繋ぎあわせた音楽
僕の妻は、身体に悪いことを好む。
朝はブラックコーヒーしか飲まないし、放っておけば毎食菓子パン一個で済ませようとする。銘柄にこだわらない喫煙者で、テラスに出ては煙草を吸う。睡眠は平均三時間。唯一の救いは、酒に興味がないことくらいだ。
不健康を『好む』、というのは少し違うかもしれない。どちらかといえば、健康や長生きに頓着していないのだろう。
けれど彼女のそれは、一種の自傷行為に見える時がある。自覚がなくても無意識のうちに、彼女は自分自身を傷つけているのではないか。
彼女は、自分のことを責めている。
「……だから、あまり電話してこないでくれよ」
扉の向こう――リビングにいる亜衣には聞こえないよう、僕は声を潜めた。職場であり寝室であり自室でもあるこの部屋は、リビングと繋がっている。少し大きな声を出せば、彼女の耳にも入ってしまうだろう。
『そうは言ってもねえ。あなたは長男なのよ、湊。自覚はあるの?』
電話の向こうで、おふくろが大袈裟に嘆いた。いちいち電話してこなくても、自分が長男で、しかも一人っ子なのはよく覚えている。
「自覚はあるけどね。僕と縁を切ると言ったのは、おふくろの方じゃないか」
これもよく覚えている。僕がエロ漫画家になったことを告白した時、おふくろは酷く取り乱し、かと思えば鬼のような形相で怒り、しまいには叫んだ。
――うちの家に、そんな恥ずかしい仕事の人間はいないわ! 変な育て方をしたつもりもない、私はなにも悪くない! 親子なんて所詮他人なのね!
ことなかれ主義のおやじは無言だった。僕は、たとえエロのつく職業であろうとも漫画家を辞める気はなかった。結局、家を出たのが十九の時だ。
それから十二年以上、両親から連絡がくることはなかった。そんな実家に、僕から連絡を入れたのは半年前。亜衣と結婚した時だ。「湊のご両親にあいさつをしなくちゃ」と言う亜衣を制止し、籍を入れた後で僕から電話をした。
――まあ、ようやく孫の顔が見られるのね。私もお父さんも、ずっと待っていたのよ。
息子とは音信不通であっても、孫はできると思っていたようだ。僕は眉根を寄せた。
――僕も彼女も、子供を作るつもりはないんだよ。
これが気に食わなかったらしく、月に一度、おふくろから電話がくるようになった。
『縁を切るとは言ってないわ。いやねえ、冷たい息子になっちゃって』
お上品なふりをしたおふくろの笑い声が、受話器の中で響いた。僕は溜息をつく。これ以上、なにを話したって不毛だ。おふくろも僕も譲らないのだから。
「もう切るよ、締め切りが近いから」
『締め切り? まだあの仕事をしてるの? 子供ができたらどう説明するつもりなの』
「切るからね、おやじによろしく」
おふくろの声が聞こえていたが、一方的に通話を終わらせた。締め切りが近いのは確かだが、おふくろの声をこれ以上聞きたくないというのが本音だった。
できる限り音を立てないように扉を開けると、リビングのソファに座っている亜衣の背中が見えた。
「電話、お義母さんから?」
振り向きもせず、亜衣。電話の声も扉の音も聞こえていたらしい。
「うん」
「喧嘩?」
「……まあ」
「仲直りしてね、できるだけ早く」
そうだね、と僕は返した。亜衣の両親は、僕と出会う前に他界している。そのせいか彼女は、会ったこともない僕のおふくろをやたらと気にするし、なにかあれば仲直りしてと言う。それも、できるだけ早く。
「どうしてもだめなら、私が間に立とうか」
彼女の言葉に僕は首を振った。おふくろには会わせたくない。亜衣は『自分の事情』を隠そうとしないだろうし、それを聞いたおふくろがろくなことを言わないのも目に見えているからだ。
亜衣は覚えているのだろうか。
――私の父親、人殺しなの。
初めてそれを教えてくれた日、自分がどういう顔をしていたのか。
話題を逸らしたくて、僕は彼女の観ているテレビに目をやった。
「なに観てるの」
「動物番組よ。もうすぐ、アライグマが出るんですって」
「ふうん」
コマーシャルが終わると、亜衣の言う通りアライグマの映像が流れ始めた。アライグマは綺麗好きですが、甘いものも大好き。そんなアライグマくんに、綿あめをプレゼントしてみましょう――。
水場に置かれた綿あめに気づいたアライグマが、早速それを両手で抱える。そして、
「溶けちゃった」
亜衣が呟いた。綿あめを洗おうとしたアライグマは、溶けたそれを必死で探している。水に突っ込んだ両手をわたわたと動かす様子を見て、アライグマでも焦ったりするのねと亜衣が感嘆した。おどけたナレーションとは裏腹に、食い入るように画面を見ている。
