魔術師の遺産・前編
「先ほども申し上げましたように」
苔むした幹からねじれた枝を伸ばす樹木ばかりが茂る山中で、カサバルは口を開いた。
今にも垂れ落ちてきそうなほどにネットリと分厚い雲が覆いかぶさる空の下、もう何年も手入れされた形跡のない劣悪な道を登り始めておよそ半日。昼時になってようやく訪れた休憩と食事の時間を逃してはもう発言の機会はないと、覚悟を決めて言葉を放ったのだ。
「私が、皆さんからかけられる期待に応えられるとはとうてい思えません。私は生まれた時から21年間、首都であるコモリオムに住んでおりまして、この地方を訪れたことは過去にありません。
天体観測所において、日々の星々の動きを記録する単調な仕事についておりました。今まで、悪事を犯して捕まったこともなければ、正義のために貢献したこともありません」
ここまで早口で話し終えると、いったん口を閉じて聴衆の反応を見守る。
昔は地元の人間の休憩場所として使われていたのか、道の脇の木を一部切り倒して確保された空き地に、10人ほどの男たちが座り込んでいる。
椅子代わりにしている切り株や岩の座り心地が悪いせいか、それともパンに山羊の乳のみという粗末な昼食への不満のためか、全員がいらだちを隠さない表情でカサバルをにらみつけていた。
「何が言いてぇんだ、小僧」
口を開いたのは、その中でもひときわ大きい背丈と凶悪な目つきをした髭面の男だった。見せつけるように、腰の剣をガチャリと鳴らす。
「いや、何と言うか……」
武骨な剣や斧で武装し筋骨隆々な肉体を持つ男たちを前にして、カサバルは、自分の人生でこれまでないほどに自分の細身な体を恨んだ。彼らにかかれば、自分の胴などたやすく二つ折りにできるだろう。
目だけを上下左右に絶えず動かして彼らの様子をうかがいながら、カサバルは気力をふりしぼり、精一杯の毅然とした口調で話を再開した。
「えーと、その……。つまりは、私は今まで魔術の世界とは、ほど遠い人生を送ってきました。
この呪われた山で、皆さんのお探しになっているものを見つける手助けになれるかは、はなはだ微妙なところでして。なんと言うか、あー、私のような足手まといは早くほっぽり出した方が――クゥッ!?」
首を絞められた鶏のような声をのどから漏らして、カサバルは硬直した。
突如、彼の舌が意志に反して動かなくなってしまったのだ。目を白黒させながら口に力を入れようとするが、舌を動かすどころか、開いた口を閉じることもできない。
いや、カサバルの全身は、まるで石化したかのように固まってしまっていた。
その異様な様子に、荒事に慣れたはずの男たちも目を見開いて腰を浮かす。身の裂けるような緊張感が場に満ちる。
「あぁ、が……」
肺に空気を送り込むこともできず、山中で溺死の苦しみを味わっていたカサバルの耳に、背後からしわがれた声が響いた。
「黙れ」
それは、冷えた鉛のように、無機質で人間味を感じさせない声だった。そして、いったん悪意の熱で溶ければ、人をたやすく焼き尽くすだろうと聞く人間に思い知らさずにはいられない声だった。
耳に痛いほどに静まり返った山中で、その静寂を引き起こした声が、凍りついた空気を震わせた。
「あの魔術師サルマが死ぬ間際に、その遺産を甥であるお前に残すと言い残したのだ。魔術師の言葉は、それ自体が霊的な力を宿す。お前のような、羽虫のごとき凡夫には理解の及ばぬ次元の話だがな」
布のこすれる音と共に足音が近づき、カサバルの視界の中に黒いローブ姿の老人が入って来た。毛髪も眉毛もなく、何重にも深いしわが刻まれたその顔は、どこか爬虫類を連想させる。一切の温もりを感じさせない黒い瞳も、その雰囲気を増長させていた。
「実際に、だ」
長い時間をかけて険しい山を登って来たはずなのに、汗もかかず朱のさす様子もない老人は、ゆっくりとした動作でカサバルのふところから一冊の本を抜き取る。
「サルマが魔術的遺産のありかを示した本も、その本来の内容を示すのはお前が目を通した時のみ。それも、持ち主であるお前がその場所に近づくにつれて、内容が変化する」
