した一撃は、いっこうに来る気配がなかった。

「……え?」

 見ると、魔物は枝を持ち上げた体勢のまま、動く様子がない。その姿は、まるでグロテスクな彫像のようにも見えた。

 そして、カサバルは気づく。

(こいつ、伯父さんの本に反応している?)

 カサバルが見る限り、魔物の幹にうがたれた虚ろな目は、カサバルの掲げる本に視線を固定しているようだった。


 その時、毒々しい紫色の光線が魔物の背後を襲い、耳を覆いたくなるほどの轟音をまき散らした。

 幹を焼けこげさせた魔物は、断末魔の叫びを上げるかのように巨体を震わせる。一瞬の硬直の後、重々しい音を立てて横へと倒れ込んだ。無数の木の葉が風圧で舞い上がる。

「ふん。サルマめ。いまいましい。このような番人で、わしを止められると思うたか」

 侮蔑をこめた声音で言うのは、恐るべき魔術を披露したシャモーだった。今の喧騒にも眉ひとつ動かした様子は見られない。

 カサバルを含め、他の男たちは魂を抜かれたような表情で倒れた魔物を見ていた。

 5人の男が、今や物言わぬ死体となって横たわっている。

 胸に風穴をあけた者、原形を残さず潰れた者。死因は様々だが、無残な死にざまだけは共通していた。

 誰かが激しくえずく。

 ビチャビチャと、吐瀉物が地面を叩く音が響いた。

「何をしている。番人がいたからには、目的地は近いということだ。進め」

 そんな惨状をよそに、シャモーは平然と一行に命令を下す。

 むごたらしく奪われた命を目にして心を動かさないシャモーを、カサバルは理解できなかった。


 シャモーの言う通り、森はすぐに途切れて、一行は目的地と思われる場所に到達した。

 そそり立つような崖を背景として、草すらも生えずに土色の地面をむき出しにする正方形の空間が広がっていたのだ。自然のものではなく、人為的なものであることは明らかだった。

 だが、そのことよりも、その中心に据えられた物が全員の注意を引いた。

「なんだ、ありゃ?」

 シャモーの手下の1人が、いぶかしげに眉をひそめる。答えられる者はいない。シャモーですら、沈黙を保っていた。


 そこにあるのは、およそカサバルの身長の倍はあるだろう大きさの人型があぐらをかいている像だった。

 サルマの本に書かれていた内容を思い出し、カサバルはこれが洞窟の目印の女神像なのだろうかと考えた。

 確信を持てないのは、その像が、およそ神をかたどったものとは思えないほどに、おどろおどろしく、不安をあおりたてる陰鬱とした空気をまとっていたからだ。

 近寄ってその造形がはっきりするにつれて、カサバルの抱く嫌悪感は大きくなる一方だった。

 像は、鈍い光沢を帯びた群青色の金属によって作られていた。胴体は裸身の女性のもので、それも、丸々と張り出した膨れ腹が、その中にある胎児の存在を主張している。妊婦であることは一目で分かった。


 異様なのは、その頭部と両足が、人とは似ても似つかない山羊のものであったことだ。

 四角い瞳孔を光らせる目と、ねじくれた角。両足の先は、二股に分かれたヒヅメである。注意して見れば、石像の腰から下は、びっしりと毛で覆われていることも観察できた。

 芸術には疎いカサバルにも、その緻密で真に迫る造形から、その像を彫ったのが洗練された技術を持つ職人であることは一目瞭然だった。

 だがその職人は、一体どのような狂気に取りつかれて、ノミと槌を振るったのだろうか。カサバルには、およそ尋常の感性を持つ人間がこのような醜悪な作品を完成させるなど信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 その異質な存在感に圧倒され、一行が言葉を失って像を取り巻く中、ただ1人無表情を保っていたシャモーが禿頭を手でさすりながらつぶやいた。

