猫の夜
「それ、昨日聞いたわ。一週間前にも」
朝食の準備をしている僕に、亜衣が言った。彼女は先ほどから、ラムネのボトルでガジュマルに水をやっている。プラスチック製のボトルをどこから手に入れてきたのかは知らない。ただ、僕がガジュマルを買ってきた次の日には、それで水をやっていた。
「友達と飲みに行くんでしょ。帰りは私より遅い。晩ご飯はロールキャベツが鍋に入ってるから、あっためて食べる。マカロニサラダは冷蔵庫」
子供じゃないのよ、と呆れたように亜衣が言った。食後のデザートにアイスまで用意してあるのは、黙っておいた方がいいだろうか。
先に寝ておいて、は言っても意味がない。彼女の就寝時刻はいつも朝の四時だし、僕は終電で帰るつもりだ。言っても言わなくても、亜衣は起きているだろう。
「終電なんて気にしないで、飲んでくればいいのに」
僕の思考回路を見透かしたかのように、亜衣が溜息をついた。朝帰りする男に対する嫌悪感はないのだろうか。
「居酒屋に長居すると、のぼせて頭が痛くなるんだ」
これは事実だった。僕は、熱気のある場所や暖房のききすぎている場所にいると、頭が酷く痛むのだ。亜衣も、それは知っていた。
「アイスでも食べて、頭を冷やしたら? なんなら買ってきておこうか?」
――僕は結局、冷凍庫に桜の塩漬け入りバニラアイスがあるのを教えた。
四月も中旬になったのに、今日は妙に冷えた。冬は暖かかったのに、春に冷えるとはどういうことだろう。久しぶりに着たデニムジャケットは妙に重い。
男四人組という花のないメンツで、騒がしい居酒屋に入るのは二年ぶりだった。二年前とはすなわち、例の合コンだ。
「まさか、高倉が結婚するとは思ってなかったな」
枝豆をつまみながら武藤が言った。結局あの合コンで、結婚までいきついたのは僕と亜衣だけだった。武藤はバシバシまつげと付き合ったものの、半年で別れている。ついでに言うと、禁煙も失敗に終わっていた。今では開き直ったかのようにピースを吸っている。
「どうだよ、新婚生活は」
「順調だよ」
「仕事については、なんも言われないのか」
僕の職業はフリーのイラストレーターだと嘘をついた半田が、こころなしか心配そうに訊いてきた。僕は頷く。
「むしろ、色々と感想をくれるからありがたいよ。このコマの女の子はかわいくないとか、この構図は斬新でいいとか。女性視点の意見もくれるし」
「えっ。奥さん、お前のエロ漫画読んでんの?」
「普通に、僕の目の前で読んでるけど」
「……それはそれですげえな」
もとはと言えば、「作品を読ませて」という約束から始まった関係なのだ。亜衣は当然のように僕の作品を読んでいる。おかしなところがあれば訊ねてくるし、いいと思った部分は素直にそう言ってくれる。それが普通なのか、少し変わっているのかはわからない。少なくとも、僕たちの間では普通だ。
「ま、今のうちにイチャイチャしとけよ……。女なんざ、すぐに化けの皮が剥がれるから」
――婚活パーティーで知り合った女性と電撃結婚したものの、五カ月足らずで離婚した日向がぼそりと呟き、僕ののろけ話はそこで終わった。
そこからは酒の勢いに任せた馬鹿な話をした。学生時代の無茶、最近の武勇伝、仕事の面白さと難しさ。
僕はほどよく食べ、心地よく酔っぱらい、話足りないなあと言いながらも店を出た。終電が近かったからだ。
疲れと安心が見え隠れする電車に揺られながら、亜衣は今頃、家でなにをしているのだろうかとぼんやり考える。晩御飯はさすがにもう食べただろう。ああそうだ、アイスは多めに用意したから余ってるはずだ。家に帰ったら僕も食べようか――。
そんなとりとめもない思考をさえぎったのは、駅から自宅へ向かって歩いている途中、視界の端に見えた人影だった。公園のベンチに誰かが座っていて、それが亜衣に見えた。僕は知らない間に、相当酔っぱらっていたらしい。いくらなんでもこんな時間に、彼女がここにいるわけがない。
ところが僕の足音に反応し、こちらを見たのはやはり亜衣だった。
「え、なんで、どうしたの、亜衣?」
意味不明な文法を用いたうえ、声がひっくり返った。けれど、亜衣は笑わなかった。彼女が無言で俯くので、僕はその視線の先を追った。
彼女の膝の上で、ハチワレの猫が横たわっている。この前見かけた猫だとすぐに分かった。
「寝てるの?」
僕の質問に、亜衣は首を振った。
「死んでるのよ」
猫の口元が不自然に赤いことにようやく気付き、僕は絶句した。酔いがいっぺんに冷める。
「……なんで」