シャモーの指先が丹念になめされた人皮の表紙をなぞり、それをめくった。開かれたページには、意味があるとは思えないでたらめな記号が黒いインクで描かれている。
「だから、お前のような男をわざわざ連れてきたのだ」
老人が言い終わると同時に、カサバルの束縛が解けた。その場に崩れ落ち、肩を震わせながら空気を貪る。
「ぎゃははは!」
その様子に、老人の部下である男たちが哄笑を上げる。
「よう、小僧。どんな気分だ? まるで死にかけの羊みたいに見えるぜ!」
髭面の男がやじを飛ばすと、野卑な笑いが一層大きくなる。だが、カサバルには屈辱を感じるほどの気力も湧かなかった。
ただ、悪意を持って向けられた魔術の恐ろしさに震えていた。
「立て」
老人がカサバルに命令する。
「お前は確かに自分の言う通りの腑抜けだが、それでも役に立ってもらわなければならん。このシャモーのためにな」
魔術師に恨みを買うならば、処刑場の首切り役人に小便を引っかける方がましだというのが、ヒューペルボリア大陸に住む庶民の認識である。
斧で首を切り落とされればただ死ぬだけで済む。だが、魔術師が相手となるとさらに悲惨な運命を覚悟しなければいけない。
場合によっては、魂の冒涜すらも振りかかるのだから。
そして、人智を超えた魔術を扱う連中の中でも、その冷酷さにおいてシャモーに匹敵する者は当代に存在しないと言われていた。彼の住む館からは、その非道な実験の犠牲者たちの悲鳴が連日のように響いてくる、と。
荒れ果てた山道を登る最中に、昔コモリオムの酒場で聞いた話を思い出して、今日で何度目になるか分からないつぶやきがカサバルの口からもれた。
「伯父の遺産なんて、受け取りに来るんじゃあなかった」
カサバルは今年で21歳。いつも人の顔色をうかがうかのように目をキョロキョロと動かす癖のせいか、あるいは覇気に欠ける面長の顔のせいか、どうにも子供のころから人に頼りにされることがなかった。
そんな彼だったが、14歳の時に両親を事故で亡くしてからは、幼い妹と暮らすために天体観測所で仕事を見つけて地道に働いてきた。夜に星々の動きを観測しては羊皮紙に記録する単調な作業を繰り返す、収入も豊かとはお世辞にも言えない生活だったが、カサバルは満足していた。
そんなカサバルが、どうしてコモリオムから遠く離れた山中で邪悪な魔術師と同行するはめになったのか。
それは、ある日彼に届いた一通の手紙がきっかけだった。
その手紙には、カサバルの伯父である魔術師サルマが急病により亡くなったことと、カサバルに地方の屋敷を含む財産の全てを残したことが記されていた。
およそ「劇的」という言葉と縁遠いカサバルの人生の中でただ1つ特異な点は、父親の兄がヒューペルボリアでも有名な魔術師であったことだ。
まだ幼いころにその素質を見込まれ、とある魔術師に引き取られたサルマは瞬く間にその才覚を目覚めさせたらしい。カサバルがまだ子供の時には、その才能はもちろんのこと、病気の治療や妖物退治などを無償で行う善良な性格から、サルマの名声は世間に鳴り響いていた。
そのサルマが亡くなったと知ったカサバルは、コモリオムから7日をかけて生前の彼が住んでいた屋敷を訪れ、その遺産の詳細について調べていた。
ところが、到着して2日目の晩、ベッドで横になっていたカサバルはいきなり屋敷に乗り込んで来た一団に拉致され、わけの分からぬ間に地元の住民も滅多に足を踏み入れないといういわくつきの山に連れて来られたのだ。
(でも、どうして伯父さんはおれなんかに遺産を残したんだろう)
その疑問は、サルマが亡くなったと知ってからずっと思っているものだった。
高名なサルマとカサバルとのつながりは、ひどく薄いものだった。
サルマはおよそ2年に1度コモリオムにやって来て、地方では手に入らない魔術の品を調達することがあった。そんな時には、カサバルの父親の所にも挨拶に来ていたのだが、その滞在は長くても半日ぐらいのもので、父親以外の人間とはあまり話そうともしなかった。カサバルの方も、無感情に父親と話をするサルマのことを苦手に思っていた。