「ふむ、これが女神の像か? しかし、イホウンデーはヘラ鹿の角を持つ女神。山羊の特徴を持つはずもないが」

「あの、シャモー様」

 カサバルが声をかけると、思索を邪魔されたシャモーは冷たい眼差しを寄こした。

 だが、カサバルの手にあの本が握られているのに気づくと、すぐに用件を察したらしい。小さい手振りで、先を促がした。

「あの、本を確認したのですが、また文章が新しくなっています。その女神のことについても書かれているようです」

「この像の正体についてか?」

「はい」

「なんと書かれていた?」

「ええと、『千匹の仔を孕みし森の黒山羊』とあります」


 女神についての文章を読み上げても、カサバルには何のことやら見当もつかなかったが、シャモーは驚愕に目を見開いた。

「なんと! そうか、サルマめ、得体の知れない術をどこから学んでいるのか不思議ではあったが、シュブ=ニグラスを信仰していたのか」

「シュブ=ニグラス?」

 聞き慣れない名前をカサバルはつぶやいたが、その直後、全身から血の気が引いた。その名を口にした時、したたるほどの悪意を含んだ冒涜的な視線が、体を射抜いたように感じたからだ。

 その時、そばに立つシャモーへの恐れすらもカサバルは忘却した。濁流が小石を飲み込むように、より圧倒的な恐怖の感情が押し流してしまったからだ。

 だが、それも一瞬のことで、得体の知れない恐怖は幻のごとく消え去り、後には奇妙な喪失感のみが残った。

 呆然と立ち尽くすカサバルの異常に気づく素振りもなく、魔導士はなおも相手のいない言葉をつむいでいる。

「気を抜いてはおれんな。シュブ=ニグラスとなれば、北のエイボンが主と仰ぐと噂されるツァトゥグアに匹敵するだろう。多産の女神は、悪意の産物である落とし子を自在に生み出すのだからな。おい、周辺を探るのだ!」


 シャモーは、彼とカサバルの2人を残して、手下たちを捜索に送ったが、なかなか洞窟は見つからなかった。

 灰色の空から明るさが完全に消えて、松明に火をともさなくては辺りが見えないころになっても、腕を組んでたたずむ魔導士の仮面のような横顔には、およそ焦りやいらだちといった色は見られない。

 だが、冷酷な魔導士と2人きりのカサバルは気が気ではなかった。

 カサバルはオドオドと落ち着かず目線をあちこちに動かしていたが、ふと、あの醜悪な女神像に目をやった際に、その右手が何か円形のものを握りしめていることに気づいた。


 カサバルは、あれほど嫌悪感を抱いていた女神像から目を離すことができなかった。その右手が握るものを見ていると、胸の内に得体の知れない焦燥感が湧いてきたのだ。

 心中でドロドロとのたつく感情。

 それを振り払いたい欲求が、カサバルを女神像へと歩み寄らせた。不思議なことに、シャモーがその行動に気づく様子はなく、眉間に深いしわを刻んだまま沈黙を保っている。

 フラフラと酔っ払いのようにおぼつかない足取りで、カサバルは女神像に歩み寄った。

 近寄って見ると、それは、カサバルの手のひらほどの大きさのメダルであった。女神像と同じく、見たこともない群青色の金属の表面に、闇雲につけた傷跡のような記号が彫られている。