「車に轢かれたんだと思う。近くの車道で死んでたから」
彼女の声は静かだった。猫を撫でる指先は震えていない。ただ、表情も感情も欠落しているように見えた。――いや、違う。
欠落しているのではなくて、押し殺している。家族の話をする時のように。
亜衣は猫を撫でるのをやめ、僕がやってきた方へと目をやった。
「道路を清掃する人に電話したら、明日の朝まで処理できないって言われたから連れてきたの。轢かれてた場所と頭の向きからして、ここに来るつもりだったんだと思って」
「……ここに埋めないの?」
「廃棄物なんとかって法律。公園に埋めちゃだめなんでしょ」
恐ろしく現実的なことを言って、亜衣は煙草を取り出した。携帯灰皿は吸い殻でいっぱいになっている。彼女の服装はV字のニットで、朝見たものと同じだった。
「いつからここにいたの?」
「仕事が終わった後よ」
「……五時半くらい?」
「多分」
再び言葉を失う僕の代わりに、ライターが小さな音を立てた。ゆっくりと煙を吐き、それが流されていく様子を見届けながら亜衣が呟く。
「ロールキャベツ食べてないわ。ごめん」
いまから食べる、という言葉はなかった。猫に灰が落ちないよう注意しながらも、煙草を吸う手を止めようとはしない。吸わないという選択肢はないようだ。あるいは、吸わずにはおれないのか。
「ここに一晩いるつもり?」
僕の言葉に亜衣は視線をあげ、けれどもすぐに落とした。
「――……ひとりぼっちだと、寂しいだろうから」
いるともいないとも言わなかったけれど、それが答えだった。
腕時計で時刻を確認する。零時半。夜明けまでは気が遠くなりそうなほどに長く、こういう日に限って肌寒かった。深夜の公園は薄暗いし、人気もない。
僕は決心した。
「僕も一緒にいていいかな」
正直に言ってしまうのなら、猫のためではなく彼女のためだった。
亜衣が吐きだしたものがただの煙か、それとも溜息だったのかは判断できなかった。ただ、彼女の吸っている煙草は武藤のそれに比べ、バニラのような香りがするなと思った。
亜衣は人差し指で煙草を叩いて灰を落とし、そこから更に数秒考え、
「いいけど」
小さくそう言って、フィルターに口を付けた。
彼女の答えを聞いた僕は、近くのコンビニへと向かった。理由はみっつ。食べ物や飲み物を買うため。猫への供え物を見るため。そして。
亜衣と猫を、もう少しだけふたりきりにした方がいいと考えたためだった。
店内をわざとゆっくり歩き、新商品の菓子や飲み物をひとつひとつ手にとっては棚に戻す。飲むつもりもない栄養ドリンクの成分を確認し、雑誌のタイトルをいちいちチェックしてから、僕はようやく買い物かごを掴んだ。数分前に見た菓子を勢いよくかごに入れ、猫缶やホットコーヒーを追加する。店員の背後にある煙草は、悩んだもののやめた。
やっとの思いで公園に戻ると、亜衣は寸分たがわぬ姿でそこにいた。本当に、一ミリも動いていない気さえする。僕にとっては「やっと」だったが、彼女にとっては短かったのかもしれない。僕は慎重に、亜衣の隣に腰掛けた。猫の頭はこちらを向いている。
「好きなの食べていいよ。コーヒーもあるから」
自分と亜衣の間にビニール袋を置いて、その中からウェットティッシュを取り出した。一枚取り出して、猫の口を拭う。血は乾いているうえ毛に絡みついていて、ウェットティッシュでは効果がなかった。むしろ赤茶色の染みが広がり始めてしまい、僕は手を止めた。余計なことをしてしまったかもしれない。
ビニール袋ががさりと音を立てたので、猫から視線を移す。亜衣が持っていたのは、『ニャンともおいしいまぐろさん!』と書かれた缶詰だった。
「……それは猫の」
「見ればわかるわ」
猫缶をあけると、シーチキンと生魚が混ざったようなにおいがした。彼女は無表情でしばらく考え込んでいたが、足元にそっと缶を置いた。
「……あ」
猫缶の蓋を持って凝り固まっている亜衣を見て、ゴミ袋がないことに気づく。ホットコーヒーだけビニール袋を別にされていたので、それをゴミ袋がわりにした。
亜衣が次に手に取ったのはおにぎりだった。パッケージを見たまま、食べようとしない。何も考えずにそれを買ってきた僕は、いまさらになって味を確認し、思わず言った。
「それは猫のじゃない」
「見ればわかるわ」
シーチキンマヨ、と書かれたおにぎりを亜衣は袋に戻した。
世界の優しさと残酷さが混ざったような、不思議な夜だった。眠るなと言いたげな冷たい風が時折強く吹いて、亜衣の髪を揺らす。寒くないかと訊ねてみても、大丈夫としか返ってこなかった。