父親によると、昔は人当たりの良い性格で、特に子供には優しかったらしい。だが、ある時を境に隠者のごとく他人とのつき合いを避けるようになってしまったとのことだ。
サルマは、父親が亡くなってからカサバルの家を訪ねないようになり、金銭的な援助をすることもなかった。サルマになんとなく苦手意識を持っていたカサバルも会いに行くことはなく、両者の間に親戚としてのつきあいなど、全くなかったのである。
だから、そんなサルマが遺産を譲ってくれたと聞いた時には、カサバルは耳を疑ったものだった。
(そのことは嬉しかったよ、伯父さん。でも、魔術に関わる遺産までおれにくれることはなかったじゃないか)
すぐ前方、縦列で進む一行の先頭を歩くシャモーの背中を見ながら、カサバルはこっそりとため息をつく。
「おら、チンタラするな小僧!」
後ろから、昼食の時の髭面の男が怒鳴るのが聞こえた。振り返ると、意地悪く口元をにやけさせているのが見える。どうも、カサバルを気の弱い軟弱者と見たのか、拉致されて以来、こうしてからまれているのだ。
その男を始めとして、シャモーの手下が荒い息をついて歩きながら、自分を監視していることは分かっている。だが、彼らへの恐れなど、シャモーに感じる恐怖とは比べようもなかった。
それは魔導士としてのシャモーの悪名のためでもあるが、彼とサルマとの間にある因縁について耳にしていたからである。
カサバルがまだ生まれて間もないころのことだが、とある地方の森に巣くう凶悪な魔獣が近隣の住民に害を与えていたらしい。老若男女を問わず、多くの人間が口にするのもはばかられる最期を遂げたことで、とうとう魔獣の首に莫大な懸賞金が国からかけられた。
そして、当時から有名だった2人の魔術師が魔獣退治に名乗りを上げた。それがサルマとシャモーだったのである。
当然なことだが、どちらの魔術師が魔獣を退治するのか、大いに注目を集めた。結果としてサルマが魔獣の首を持ち帰って国王から懸賞金を受け取ると、人々は口々に賞賛の言葉を送った。
ところが、事件が終わったかのように見えた後、ある噂がコモリオムでまことしやかに囁かれるようになった。いわく、面子を潰されたシャモーが逆恨みして、サルマの命を狙っているというのである。挙句の果てに、コモリオムの有力な魔術師たちが地方に出向いて両者を仲裁する事態とまでなった。
あくまでも噂であり、真相は闇の中である。だが、サルマに対してシャモーは悪意の炎を燃やし続けていると多くの人が信じていた。
どうかただの噂であってほしい。カサバルは心からそう願った。人間らしい温かみを感じさせないシャモーの顔は、常にただ酷薄な嘲笑を浮かべるばかりで、その底にサルマへの憎悪を包み込んでいるかどうかを読み取ることはできない。
昼食を終えて登攀を再開してから、かなりの時間がたった。本来なら夏の日差しが容赦なく照りつけているはずの時刻だが、空一面にかかった暗雲と乱雑に葉を茂らせた樹木がそれを妨げている。
そのこと自体は、体力に自信のないカサバルにとってはありがたいことだった。だが、ただでさえ陰鬱な山の風景が、薄暗いせいで余計に不気味に見えてしまう。ねじくれたかぎ爪のような枝を生やした樹木が、今にも一部を地上に露出させている根を動かして、カサバルにつかみかかって来るように思えてしかたがないのだ。
そのような心配をしてしまうのは、屋敷についてすぐに聞かされた噂話のせいだろう。なんでも、10数年前に、この山において正体の知れない化け物を目撃する人が続出したというのだ。実際に被害にあった者はいないらしいが、近隣の人々はすっかり恐れをなしてこの山に寄りつかなくなったと、屋敷の近くに住む老婆が声を潜めて語ってくれたのを思い出す。
「どうだ、小僧。そろそろ、サルマの本に変化はあったか?」
深い思考の中に沈んでいたカサバルは、不意に先頭を歩くシャモーから声をかけられて我に返った。
声の主に目をやると、肩越しに感情の読み取れない表情を向けるシャモーの姿があった。その目には、服従を当然のものとみなす傲慢な光がはっきりと読み取れる。
「お、お待ちを!」
