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綿あめのきみ  作者: うわの空
第三話
6/14

虹色の約束

「夜桜を見に行こう」と湊が言いだしたのは四月一日の朝で、私は素敵なエイプリルフールだと思った。「今年は暖冬のせいで開花も早かったから、今日が見頃だと思うんだ」という説明も具体的で凝っている。そう思っていたら夕方、彼が出かける準備をしていて、「亜衣はもう用意できたの?」などと声をかけてきた。


「用意って?」

「夜桜を見に行く準備だよ。朝、言ったはずだけど」


 私は耳を疑った。


「エイプリルフールじゃなかったの」

「え、なんの話?」

「夜桜よ」


 私の言葉に、今度は彼が目を丸くした。


「嘘だと思ったの?」


 思っていた。夜桜なんて見たことがない。無言で頷く私に、湊は酷いなあと笑った。嘘じゃないから準備しておいで、とも。私はよくわからないまま外出の準備を整え、なにが起こっているのかわからない間に電車に乗り、気づけばお花見スポットにいた。素敵な嘘は、あっという間に嘘ではなくなった。レジャーシートの上に吐き出される笑い声と、そこかしこから漂う酒と肉の香りが、これは現実だと言っている。

 提灯やライトで照らされた桜は、昼間見るものよりも白っぽかった。青空に淡いピンクが似合うのと同様に、夜空に浮かぶ白はよく映える。少し風が吹くたびに湿った花弁が舞い落ちて、地面を小さく白く切り取っていった。人間がたんぽぽの綿毛を飛ばすように、神さまが桜の花びらを飛ばしているのかもしれない。

 満開とまでは言わないけれどそれなりに咲いている桜は、次に雨が降ったらおしまいだろう。湊の言う通り、今日来て正解だった。


「なにか食べる?」


 桜並木に沿うように暖色の屋台が並んでいて、それを覗きながら湊が言う。なにか、と私は繰り返した。どれを食べればいいのか分からない。返答に窮して周囲を見回す私に、「食べたくなったり、気になったものがあったら言うんだよ」と湊は微笑んだ。彼は絶対に急かさないのだ。

 そういえば、と思う。昔、母と夏祭りに行ったことがあった。その時も同じような質問をされて、私は困った。確か、十歳の頃だ。



 お婆ちゃんが生きていた頃は毎年連れていってもらった夏祭りに、母と行ったのは一度きりだった。母が私を連れて出掛けたがるのは珍しく、もしかしたら『夏祭りに参加する』というのは『親の義務』なのかもしれないとすら思った。

 その頃の私はようやく、母が私に向かってあまり笑わないという事実に気づいていた。顔をこわばらせたり、私の行動に妙に怯えていたり、あるいは私から視線を逸らすことにも、気づいていた。

 母が私を育ててくれているのは、それが『義務』だからなのかもしれない。彼女にとって私は罰ゲームのような存在で、本当は見たくもない『モノ』で、愛なんてないのではないか。

 だとすれば、私のなにが悪いのだろう。どうして母に嫌われているのだろう。


 ――当時の私は母の事情を、知らなかった。


 地域の夏祭りはそれなりに賑わっていて、私は久しぶりに見る食べ物やおもちゃに目を奪われた。普段食べている焼きそばやたこ焼きが、屋台だとあんなにおいしそうに見えるのは何故だろう。扇風機のように首を振っている私に、母が言った。


「なにか買ってあげようか」


 思わず、母を見た。特におかしな様子はない。けれど私は狼狽した。

 今日は誕生日でもないのに、どうして買ってくれると言い出したのだろう。いつもは言わないのに。

 要らないと言ったら駄目なんじゃないか。けれど、あまり高い物をねだったら強欲だと思われるんじゃないか。私は慌てて、屋台の内容と値段を見て回った。

 欲しいものは沢山あった。けれど、スーパーボールや金魚は掬えるか分からなかったし、お面は高かった。食べものだと、滅多と食べられない甘味に目がいった。練乳のかかったかき氷、甘い香りのベビーカステラ、雲のような綿あめ。けれどやっぱり高いんじゃないかとか、食べたらなにも残らないではないかと考えてしまい、結局屋台の端まで来た。そこで、それを見つけた。


「これがいい」


 私の指さしたラムネを見て、母は眉をひそめた。よほどおかしかったのか、「本当にこれでいいの?」と念まで押された。私は頷く。

 一本百円で、ラムネが飲めて、飲み終わってもボトルとビー玉が手元に残る。それで満足だった。

 けれども屋台はご丁寧なことに、ボトル用のゴミ箱まで用意してくれていた。飲み終わったらゴミは捨ててしまいなさい、と母は言うかもしれない。あるいは、屋台のおじさんが。

 私はプラスチック製のボトルが欲しくて、買ってもらったものの形を残したくて、「飲みきれないから持って帰る」と嘘をついた。

 母はそんな私を、薄気味悪そうに見つめていた。



 春先だからか、ラムネは売っていなかった。屋台の列も終わりに近づいた時、つい最近テレビで見たものがあった。


「……アライグマが食べてたね」


 同じことを思ったのか、湊が呟いた。ぱんぱんに膨らんだ袋に入っているのは雲のようなお菓子で、それが屋台に沢山ぶら下がっている。様々な種類の袋があって、最近流行っているアニメの絵や、昔ながらのキャラクターや、何故だかアイドルグループのものまであった。