「これは」

 カサバルにはその記号に見覚えがあった。

 そう。サルマがカサバルに残した本に書かれた記号と全く同じものなのだ。

 そして、この日に何度も彼が目にしたように、松明の明かりを反射して輝くメダルの表面がグニャリと歪み、新しい文字の羅列を浮かび上がらせた。

「シュブ=ニグラス」

 カサバルは、そこに彫られた名前を口ずさんだ。

 たしかに自分の声なのに、現実感に乏しく、どこか遠くから響いて来るかのようだった。


 カサバルの見ている内にも、メダルの表面は波が立つように震えて、新しい文章を浮かべていく。

「森の黒山羊。狂気を孕む母。多産の女神―――。多産の女神。狂気を孕む母。森の黒山羊―――」

 頭の中を棒でかき回されているかのように思考が乱れていき、うわ言のように、何度も何度も文章を読み上げる。

 何度同じフレーズを繰り返しただろうか。やがて、カサバルは、自分の両腕が持ち主とは別の意志によって松明を像に立てかけ、前方に伸びるのを呆然と見ていた。

 そして、2つの手のひらが水をすくうように合わさると同時に、カサバルは最後の言葉を吐き出した。


「この血に従い、永遠の隷属を誓います」


 手のひらに冷たい感触が落ちてきた。

 自分の手の中にメダルがあるのを信じられない思いでカサバルは見た。

 いつの間にか、その表面には精巧に彫刻された山羊の顔がある。当惑して視線を上げたが、女神像の指は、メダルがもはやないことを除けば、何の変化も見られなかった。


「おお!」

 その時、シャモーが押し殺した驚きの声を漏らした。

 崖の一角の何の変哲もない岩肌が、鉄を高熱で溶かすごとくドロドロと崩れ落ち始め、やがて、巨大な横穴がそこに出現したのだ。

「小僧、何かしたのか?」

「い、いえ。何もしていませんとも」

 メダルをとっさにふところにしまい、カサバルは首を横に振った。女神の像に近寄ってからの一連の出来事に、シャモーが気づいていなかったことを不審に思いながら。

「ふむ。時間の経過によるものか? まあ、よい」

 シャモーは片手をかかげ、頭上へと紫に輝く光線を放った。

 合図を受けて部下たちがほどなく集合するまで、カサバルは洞窟の入り口を観察していた。

 名状しがたい女神像と同じく、禍々しく、どこかこの世のものとは思えない雰囲気を洞窟は放っていた。

その入り口は奇妙な横に広い楕円形であったが、その四方八方から杭のように鋭くとがった未知の鉱石が垂直に伸びている。その壁は、奇妙に湿気を帯びており、膿汁に似た黄ばんだ粘液がこびりついていた。


「なんて匂いだ。鼻が曲がりそうだぜ」

 シャモーの部下の1人が、洞窟から漂って来る腐臭に耐えかねて顔を歪ませる。

「小僧。本にはなんと書いてある?」

「それが……」

 すでに本を開いてページとにらめっこをしていたカサバルは、当惑してシャモーへと目をやった。

「文章が現れません。まだ時期でないのかも――」


 話せたのはそこまでだった。

 突然、シャモーが奇妙な音律の呪文をとなえるやいなや、本に対して紫の光線を浴びせたからだ。

「ひゃあ!?」

 たまらずカサバルは悲鳴を上げて本を取り落とし、地面に倒れた。左腕に鋭い痛みがはしる。涙目になって見ると、転んだ拍子に、洞窟から生えている鉱石で切ってしまったようだ。不幸中の幸いか、深い傷ではない。

「痛い、痛い……」

 情けないうめき声をあげて、カサバルが血の出る左腕をおさえる。手のひらはすぐに真っ赤に染まり、転んだ拍子にポケットから転がったメダルにも、少量の血が散った。


 腕の痛みに耐えてカサバルは立ち上がると、シャモーがこちらを見ていないことを確認してから、恨みがましい視線を向ける。

 シャモーは平然と本を拾い上げて数秒見つめ、それをカサバルに投げてよこした。

「ふん、この技でも呪文は破れぬか。今は進むしかなかろうて。行くぞ」

 カサバルの負傷にひとかけらの注意も払わずに兵士たちの後を歩くシャモーを追おうとした時、ふと目線が手元の本に目を落ちた。

「……!」

 危ういところで、カサバルはもらしかけた声を飲み込む。

 変化の見えなかったページの上に、うっすらと、小さい傷口から血がにじむように文字が浮かびつつあったのだ。

(シャモーの魔術のせいで、本にかけられていた魔術が破られかけている?)

 魔術に疎いカサバルでは、サルマの魔術が効力を失い始めている原因ははっきりと断定できない。

 だが、これは幸運かもしれない。その内容しだいでは、シャモーの裏をかけるかもしれないのだから。

 カサバルは慎重な手つきで本をわきにはさみ、メダルを拾い上げた。

(慎重に、バレないように)

 緊張で乾く唇をなめながら歩き出そうとしたカサバルは、小さな違和感を覚えて、握ったメダルを凝視した。

 不気味なまでに写実的に彫られた山羊の顔が輝きを放つメダル。それには、汚れの1つもない。

(さっき、たしかに血がかかったような。見間違いだったかな?)

「何をしておる。さっさと来い、小僧」

「はい、ただいま!」

 シャモーに声をかけられ、カサバルは慌てて駈け出した。


「ひでぇとこだな、ここは。人食いのブーアミ族の住みかだって、ここまでじゃねえぞ」

 サルマの遺産を求めて、洞窟に足を踏み入れてからしばらく経ったころ、耐えかねたように誰かがもらした。


 実際、ここまで不快で、怖気を感じる場所はカサバルにとって初めてだった。

 ゆるやかな下向きの傾斜の続く洞窟は、今までのところほぼ一直線に伸びているようだった。その壁は粘性を帯びた汚液がいたる所に付着しており、足を滑らせないように常に気を張る必要があった。