慌ててふところから本を取り出す。思わず震えそうになる指のせいで、ページをめくるのには多少のもたつきがあった。その間にも、冷たい視線がじっと注がれているのを感じていた。
「で、出ました! 新しい指示が出ています!」
カサバルの見つめる前で、無意味な記号が乱雑に記されていたページの表面に変化が起こっていた。黒いインクで描かれた文字が、水に溶けるように崩れていき、やがて、全く異なる文章を作っていった。
「なんと書いてあるのだ?」
「どうやら、もうしばらく登ると、道のわきに黒い岩があるそうです。そこから右に道を外れて進んだ先に、伯父が遺産を隠した洞窟があるようです。その入り口の近くには、目印として女神の像が置かれていると書いてあります」
「女神? イホウンデーのことか?」
ヒューペルボリアでもっとも信仰されている神格の名を口にして、シャモーはあごに手をそえて思考に没頭し始めた。
カサバルの言葉を疑う素振りも見せない。おそらく、そんな気骨などカサバルにはないことを、老獪な魔術師はとうに見抜いているのだろう。
質疑が終わったことを感じてから、カサバルは少し歩調を速めて、シャモーとの距離をつめた。ただそれだけで心臓が凍りついてしまいそうな気分になるが、どうしても確かめておきたいことがあったのだ。
「あの、シャモー様。少しよろしいですか? うかがいたいことがあるのですけれど」
ひきつりそうになる唇を懸命に動かして、声をかける。
シャモーは、道を横切るナメクジに寄こすような視線をカサバルに向けてから、先を促すようにあごを動かした。
「あの、伯父の残した遺産のことなのですけれど、もちろん少しは私にもいただけますよね? いえいえ、当然、魔術がらみのものは全部さしあげます。私には無用の長物ですから。
ただですね、もし中に小さな宝石やら金の欠片やらが混じっているようなら、道案内の報酬としていただきたいんです」
どうして全て自分に残されたはずの遺産をみじめにせびっているのだろうか。むなしくなりながら、カサバルは精一杯の愛想笑いを浮かべて言った。
「金が必要なのか?」
「はい。実は、妹が近々結婚をする予定でして、せめて持参金を持って行かせてやりたいんです。
これがなかなかできた妹で、婿殿もまじめな人なんです。私にはたいしたこともできませんが、少しでも2人の門出を祝ってやりたいのですよ。そうすることで、おれに遺産を譲ってくれた伯父の好意にも報いることができると――」
「サルマか」
話を遮られたカサバルは、シャモーのつぶやきに、口が恐怖で引きつりそうになるのを必死で抑え込んだ。
「思えば、あいつも気の毒よな。せっかく長年に渡って魔術の業を探究したというのに、その成果をたくす人間がお前のような能無しとは」
「ごもっともです、はい。おそらく、私たち兄妹の他には血のつながった人間もいないためでしょう」
「今となっては、な。奴の娘が死んだのは、いつのことだったかな」
シャモーに問われて、カサバルはどうしようもなくやるせない気持ちになった。シャモーに話しかけてから、いつかこの話題が出ることを少しは予感していた。
「私が4歳の時だったと聞きますから、17年前ですね。まだ12歳だったと聞いています。奥さんの忘れ形見ですが、生まれつき病弱で、娘さんが生きている間、伯父はコモリオムまで訪れることはありませんでした。長旅には連れて行けず、かといって屋敷に残して行くことはできなかったんでしょう。
娘さんを亡くしてから、伯父は人が変わったように寡黙になってしまったと父から聞いています」
「むごい話よ。なぁ?」
カサバルはそれまで人に抱いたことのないほどの嫌悪を、目の前の魔術師に感じた。その言葉と裏腹に、シャモーの声は隠しようもないほどの楽しげな響きを含んでいたからだ。
初めてシャモーが人間の感情らしきものをのぞかせたのだが、それはかえって底なしの残忍さを聞くものに思い知らせるばかりだった。
「カサバルよ」
名前を呼ばれたことに気づくのに、少しの間がかかった。シャモーがカサバルを名前で呼ぶのはこれが最初だったのだ。
「安心せよ。貴様には、案内の褒美を存分にくれてやるとも。楽しみにしておくがよい」