ふたつめの綿あめもやっぱり水に入れてしまい、溶けてなくなったそれをアライグマは必死に探し続けていた。
亜衣のことを知っている友人からは、「どうしてあんな風変わりな女を選んだんだ」とたびたび言われる。確かに彼女は少し変わっていて、けれども僕はそんな彼女が好きだった。
亜衣と出会ったのは今から二年前の夏、僕が三十歳の時だった。同じ芸術大学を卒業した友人から、合コンするから参加してくれというメールが来たのだ。参加しないか、ではなく、してくれ。それは明らかな数合わせで、更に言うなら引き立て役だった。飲食代はこっちが持つからと言われ、僕はようやく重い腰を上げた。
全国展開している居酒屋は騒々しく、男女で騒ぐにはちょうどいい場所だった。大きな座敷にはテーブルがいくつかあり、そのなかのひとつに男四人で座る。男が先に到着して女を迎えるべきだと言いだしたのは幹事で、僕たちは合コンの三十分も前からそこにいたのだ。男四人が横並びで座っているのだから、なかなかおかしな光景だったと思う。
ほぼ時間通りにやってきた女性たちは、派手に分類されるひとたちだった。折れないのか心配になる爪や、取れないのか気になってしまうつけまつげに、僕はいまだに辟易する。ドラッグストア勤務だというメンバーのうち三人はそんな感じで、唯一違っていたのが、
「円堂亜衣です。今年二十八」
彼女だった。薄いメイクで、黒い髪は伸ばしっぱなしのストレート。無地のTシャツ姿でアクセサリーはなし、そのうえ笑顔もなかった。
僕と同様、数合わせの引き立て役として呼ばれたのであろう彼女の自己紹介は名前と年齢のみで、あとは黙々と食べ続けていた。飲み物はウーロン茶ばかり。飲めないのか、それとも僕たちを警戒しているのかは、まだわからなかった。
「高倉さんって、なんのお仕事されてるんですか?」
バシバシつけま、と内心で命名していた女性に話を振られた。この年齢になると、相手の仕事や年収が気になるのだろう。品定めするような視線を感じながら、僕は口を開いた。
「ああ、ええと」
「フリーのイラストレーターだよ。無名だから、ネットで検索してもひっかからねーけど。な?」
エロ漫画家は隠すべきだと判断したのか、幹事が勝手にそう説明し、さっさと違う話題にすりかえてしまった。数合わせの人間に時間を裂きたくない、といった感じだ。
口に出しかけていた職業を、唐揚げと一緒に飲み込む。向かいに座っていた亜衣だけが僕にちらりと目をやって、けれどもやっぱり無言だった。
トイレに行ってくる、と亜衣が席を立ったのはそれから二時間後で、僕と彼女以外の人間は何故だか手相で盛り上がっていた。男性が、手相を見るという名目で女性の手に触れている。ある意味ちょうどいいスキンシップなのかもしれない。思う存分食べた僕もまた、トイレへと向かった。
「……あ、円堂さん」
計算したつもりはなかったけれど、用を足してトイレから出ると亜衣に遭遇した。
「ああ」
彼女の反応はそれだけだった。僕の名前を覚えていないのかもしれない。一緒に座席へ戻ろうかと提案する僕に、亜衣は首を振った。
「外で煙草吸ってくるから。先に戻ってて」
「外? 座敷で吸いなよ、禁煙席じゃないから」
「そっちの……武藤さんだっけ? 彼、禁煙中でしょ」
亜衣の言葉に、僕は素直に驚いた。
「禁煙中だって話してたっけ、あいつ」
「いいえ。でもガム噛んでるじゃない、禁煙補助の。さっきまた噛みだしたから、あそこでは吸い辛いわ」
「……普通のガムだとは思わなかったの?」
「PTP包装されてるガムを十数回噛んだあと、一分ほど噛まなくなるのを繰り返してる。見ればわかるわ」
百均で売っていそうなライターをもてあそびながら、亜衣が言った。食べるのに夢中だと思っていた彼女は、案外きちんと周囲を観察していたらしい。僕はなんだか彼女に興味が湧いて、一緒に外に出てもいいかと訊ねた。彼女は拒まなかった。
生温かい溶液のような空気の中に、白い煙が吐き出されては消えていく。亜衣はためらうことなく車止めに座り、僕はその隣に腰掛けた。
「……僕のことは、なにかわかった?」
気になったので訊ねてみると、亜衣がこちらに目を向けた。数秒だけ僕を観察し、煙を吸う。煙草の先端が強く光る。
「仕事について、言いたいことがあった?」
図星だった。僕は頷き、自分が本当は漫画家であることと、『漫画家』の前に『エロ』がつくことを教えた。「エロ漫画家?」と聞き返され、気まずくなるだろう雰囲気に備えて息をとめる。けれども彼女は特別引くこともなく、むしろ仕事について突っ込んだ質問をしてきた。芸大卒って言ってたけど、大学で漫画の描き方も習ったの? それとも独学? 最近はどういうエロ漫画が流行ってるの? 流行りにあわせるのか、それとも自分の好きなものを描くのか――。