亜衣は、ほとんど話さなかった。言葉数が少ない分だけ、煙草の吸殻が増えていく。彼女が火をつけているのは、煙草ではなく線香なのではないかとすら思えた。
「……自殺したのかもしれない」
僕がペットボトルの中身を半分ほど減らした頃、亜衣がぽつりと呟いた。
「え、誰が?」
「猫が。あるいは、私の母が」
吐き出された言葉に押されたように、ペットボトルの水がかすかに揺れた。
「……なに言ってるの」
「わざと車道に飛び出して、わざと轢かれたのかもしれない。それを望んでいたのかも」
「事故だよ」
彼女の言葉をさえぎった自分の声は頼りなかった。亜衣がこちらを見る。
「どうして、違うと言いきれるの」
それは、責めるような口調ではなかった。ただの質問だ。猫が、あるいは彼女の母親が、自殺ではなかったと説明できる根拠や理屈を欲しがっている。ただそれだけ。
僕が知っていることは少ない。ハチワレの猫は用心深くて、僕には懐かなかった。彼女の母親は『交通事故』で亡くなっている。轢逃げで、犯人は捕まっていない。目撃者もいなかった。
どちらのことも、僕はほとんど知らない。
「……勘だよ。僕の勘は当たるんだ」
それでもどうにか答えを出したくて、僕は突拍子もないことを言った。我ながら胡散臭い。だが、亜衣は真面目な顔をしていた。
「私の父親が、人殺しだって話はしたでしょう」
僕は頷いた。結婚という単語を僕が初めて使った日、彼女が教えてくれた話。事件の内容も把握している。当時はかなり大きく取り上げられたらしく、もしかしたらおふくろもテレビかなにかで見たかもしれないと思った。
亜衣の母親に関しては、要らない憶測が飛び交っていた。――なにを言ってもいいと思っているのかもしれない。匿名なら。あるいは、他人事なら。
「私も、人殺しかもしれないのよ」
僕は首を振った。けれど、亜衣は続けた。
「教えてないから、湊は知らないでしょう。私ね、母に酷いことを言ったの。母が死ぬ三日前に」
彼女は優しい手つきで猫を撫でた。けれど、猫は起きない。
「――……自殺したのかもしれないわ」
それきり、彼女は喋らなくなった。
どうして自殺だと思うのか。母親になにを言ったのか。やんわり聞いてみようとしても、彼女は煙草の煙を吐き出すだけだった。中身のなくなった箱を捨て、新しい煙草の封を切る。この夜だけで、何箱も吸っているように思えた。そしてそれが、週刊誌やネットに載せられた言葉のように軽々しく、彼女の命を縮めているようにも。
彼女がそれを望んでいるようにも、見えた。
火をつけたばかりの煙草を彼女の手から奪い取り、思いきり煙を吸い込んでみる。が、優雅に吐き出す前に激しくむせた。亜衣が小さく首を振って、携帯灰皿をこちらに差し出す。それから、煙草の箱を鞄にしまった。
僕は情けないくらいになにも言えなくて、ただ彼女の隣にいるだけだった。邪魔、あるいは鬱陶しかったかもしれない。僕はなにも言えなくて、彼女はなにも言わなかった。
世界の優しさと残酷さが混ざったような、不思議な夜だった。
僕たちはなにも話さず、眠らず、猫は少しも動かない。――それでも、夜は永遠ではない。やがて空が白みはじめ、鳥たちが鳴きだし、早朝の散歩を楽しむ人々が現れだした。あと二時間もすれば、人々は忙しく活動するのだろう。
まだここにいる猫が、迎えられなかった朝がくる。
「――そろそろ行きましょうか」
亜衣がぽつりとそう言った。清掃の人が来るまでいるつもりだと思っていた僕は、彼女の視線の先を見る。
「お別れを言いに来たのかもしれない。私たちはいないほうがいいわ」
入口からそろそろと入ってきたキジトラの猫がこちらを、あるいはハチワレの猫を見ていた。
僕たちが公園から出ようとした時、背後からか細い声がした。後ろを振り返る。鳴いたのは、ハチワレでもキジトラでもない。キジトラの陰に隠れていた、クリーム色の仔猫だった。
「……ひとりぼっちじゃなかったのね」
亜衣が言う。僕は彼女の右手に手を伸ばした。
永遠にわからないことがあるかもしれない。永遠に言えないことがあるかもしれない。一生抱え込むものがあるかもしれない。一生自分を責め続けるかもしれない。
それでも世界は昨日を終わらせ、明日を迎える準備をする。永遠という言葉を嘲笑うかのように進み続ける。不公平なくらいに平等に。優しさと同じくらいの冷たさで。
昨日もどこかの誰かが欠けて、今日もどこかで誰かが生まれる。