振り返ったシャモーの爬虫類じみた顔は笑っていた。耳まで裂けるかと思うほどに口をつりあげ、ひきつるように目を細めていた。
その笑みの裏に隠しきれぬ悪意を感じ取り、カサバルは彼が自分を生かして返すつもりなど毛ほどもないことを悟った。
(待て。待て。今はまだ待つべきだ)
気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうになるのをこらえて、カサバルは心中で何度も念じた。
今逃げ出したとしても、普段から甘やかしているカサバルの両足の筋肉が100歩も行かないうちに痙攣をおこす恐れがある。そうすればシャモーの手下たちに追いつかれ、八つ裂きにされてしまうだろう。いや、その前に、シャモーの呼び出した雷に消し炭にされるか、異次元から召喚された悪霊に生きたまま内臓を貪り食われる可能性も多分にあった。
自分の脳内に浮かんだ残虐な光景を、激しく顔を振って追い払う。
ことここにいたっては、妹には手ぶらででも嫁にいってもらい、自分の命だけでもコモリオムに持って帰ることに全力を尽くさなければいけない。
妹だって、金貨の詰まった袋と一緒に兄の亡骸が届けられるくらいなら、無一文でも生きた兄が式に参列する方を喜んでくれるはずだ。きっとそうだ。
内心で後ろめたさを感じないでもなかったが、カサバルはそうして自分自身を納得させた。
とにかく、平常心を失っては助かるものも助からない。おとなしくシャモーに従うふりをして、機会を待つべきだろう。
あの悪名高いシャモーが簡単にすきを見せるとも思えなかったが、サルマの遺産を探す過程で不測の事態が起こる可能性も捨てきれないのだ。
「あれを見よ!」
不意に、シャモーが声を張り上げて前方を指差した。
示された先に目をやると、道のわきに子供の背丈ほどの大きさの黒い岩があるのが見えた。
「あれが目印の岩か。やれやれ、ようやく山登りから解放されるぜ」
髭面の男がうんざりといった調子でぼやき、すぐにシャモーの氷の視線を向けられて顔を引きつらせた。
「いや、シャモー様。別に、おれは……」
シャモーは、何やら弁解を口にしようとした男からすぐに顔を背ける。そのふるまいは、男の存在になど関心がないと言わんばかりだ。
「何見てやがる小僧っ」
(見てないよ!)
たまたま目が合った男からやつあたりで怒鳴られ、カサバルは体を縮こまらせた。
髭面の男は、続けてカサバルに因縁をつけようとしたみたいだが、シャモーの背中を一瞥して思いとどまったらしい。いまいましそうに、つばを道に吐き捨てた。
そんな騒動とは無縁に口を閉じていたシャモーは、やがてゆっくりと腕を上げて、森の中を指さした。
「お前たち、森に入るぞ。その先に目的の洞窟がある」
その言葉を合図にカサバルたちは道を離れて、静寂と暗闇のつまった森の中へと入って行った。
粗末な山道も快適とは言えなかったが、森の中を進む過酷さはその比ではなかった。地面に何層にも積もる湿った落ち葉に足を取られそうになりながらも、邪魔な枝をかき分けて進む。
その重労働に、カサバルの筋肉は早々に弱音を吐き始めた。たまりかねて立ち止まり、水を入れてある腰の袋に手を伸ばす。
ふと、カサバルは、自分の横に見事な巨木があるのに気づいた。他の木と比べて一回りは太い幹は、長い歳月の経過を物語る苔に覆い尽くされ、大小様々なうろが空いている。下に目をやると、ところどころ根が地上に露出していた。
(大きいなあ)
拉致されている真最中にも関わらず、カサバルはそのたたずまいに感嘆した。もともと、カサバルはこういう自然の作る景観が好きだった。天体観測所で働く中で見る星空と同じく、雄大な歳月の経過をたたえた光景に見惚れる。
だが、荒々しい怒声に、カサバルの観賞は中止させられた。
「小僧! 止まるんじゃねえ」
聞き覚えのある声に、振り返ると案の定、あの髭面の男がにやにやと気分の悪くなりそうな笑みで立っていた。どこか、ネズミをいたぶる猫の表情を連想させる。
「す、すみません」
首をすくめて、小声で謝る。
そんなカサバルの様子に気を大きくしたのか、男はますます声を大きくしてなじってきた。