 どこかに空気の通る穴があるのか、時おり緩やかな風が肌を撫で、鼻をつまみたくなるような生臭い臭いを顔に運ぶ。

「うっぷ……」

 強烈な臭いと、シャモーのすぐ後ろを歩くことへの緊張感から、カサバルの喉奥から酸っぱい液がこみ上げ、慌ててそれを飲み込んだ。

 涙で視界がぼやけ、ユラユラと揺れる松明の明かりに照らし出される洞窟の壁が、小さく脈動したかのような錯覚を覚えた。

「自然の中に、こんな恐ろしい場所があるなんて……。信じられない」

「フン。お前は救いようのないたわけだな」

 うめくようにカサバルが独り言をもらすと、それを耳に挟んだシャモーが顔を前に向けたままあざけった。

「このような洞窟が、自然にあるはずもなかろう。これは、サルマめが作り出した魔術の産物よ」

「まさか……。いくら伯父が魔術師とはいえ、こんな場所をつくるはずがありません。あの人は、人徳を持った人として有名だった」


 シャモーの言葉を、カサバルは反射的に否定する。だが、その声は弱々しいものだった。

 目の前の魔術師の言う通り、この洞窟の有様は自然のものとは思えない。魔術的なものと思えばカサバルも納得できたのだ。

 しかし、本能の部分で、肯定したくなかった。

 伯父であるサルマが、いや、正常な神経を持つ人間が、この上なく不潔で、冒涜的なものを生み出したなどと信じたくなかったのだ。

「クク。何を言うか。お前も広場に置かれた像を見たであろうに。あれこそ、サルマめがよこしまな神に信仰を捧げていた証拠ではないか」

 愉快そうに笑うシャモーに、カサバルは言葉につまった。

「良いか小僧」

 歩みを止めないまま、魔術師はゆっくりと首をひねった。凍りついた湖面のように、感情のゆらぎを欠いた冷え切った瞳がカサバルを見すえる。

「お前、いや、この世界の大半の人間は、我ら魔術師から見ればハエのようなものだ。財産や愛情などといったクソに等しいものを求めて飛び回る。愚かな存在よ。

 しかし、我らは違う。真の魔術師は、生涯の全てを英知への探究に注ぐ。世俗や善悪と言った矮小な枠組みに収まりきらぬ、高尚な英知にな」

 神聖な法典を読み上げるごとく、シャモーはおごそかに続ける。

「サルマも、その中の1人だったということよ。お前ごときの考えの及ぶものではないわ」

「全ては魔術のためだと? そのために、人の道に背くことを良しとできるのですか?」


 気づいた時には、カサバルは悲痛な問いを目の前の魔術師に放っていた。

 黙って聞いていると、今までカサバルの生きてきた世界の枠組みが、グニャリと歪んでしまうように思われたのだ。


 否定してほしいと念じるカサバルの思いは、鋼のような声に断ち切られた。

「人間には限界がある。その先を目指すならば、おのれの魂を闇に染めることもいとわん」

 よどみなく言い切るシャモーに、カサバルは、自分の立つ世界が音を立てて崩れていく感覚を味わった。

(狂っている。本当に、同じ人間の言うことか!?)

 冷徹なシャモーの視線に射抜かれたカサバルは、顔面を蒼白にして彼の口上を聞いていたが、その思想が自分の持っているものとあまりにもかけ離れていることに愕然とした。


 人間が10人いれば、10通りの価値観があるだろう。

 しかし、シャモーの言う魔術師の世界は、あまりにも異様だ。

 魔術師という存在と、カサバルのような凡人との間に広がる亀裂は、あまりにも深く、その底がうかがえないように思われた。

(伯父も、同じなのか?)