 その中でも特に目立っていたのが、細長い袋に入れられた四色の綿あめだった。ピンク、黄、緑、青。色によって味も違うのだろうか。アライグマが見たら喜びそうだ。


「それ、買う?」


 まじまじと見ていたら背後から湊が声をかけてきて、私は飛び上がった。大慌てで首を横に振る私を見て、彼は首をかしげる。


「持って帰れるし可愛いし珍しいし、いいかなあと思ったんだけど」

「だって」


 高いじゃない、とは店主の手前で言えなかった。そもそも湊が、私に買おうとしていること自体がおかしい。私はもう、十歳ではない。買いたいものは自分で買う。

 ところがそんなことに気づいていないらしい湊は、私の隣で四色の雲を覗き込んだ。


「亜衣、綿あめは食べられる?」

「……食べれる、けど」

「僕、『自分に』これを買おうかと思うんだけど。一人だと多いから、半分食べてくれない?」

「…………いいけど」


 自分に、は本当だろうか。

 私はたちまち不安になって、千円札を取り出している湊の服を引っ張った。仮にこれを買ったなら、その千円札は消えるしお釣りはない。袋のイラストで悩んでいた湊が、こちらを見た。


「なに? 欲しいイラストの、ある?」

「……湊、どこかに行くの?」


 私の質問に、湊はぽかんとした。


「え、これから? 居酒屋とかに行きたいの?」

「違う。私とじゃなくて、湊が一人でどこかに行くのかと思って」


 私の言葉に、彼はますますおかしな顔を作った。口が半開きだし、目が点になっている。私はおかしな質問をしただろうか。けれど、母に「なにか買ってあげようか」と言われた時も、私は同じ不安を抱いた。

 ――母はもしかしたら一人でどこかに行くつもりで、戻ってくるつもりもなくて、だから最後に素敵な思い出を作ろうとしているのではないか。だから、なにか買ってあげるなんて言い出したのではないか。

 それならせめて、形の残るものを選んだ方がいい。

 しばらく変な顔をしていた湊はやがて、私に掴まれている服へと手を伸ばしてきた。振り払われる、と思ったら繋がれた。私よりも少しだけ冷たくて骨張っている、大きな手。


「……どこにも行かないよ」


 それから少しだけ考えて、湊は千円札をズボンのポケットに突っ込んだ。


「綿あめは来年買おうか。来年は綿あめで、二年後はベビーカステラ、三年後はかき氷、四年後はチョコバナナを買おう」

「……甘い」

「じゃ、五年後は焼きそば、六年後はたこ焼き、七年後は焼きトウモロコシ」


 そう言いきった湊は微笑んで、こちらを見て、


「綿あめは来年買おうね」


 なにかを確かめるように、手を強く握った。私は急に恥ずかしくなってきて、顔が赤いのを隠せるようにとオレンジ色の屋台を見る。

 私はもう、十歳の子供ではないのに。



 帰宅途中、私たちの前を一匹の猫が横切った。見覚えのある柄に、私は声を上げる。


「ハチワレ」

「……知ってる猫?」


 湊が不思議そうに、けれど少し笑いながら言った。


「近くの公園によくいるの。ここにいるのは珍しいけど」


 私の声に気付いたのか、ハチワレは室外機の陰からこちらを見ている。四肢を曲げ、背を低くしたまま。少し近づいたらどこかに行ってしまいそうだ。今日は湊が近くにいるから警戒しているのかもしれない。この子は若干、人見知りだから。


「ハチワレ、湊よ」


 紹介してみたけれど、ハチワレは微動だにしない。動物好きの湊が、私の横でしゃがんだ。


「妻がいつもお世話になっております」


 湊の一言に思わず笑った。


「湊、それ変」

「亜衣が先に、僕を紹介したんだろう」


 私たちの声がうるさかったのか、ハチワレはそのまま狭い通路を歩いていった。どこへ行くのかはわからない。ハチワレはいつも気まぐれで、近くにきたり、どこかへ行ったりする。あの猫には割り箸がないのだ。

 帰ろうか、と湊が立ち上がり、手を差し伸べてきた。私は首を振る。


「一人で歩けるわ」


 そういう意味じゃなかったんだけどなあ、と湊は苦笑した。

 私はもう三十歳で、あの時から二十年も経っていて、だから知っていることが沢山ある。

 別れというのは本当に突然やってきて、よほどのことがない限りそれに向けて準備なんてできないし、話を綺麗にまとめることもできない。

 引き留めることも、できない。

 もしも彼がどこかに一人で行きたがっていて、それが彼のためになるのなら。


 ――私は、その手を離すべきだ。


 私はもう、十歳ではない。

 けれど彼にとって、ガジュマルのようなものかもしれないのだから。


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