僕はそれが嬉しくなって、本当は青年漫画を描いていたのに編集者にすすめられてエロ漫画を選んだことや、基本的に自分の好きなものを描くから凌辱だとか触手だとかは専門外であること、漫画の描き方自体は独学であることなんかを語った。普通、こんな話は聞きたくないかもしれないし、言いたくないかもしれない。けれど亜衣は真面目な顔で次々と質問してきたし、僕はそれについて話したかった。
――エロ漫画家もまあ、立派な職業だよね。そうまとめる女性に限って仕事の話を嫌がるし、エロ漫画家という単語を忌み嫌う。けれども亜衣は仕事の内容をあれこれと聞いたうえで、エロ漫画家という単語を躊躇なく使用した。
僕は、亜衣のような人間の方が好きだった。
「仕事中って、音楽聴く?」
二本目の煙草を吸いながら、亜衣が言った。僕は頷く。
「ベタとかトーンとか、そういう仕上げの時は聴くよ」
怪訝な顔をしている彼女に、ベタやトーンの説明をする。ついでに、ネームや下書きやペン入れ、Gペン丸ペンのことも話した。そのついでにとコピックの説明までしてようやく落ち着いた僕に、彼女は「仕事が好きなのね」と言った。長話を聞かされたのに、呆れてはいなさそうだった。
「あなたの作品、読んでみたいわ。原稿、手元にないの?」
「え? ……流石にいまは持ってないよ」
「そう。じゃ、今度見せて」
彼女が三本目の煙草を吸い終わる頃、僕たちはようやく『今度』の約束をした。
「……随分懐かしいのを聴いてるのね」
僕の職場兼寝室に遊びに来た亜衣が、ミニコンポを見ながら言った。
初デートは映画という実に無難なコースで、その帰りしなに「音楽聴くって言ってたから」と亜衣に渡されたのがこのCD‐Rだった。そして変な話、これが『決定打』となった。
その日、帰宅した僕は仕事の準備を整えた後、彼女からもらったCDをセットした。そうして再生ボタンを押し、さて作業をしようとパソコンに向かった時、奇妙な音楽が耳に入った。
オルガンなのはわかったが、なんだかピロピロとした高音で、メロディのパターンがつかめない。特徴的なのに特徴がなく、もしかしたらこれは子供が適当に演奏しているのではないかとすら思った。同封されていた手書きの紙ジャケットで曲名を確認する。――ナマコの乾燥胎児。曲名すら奇天烈だった。
彼女のくれたCDはすべてオルガンの曲かもしれないと思いきや、いきなり男性のシャウトと激しいドラムが部屋に響いた。ピロピロのナマコはどこに消えたのだろう。AメロBメロはデスボイス、なのにサビだけはやたらと透き通った歌声。僕の頭は完全に音楽に持っていかれた。それでもようやくヘビメタに慣れ始め、今度こそ仕事をしようとしたところで、三曲目――アイドルグループの有名な曲が流れだした。確か、メロドラマの主題歌になっていた曲だ。どうしてヘビメタの次にこれを持ってきたのか、その理由がさっぱりわからない。
アイドルたちの『下手ではないけど上手くもない』歌が終わり、ラップが始まったところで、僕は本格的にCDに集中した。これを聴きながら仕事ができるとは到底思えなかった。ミニコンポに向き合い、ぽかんと口を開きながらも真剣に音楽を聴く。ある意味で初めての体験だった。
ラップのあとは昭和のアニソン、ミュージカル、ジャズ、K-ポップ、テクノ、レゲエが流れた。僕が知っていたのはメロドラマの主題歌とアニソンくらいだ。どういう繋がりがあるのか一切わからないそのCDは、一時間ほどでフィニッシュを迎えた。
ちゃらららっちゃっちゃっちゃー。
それは僕でも知っている程度に有名な、ロールプレイングゲームの曲だった。演奏時間はわずか四秒。曲名は、
「……レベルアップ」
全曲リピートを指定していたせいで、またもやピロピロとしたナマコが流れ始め、僕はついに吹きだした。
何故かはわからないし、言葉では説明できない。けれどその時に確信したのだ。
「――そういえばこれ、選曲の基準はなんなの?」
ベッドに腰掛け、僕の作品を読んでいる亜衣に訊ねる。彼女はすっと顔を上げ、真剣な表情で言い放った。
「想像力が豊かになりそうな曲よ」
僕は笑った。想像力が豊かになるCDというのは、あながち間違ってはいない。
これを最初に聞いた時、何故だか確信したのだ。
僕は『彼女のような人間』が好きなのではなく、『彼女』が好きなのだと。