 シャモーの言うことを受け入れるなら、サルマの抱いていた価値観も、カサバルとは全く異質なものなのではないか。人々から賞賛される伯父が、その心中に歪な怪物を飼っていたのではないか。

 そう考え、カサバルは心が凍りつくかのような心地がした。

 もちろん、サルマが故人となってしまっては、確かめようもないことだった。

 だが、魔術師の世界に触れてしまった今なら、思いいたるような気がするのだ。幼いころに、どうして自分が寡黙なサルマに対して、無意識に距離を置いてしまったのか、その理由に。


 シャモーとの問答からさらにしばらく歩き続け、道のりが永遠に終わらないかのようにカサバルが思いかけた時、シャモーから声をかけられた。

「おい小僧。ずいぶんと進んだが、まだ本に変化はないか?」

 周りに気づかれないようにチラチラとページに目をやっていたカサバルは、不意にかけられて声に、心臓が口から飛び出しそうになったが、すんでのところで平静を装う。

「はい、シャモー様」

 対応に少し迷ったカサバルであったが、現在分かる範囲で真実を告げることにした。

 もし、ここで不信感をシャモーに与えて本を見られたなら、カサバルのたくらみがバレてしまうの恐れたのだ。本にかけられた魔術が破れつつあることが知れたなら、自分は用済みとして消されてしまうと悟っていた。


「ええ、そのですね、伯父は洞窟の一番奥に自分の研究結果を隠したそうです。それらは、伯父の研究の中でも最も人目をはばかる類の強大なもので、どうやら、シュブ=ニグラスという女神の力に関係するものがほとんどのようですね」

 それを聞いて、魔術師は愉快そうに喉を鳴らした。飲み込んだネズミを消化する蛇を連想させる動作だった。

「ほう、ほう。それはよい。サルマの研究は、わしが存分に活用してやろう」

「ははは」

 常に感情を表に出さないシャモーのめずらしく満足そうな様子に、カサバルは乾いた笑いを返した。

 その時、洞窟内に野太い声が響いた。

「シャモー様! ご覧ください、箱が置いてあります!」

 その声につられて前方に目をやると、洞窟はとうとう行き止まりになっており、その奥には大人も入れそうなほどに大きな箱が1つ鎮座している。

 シャモーと部下たちが駆け寄るのに、カサバルも慌ててついて行く。

 近寄ると、まだ真新しく見える木箱には、重々しい錠がかけられているのが分かった。

 何人かの手下たちが進み出て剣を振り上げたが、彼らが錠を破壊するために武器を振り下ろすよりも先に、シャモーが鋭い声で制止した。

「どけ。ただの打撃では開かぬわ」

 そして低く押し殺した声で呪文を唱えると、シャモーは前方に両手を突き出す。手のひらが、目を刺すような毒々しい紫色の光を帯び、不吉な光線を錠に向けて放った。たまらず錠は砕け散る。


(今だ!)

 シャモーと手下たちが木箱に駆け寄って行く。全員の注意が自分からそれたのを確認したカサバルは、それをチャンスと見て逃げ出そうとした。

 しかし、足に力を込めようとした瞬間、ふところに違和感を覚える。

(何だ? ふところがあたたかい?)

 手を入れてふところを探ると、指先がボウッと熱を宿すものに触れる。取り出すと、それはサルマの本だった。

(伯父さんの本? まさか)

 ある予感がして、新しいページをめくる。すると、やはりページには新しい文章が現れつつあった。


(やっぱり。でも、もう逃げるには今しかない。読んでいる時間なんて)

 ここにいれば、役割を終えたカサバルはシャモーに殺されるだろう。イチかバチかの逃走に賭けようと、カサバルは本を閉じようとした。だが、自分の体に起こる異変に気づく。

(そんな、馬鹿な!?)

 意思に反して、目がページに浮かび上がる文字列を追いかけ、止まらない。

 体が自分の意志を離れて動き出す感覚。それには、覚えがあった。

「女神像の時と、同じ……」

 声に出せたのは、そこまでだった。サルマが本につづった文章の、恐ろしい内容に思考が浸食されていく。

 悲しみ。恨み。嫉妬。狂気。そして、サルマが最後にしかけた恐ろしい罠。

 それらの事柄が、カサバルの脳内を焼き尽くし、自我を溶かしていく。

 そして、どこか遠くから反響するように聞こえる声が、自分の口から発せられるのをカサバルは聞いた。


「おい、強欲なシャモーよ。お前は、私の娘を呪い殺したのに飽き足らず、私の遺産も奪うつもりなのか」

 カサバルのものとは違う、深い知性を内に宿した壮年の男性の声に、箱の中身をあらためていたシャモーは、弾かれたかのように振り向いた。

「……その声は、サルマか。なるほど、本に刻み込んだ魔術で小僧の意識を乗っ取ったと見える」

 すぐに異変の源を察したらしいシャモーは、怖気のたつ哄笑を上げた。

「いかにも。お前と互いに害をなすことは、他の魔導士たちからの仲裁で禁じられてしまい、お前を殺すことはかなわなかった。だが、わしにたてついた本人は殺せなんだが、その幼い娘となれば、密かに呪殺するのは蚊をつぶすように簡単であったよ。