「へっ、とんだ臆病者だな。そんなんで、家に帰れるのか? まあ、お前が死んでも安心しなよ。家にいるっていう妹は、おれが面倒見てやってもいいぜ! お前のような弱っちい小僧の妹なら、ちょっと可愛がれば、さぞ大きな声で泣いてくれるだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、カサバルの頭が火をともしたように熱を帯びた。強い衝動に任せて、手に持っていた革袋を髭面の男に投げつける。
男の胴に当たった袋は、盛大に水をぶちまけて、地面に落ちた。
予想外のカサバルの行動に、その場が静まり返る。
「て、てめえ……」
濡れネズミとなって、目を怒りで引きつらせる髭面の男に、カサバルは拳を握りしめて叫んだ。
「あいつにだけは手を出させないぞ! 両親が死んでから、貧乏暮らしでも泣き言の1つも言わずにおれと暮らしてきた妹なんだ」
「うるせぇ!」
わめき声と共に、男の手が腰の剣に伸びた。
そして――。
ドボッという泥に杭を突き立てたような音と共に、髭面の男の胸を木の根が貫いた。
「……は?」
その常識を超えた光景についていけず、カサバルは口を半開きにしたまま立ち尽くす。視線を動かして、男を串刺しにした根の元をたどっていくと、先ほどの巨木へとたどり着いた。
いや、それは木ではなかった。
幹に空いたうろの1つ1つが、こぼれんばかりの悪意をたたえた目となって周囲を見下ろし、枝や根の全てが別個の生き物のように不規則に蠢いていた。
『気をつけるんだよ、坊や。昔、あの山で不気味な化け物を見た人がおるんじゃ。何人もな。あの山に入っちゃいけないよ』
屋敷の近くに住む老婆の言葉が、頭にこだまする。
(こいつが、お婆さんの言っていた化け物!?)
ゴポリと音を立て、巨木の根に刺された男の口から血の塊があふれる。血は髭の先を伝い、しずくとなって地面へと落ちていった。
カサバルは、その有様を、どこか夢の中の一幕のように呆然と見ていた。シャモーも、その手下も、突然のことに反応できず、静止している。
「うわあああ!?」
いち早く我に返ったカサバルが悲鳴を上げる。それが引き金となったのか、髭面の男を串刺しにした木の根は、大きくしなって未だに痙攣する体を振り飛ばす。やがて、巨木は全ての根を地面から引きはがすと、それらを足のように踏ん張って幹を浮き上がらせた。
「ええい、魔物かっ」
硬い声でつぶやいたシャモーは、呪文の詠唱だろうか、何やら押し殺した声でブツブツと唱え始めた。
その間にも、巨木の魔物は荒れ狂う。太い枝を水車のように振り回すと、近くにいた男たちに攻撃した。
「ぐぇ!?」
振り落とされた枝を男たちは懸命に避けたものの、1人だけ反応の遅れた男が直撃を受けた。蛙のような声を漏らし、太い枝と地面に挟まれた男は、哀れにも血と臓物をまき散らして押し潰される。
「ひゃあぁあ!?」
飛び散った血が、カサバルの顔にかかる。情けない声をもらして、半狂乱になって袖で顔をぬぐう。
シャモーの手下たちの金切り声が聞こえた。怒鳴り散らす声や剣や斧がぶつかる金属音、悲鳴が混ざりあい、暴力的に耳を打つ。
顔をぬぐい終わり、目を開けた瞬間、魔物のがらんどうの目の1つと視線が合った。
思わず息を呑むカサバルの目の前で、魔物は器用に根をくねらせ、カサバルに向き直った。圧倒的な威圧感を前にして、腰から下の力が抜けてしまい、その場に尻餅をつく。
なんとか魔物から距離をとろうとするものの、蛇のようにしなった魔物の根が足首を絡めとり、カサバルを前へ前へと引きずっていく。
「や、やめろぉ!」
死にもの狂いで逃れようと暴れたが、その努力をあざ笑うように体は引っぱられる。つかまれた足首に激痛がはしり、思わすカサバルは目を閉じて歯を食いしばる。
すると、突然足首に巻きついた根の力が緩んだ。
(・・・・・・?)
そのことをいぶかしんで、目を開ける。
涙ににじむ視界に映ったのは、いつの間にか目の前まで迫っていた魔物が、血をしたたらせる枝をこん棒のように振り上げ、まさにカサバルに叩きつけんとする光景だった。