 そして、お前の一生に渡る魔術の産物は、わしがもらい受けるのだ。魔術師にとって、これほどの屈辱もあるまい?」

「お前のしたこと、そして、私の死後に行うであろうことなど、とうに見抜いていた」

 カサバルの口を介して、今は亡きサルマが語りかける。抑揚を欠いた口調にも関わらず、その中では激しい感情が火を噴くのが、カサバルには分かった。

「お前のせいで、体は弱くとも私をしのぐ素晴らしい才能に恵まれていた娘は幼くして死んだ。そして、私の築いたものを受け取るのは、才の片鱗も持たない甥だ。あの愚鈍で、深淵な魔術の世界のことなど何1つ分からない男に、だ。

 ああ。どうして、最愛の娘が死んで、あんな無能が生き残る。そんなことが、認められるものか。私の探究した魔術の成果を受け取る資格があるのは、娘だけだ。

 シャモー、そしてカサバルよ。この場で、地獄に落ちるがよい」

 そして、カサバルの喉から、空気を震わせる絶叫がほとばしった。


「イア! イア! シュブ=ニグラス!

 千匹の仔を孕む森の黒山羊よ!

 奴らを、光の届かぬ冥府の底に落としたまえ! ――ウグッ!」


 その時、前触れもなくカサバルのふところに新しい熱がともった。

 いや、熱ではない。触れる者を凍りつかせるような冷気。それのもたらす痛みが、それを熱と錯覚させたのだ。心臓をえぐるような痛みは、カサバルの意識を覚醒させた。

 体の自由を取り戻したカサバルは、慌ててふところに手を入れて、痛みの原因をつかみ出した。

「これは、女神のメダル!?」

 それは、女神像の握っていたメダルだった。不思議なことに、カサバルがつかんだ瞬間、放っていた冷気は薄れ、今ではひんやりと金属特有の涼やかな感触を帯びるだけだった。

 しかし、そのことに疑問を感じている暇はない。悪意に満ちたシャモーの声が、洞窟内に響き渡った。

「もうお前に用はない! ここで死ぬがよいわ!」

 その言葉を受けて、斧を手にした手下の1人がカサバルに切りかかった。

「ひえッ!?」

 とっさによけたが、肩を薄く切り裂かれ、鈍い痛みに顔を歪める。

 何とか足を踏ん張って転倒をまぬがれ、逃げようとしたカサバルだったが、その目におぞましい光景が映った。


 肩から流れ出た血が、重力に反して腕を伝い、うねる赤い線となって手のひらへと伸びていた。より正確に言うならば、その手のつかむメダルへと。

 メダルに彫られた山羊の顔が、カサバルの血を吸い寄せている。貪るように血液を飲み込むメダルは、醜悪なウジのように震え、脈動していた

「あ、ああああ!」

 その光景に、カサバルの理性はもろくも砕け散った。絹を裂くような悲鳴を上げて、近づく手下の顔にメダルを投げつける。幸運にも斧を構えていた手下の鼻を直撃したメダルは、そのまま、闇の中へと転がっていった。

 カサバルはきびすを返して、脱兎のごとく洞窟を逆走し始める。


「お主らは宝を運べ。あの男の一族は根絶やしにしてくれる」

 シャモーが呪文を唱えると、その両足の先に紫の光が灯り、地面を滑るように移動し始めた。

 カサバルは、千切れんばかりに両足を動かし、出口を目指した。

 その背後から、たびたび紫色の光線が体をかすめては、カサバルの衣服を焦がして体に火傷を刻む。それでも、死力を振り絞って逃走を続けた。

 シャモーを恐れたためではない。死にもの狂いの逃走は、伯父である魔術師サルマが、最後に取り行った魔術について知ったためだった。


(ここは、これは、洞窟なんかじゃない)

 魔術師特有の、屈折した価値観から、シャモーとカサバルを抹殺しようとしたサルマ。そのために取った手段は、想像を絶したものだった。


 前方にか細く、朝日が差し込むのが見えた。出口だ。

 徐々に視界が明るく染まり、目と鼻の先まで出口が迫る。

「!?」

 しかし、もう少しというところで足が粘液で滑り、大きく体勢を崩す。

「間に、合ぇええ!」

 絶叫と共に、渾身の力を込めて地面を蹴った。

 宙に踊ったカサバルの体が、鋭い鉱石に刻まれながらも、外へと飛び出す。

 もんどりうって、カサバルは地面を転がった。

 無様に倒れた彼を見て、追いついたシャモーが口のはしを耳まで裂いてほくそ笑み、紫に光る両手を向けた。

「小僧、これで終わりだ!」


 それが、この邪悪な魔術師の最期の言葉となった。

 カサバルの目と鼻の先で、洞窟が急激な振動を開始するやいなや、楕円形の入り口が閉じ、シャモーは多くのとがった鉱石に体を貫かれた。

 そして、轟音と共に山肌を割り、カサバルたちがそれまで洞窟だと思っていたものが天に向けてせり登った。頭上から降り注ぐ土くれや石から顔をかばいながら、カサバルは呆然としてそれを見守る。

 その姿をあえて説明するなら、黄色い粘液に塗れ、細長い体躯を持つナメクジだった。カサバルたちが洞窟と思い込んでいたのは、おぞましい化け物の体内だったのだ。


 グロテスクな外見を日の光にさらした化け物は、しばらく直立していたが、やがてズルリズルリと地中に向けて体を沈めていった。悪夢の具現化したような醜悪な姿が見えなくなり、やがて地中深くからげっぷの音が響いた後、完全な沈黙が山を覆いつくした。

 こうして、仇敵と甥を抹殺するためにシュブ=ニグラスによって生み出され、その体内にサルマが罠として財産を隠した異形の怪物は、深い地の底へと姿を消したのだった。


 九死に一生を得たカサバルは、精神的にも肉体的にも疲弊しきっており、茫然自失としてその場にへたり込んでいた。

 東の空から登る太陽が真上に差し掛かるころ、ようやく生の実感が湧いて来た。

「た、助かったんだ。おれはコモリオムに帰るんだ!」

 体のあちこちに火傷と切り傷を負ったものの、命はある。

 奇跡としか言えなかった。

「魔術も邪神も、もうたくさんだ! もう2度と関わるもんか!」

 絶体絶命の状況から生還し、以前と変わらない平凡な日常の中に戻ることができる。それが、大きな喜びとなり、カサバルは穏やかに微笑んだ。


「ん?」

 ふところに奇妙な重みを感じたのは、その時だった。手を差し入れると、指に硬い感触が伝わる。

「おかしいな。もう何も入ってないはずなのに」

 異物を取り出し、顔の前に掲げてみる。


 その正体を知った時、カサバルの笑顔は一瞬で凍りついた。


「どうして、だよ。投げ捨てたはずなのに……」

 カサバルの右手で光るのは、紛れもなく化け物の体内に捨てたはずのメダルだった。

 疑問符が脳内を埋め尽くす。

 魔術によるものだろうか。しかし、カサバルは当然魔術を使えない。また、これがサルマの仕業でないことは、本を通して彼の記憶の一部を読み取ったカサバルには分かった。

 これでは、まるでメダルが自分の意志で戻って来たようではないか。

 事態を把握できずにメダルを見つめるカサバルだったが、徐々にとある記憶が頭によみがえって来た。

 シュブ=ニグラスの像の前で、メダルを受け取った際の、あの場面が。


『森の黒山羊。狂気を孕む母。多産の女神――。多産の女神。狂気を孕む母。森の黒山羊――』


 何度も何度も、シュブ=ニグラスへの賛歌を唱える自分の姿。

 そして、たしかにカサバルは宣言したではないか。


『この血に従い、永遠の隷属を誓います』


「違う……」

 蚊の鳴くような声を絞り出し、過去の自分の言葉を否定しようとする。

「おれは伯父とは違うんだ。あんな恐ろしい神に信仰を捧げるなんてできるわけがない。ただ、家に帰りたいだけなんだよ」

 カサバルの声に、メダルは何も答えない。

 ただ、日に照らされて群青色に光る山羊の目が、新たにシュブ=ニグラスの信徒に加わった青年を沈黙のうちに見返すのみであった。


読んでいただいてありがとうございます。

内容についての感想などをいただけると、今後の励みになります。

いつになるかまだ未定ですが、続編も投稿したいと思っております。

よろしければおつき合い下さい。


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